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マリヤ・ルイバコヴァ『アンナ・グロムとその幽霊』
Rybakova,Mariia
Мария Рыбакова: Анна Гром и ее призрак
中村唯史作者について
1973 年、モスクワ生。モスクワ大学・ベルリン自由大学・イエール大学大学院で学ぶ(古典文学・文化専攻)。作家アナトーリイ・ルイバコフの孫、批評家ナターリヤ・イヴァーノヴァの娘。最初の長編『アンナ・グロムとその幽霊』は、1999 年度アポロン・グリゴ-リエフ賞の候補作にノミネートされた。筆者が確認しているルイバコヴァの作品は以下の通りである。・『霊感』(Вдохновение, 1999, Нева, №5. )
・『アンナ・グロムとその幽霊』(Анна Гром и ее призрак, 1999, Дружба народов, №8-9.
Глагол 社, 1999, 初版1,000 部)
・『女ファウスト』(Фаустина, 1999, Звезда, №12)
・『現代のヒロイン』(Героиня нашего времени, 2000, Дружба народов, №5.)
・『ストックホルムの夜』(詩)(Вечер в Стокгольме, 2000, Звезда, №5.)
・『秘密』(Тайна, 2000, Звезда, №7.)
内容紹介
モスクワで生まれ育ち、その後ベルリンで暮らしていた女性アンナ・グロムが、自分の成就しなかった恋愛について、その相手ヴィラモヴィツに宛てて書いた38 通の手紙からなる書簡体小説。ただしアンナは、最初の手紙の3日前に自殺していて、すでにこの世にいない。このことは、冒頭から読者に明示されている。
三日後
親愛なるヴィラモヴィツ!
あなたは生きている――私は死んでいる。自分の時間を死語の研究に捧げているあなたにとって、私は、きっと死んでしまった今になって、はじめて興味の対象になるのかもしれません。あなたの注意を惹くのは、いつも二千年も前に書かれた書物で、それらの著者はもうだいぶ前に死んでいます。私が死んだのはついこのあいだのことだけど、でも、生きていたときに知り合いだったのだから、あなたはきっと、この死んでからの日数の短さを気にかけずに、私の手紙を読んでくれることでしょう。私たちの最後の会話は、私がもう行かなければならなかったせいで、中途半端なまま終わってしまいました。きちんと話をつけなくては、と思う。もうおたがいに会うことはないのだから、なおさらです。だから私はあなたに手紙を書くことにしました。あなたは返事を書けないでしょうけど――でもそれは、あなたがそうするのを望まないからなのかもしれません。(c.5)
「もう長いあいだ忘れていたことも含めて、自分に起こったいっさいについての明瞭な記憶」(c.6)をもち、あらゆる場所に遍在できるために過去と現在のあらゆる現象を同時的に見聞きできる一方、すべてがすでに完結・終焉しているために、もはや世界をなにひとつ変えることも動かすこともできない――「全知と絶対的無力」(c.12)の死者が語り手であるというこの設定は、作品の主題と密接にかかわっているとともに、人物像の事前の定義や自在な逸脱を動機づける役割もはたしている。
アンナ・グロムの意図は、ヴィラモヴィツに、彼らのあいだに起きたすべてを順序だてて語ることにあるが、いっさいの記憶が同時的に押し寄せているため、死者の語りはたえまなく脱線していく。この作品は、全体としては時間軸にそって展開しながらも、無数に逸脱をくりかえす重層的な構造になっているが、このような構造は、死者が語るという設定によって動機づけられている。
『アンナ・グロムとその幽霊』の記述は、大別して(1)アンナの一生(特にベルリンに来てから自殺するまでの経緯)(2)死後の位相(3)逸脱(幼少期の記憶の哲学的・感覚的考察、自立性の高い挿話)に分類できる。書簡ごとに、最初に(2)と(3)が、その後(1)が語られる傾向にあるが、必ずしもいつも厳密に守られているわけではない。
(1)アンナの一生
アンナ・グロムは、ロシア人を父、ユダヤ人を母としてモスクワに生まれ育った。母親はアンナが12 歳の時に病死。伴侶の死後、酒に溺れている父親に対して、アンナは「のら犬に対するようなあわれみ」(c.11)しか覚えない。あり金のすべてをはたいてベルリンへのツアーに参加したアンナは、そのままこの街にとどまることにする。「5日後」から「9日後」までは、アンナの部屋さがし、不法就労のようすなどが記されていて、ベルリンにおける人種差別・搾取・詐取など、記述も比較的「リアリスティック」である。
やがて郵便会社に定職を得たアンナは、働くかたわら大学の聴講生としてギリシャ語とラテン語を学びはじめ、その一方で、数人の男性と関係を重ねていく。大学の古典学教師ドクトル・ザイブ(11日目)、才能のないフランス人画家ジャック(14 日目)、西ベルリンと東ベルリンとに住む、双子のように似ているが、たがいに一面識もない2人の男性(16 日目)との同時的な関係…この段階になると、読者はこれらの人物について客観的な情報をほとんど得ることができない。彼らについての記述はすべて、話者アンナの彼らについての認識・評価というプリズムを通過している。一例として、画家ジャックに関する記述。
ジャックは画家になるべきではありませんでした。そもそも何かになるべきではなかったのです。というのは、この若者は生まれながらに、認識する者ではなく、認識される者でしたから。
自分が描くものよりも、自身の方がはるかに絵に近い人間が、絵画を創造しようとしている情景が、私の目を娯しませてくれました。陰うつな天気の日には、彼は鉛筆書きのデッサンのように見えました。晴れた日には水彩画のようでした。(c.56)
やがてアンナは、同じ大学で古典学を専攻し、学力と偏屈で有名なヴィラモヴィツと知り合い、魅了されていく(18 日目)。彼が税関職員の家に生まれ、西ベルリンが東ベルリンに楔のように食い入っている地域に育ったこと(「境界に隣り合って少年時代を過ごしたあなたは、けっして境界から自由になることはなく、むしろそれを、まるで自分の身体の一部かなにかのように、いつも持ち歩いていたのでした。」:c.80)、彼が「神のように美しかった」(c.111)ことなどを断片的に伝えてはいるが、概してヴィラモヴィツに関する記述は、それ以前の男性達の場合にもまして像が焦点を結ばない。
アンナにとってヴィラモヴィツがかけがえのない存在である理由は、次の一文に要約されているだろう。
あなたはその存在のすべてが、絶対的な優越であり、選ばれし者であり――あなたに近づくことは、不死へと近づくことであるように思われました。(c.119)
ヴィラモヴィツは酔いにまかせて、後にも先にもただ一度だけアンナにキスをし、部屋に誘うが、彼女は拒絶してしまう(26 日目)。「今でなくても良いはずだ」と考えたためだが、アンナがギリシャへの旅(28-29 日目)から帰ってきたとき、ヴィラモヴィツはすでに彼女と距離を置くようになっている。
以後、彼のアンナに対するこの態度は、アンナのかつての恋人ドクトル・ザイブの縊死(30 日目)、ヴィラモヴィツが自分の父親や友人を彼女に紹介する(35-36 日目)などのエピソードにもかかわらず、基本的には最後まで変わらない。
作品後半部のいくつかのエピソードのなかで重要と思われるのは、ヴィラモヴィツがアンナに自分の日記の抜書を読ませていることである(33 日目)。日記の記述が、ヴィラモヴィツと「永遠」や「完全」の観念とを結びつけようとするアンナの意図を、裏書きするようなものだったからだ。
いま、自分が、20 年前に見ていたのとまったく同じ中庭を、20 年前とまったく同じように眺めているという事実は、人生が螺旋をえがきながら、結局はかつて起きたことへと戻ってくるのだという感情を与えてくれる。私の頭は新しい人々、新しい街々に満たされているが、もしそれらをかたわらに置き、身一つになれば、私は、20 年前にこの中庭を見ていたのとまったく同じ人間なのだ。(c.167)
当初から観念的なアンナの恋愛の核には、「完結」「完全」「永遠」への憧憬が見てとれる。ヴィラモヴィツは、これらの観念の具現として、アンナにかけがえがないのである。だが、アメリカに移住することを決意したアンナが、ついに自分の感情をうち明けた時、ヴィラモヴィツは「時間」に意味を持たせてしまう。
「君たちロシア人というのは…驚きだ…そとめには氷のように冷たいのに、内面は…こんなに感傷的だなんて」
感傷?感傷的なのはあなたたちだ、私たちではない。
「なにも驚くことはないわ」と私は言いました。
「でも、それにしても…あのたったの2時間でかい?」
あなたは、いつか私たちがキスをしながら酒場で過ごした、あのわずかの時間のことを言ったのです。かくもわずかの時間が、かくも大きく私の人生に作用したことが、あなたを驚かせたのです。私の方はといえば、あなたがとつぜん時間に意義を認めたことに、ただ驚くばかりでした。(c.214)
ヴィラモヴィツと別れたあと、彼女は自室に帰り、電話線で縊死する(39 日目)。「完全」「永遠」の幻影が崩れたとき、彼女に残されていたのは、「死」に身をゆだねることだけだった。
(2)死後の位相
すでに触れたように、死者はすべての記憶をひとつ残らず細部まで同時的に有している。ただしすべてが完結しているので、彼らはいっさいの感情を持たない。時間も空間もすでに存在しないから、彼らはいたる所に同時的に存在できる。
ほかの法則と同様、引力ももう作用しないのだから、死者は飛ぶことだってできます。執着ももはや死者をひきとめはしません。だれかを求めて寂しがることもない。すべての愛、すべての憎悪は至福の無関心に飲み込まれています。(c.85)
死者と生者の関係は、しかし非対称的である。
あなたは私の手紙の唯一の主題です。なぜ唯一かと言うと、死者にとっては生者こそ唯一の主題だからです。(あなた方についてよりほか、私たちにいったいなにか語ることがあるでしょうか?)それはまた非在というものが、それ自体としてはありえない、ただ存在――あなたの存在との関係においてのみ、定義できるものだからでもあります。一言でいえば、私が存在しないのは、あなたが存在するからなのです。(c.17)
けれども、これらはまだ死者の最終的な位相ではないことが、やがて明らかになってくる。アンナが手紙を書いているのは、「大陸の奥ふかくまで連なっているだろう山脈」にかこまれた「入江」(c.33)
だが、「14 日目」に水平線上に船の帆影が現れる。しだいに近づいてきた船に、アンナは「23 日目」に乗り込む。船には、生前ゲッティンゲン大学でプラトンとアリストテレスを学んでいたというセムプロニーがいた。船はいずこへとも知れず進んでいく。甲板からみえる情景は、昼は「透明な水、明るい空」(c.161)ばかり、夜はいっさいが闇につつまれる。やがて(40 日目)陸が現れる。アンナは「たえず揺れ動いていて、風に吹かれているみたいに軽やかな」「その軽やかさと無意志によって秋の枯葉を思い出させる」(c.217)無数の影を目にする。それはすべての記憶をうしない、「永遠の現在」にただよう死者たちの姿だった。アンナは、かつて父親だった影がすくってくれた忘却の水を飲み干す。「水は夜のように甘く、深い」(c.219)。
(3)逸脱
すでに述べたように、死者からの手紙という設定は、必ずしも筋とは直接の関係をもたない挿話や考察を作中に導入する大幅な自由を、作者に与えている。『アンナ・グロムとその幽霊』は、作中にちりばめられた、なかば自立したこれらの「逸脱」に、その魅力の少なからぬ部分を負っているといえる。
逸脱の多くは、アンナの少女時代の記憶や印象を取りあつかったものである。たいていは物語性が希薄で、風景や情景の意味づけ、一種の感覚遊戯などを内容とする。平均1~2 頁と、概して短い。その一例。
夜になりました。死んでから初めて夜を目にしているような気がします。船が暗い波をかき分ける音が聞こえてきます。夜の音には、特別な意味がある。むかしある村で、夜ごと、電車のがたんがたんいう音を聞いていたことが思い出されます。なにも見えないし、また見えるはずもないのですから、目を閉じないままで、自分が列車の中にいるのだと想像してみる。すると、夜全体が動きはじめ、もうなにも聞こえてこないということが奇妙に思われてきます。夜の胎動がそれほどまでに唯一絶対のものになっているからです。南部の夜の闇はあまり濃くはないので、海に行けば、月の光でできた小道に沿って泳ぐことだってできました。正確に言えば、私にできたのは、ただその小道に沿って泳ごうとすることだけでしたが。というのは、月の小道は、いつも私から遠ざかって行ったからです。私の手の動きによって作り出される静かな水音は、海水に映っている光と同じ出自のようでした。…やすらぎが、とても幸福なやすらぎがそこにはありました。(c.87-88)
作中にはまた、アンナの生前の見聞・夢という設定のもとに、いくつかの挿話も挿入されている。これらは数~10 ページにまたがり、ほとんど独立した掌編・短編として読むことができる。
ハンブルグに住んでいたヴィラモヴィツの大叔父に起きた話。彼は、ラテンアメリカからきた船員から、オウムを買う。オウムが異国の言葉でしゃべるのを音楽を聴くように楽しむつもりだったが、オウムは3週間なにもしゃべらない。だが、ある夜ふけに目をさました大叔父は、台所でオウムがなにか歌っているのを耳にする。それは大叔父が子供のころに教会でうたった歌で、オウムの声は彼の子供時代とそっくりだった。その日から、オウムは夜ごと、大叔父が
これまで過去に口にしたことのある言葉を次々とつぶやいていく。大叔父の方は、それを耳にしながら、自分が今までにおかしてきた裏切りや侮辱をひとつひとつ反芻していかなければならなかった。オウムの声はしだいに太くなり、すっかり大叔父の現在の声と同じになる。それにしても、ラテンアメリカで飼われていたオウムが、どうして彼の過去をドイツ語で語ることができるのだろう。ある晩、目をさました大叔父は、オウムが自分の父親の遺産について大声でどなっているのを耳にする。「だが親父はまだ生きている」――そう思った瞬間、彼は、オウムがすでに過去ではなく、未来のことを語りはじめていることに気づいた。恐怖に駆られた大叔父は、翌朝オウムを売り払う。(c.91-93 の要約)
死者の国へ向かう船のうえで、セムプロニーがアンナに語った、彼が死にいたるまでの物語。セムプロニーはゲッティンゲン大学の学生時代に何人かの女性と恋をしたが、ある女性との情事はなにか奇妙なものだった。というのは、彼はその女性と出会った日のうちに関係したのだが、そこにいたる経緯がどうにも曖昧なのである。翌朝、彼はこの女性のベッドの上でめざめるが、なぜか立ち去る気がせず、そのまま二日間彼女の部屋に居続ける。三日目にようやく彼女の部屋を出、日常の生活に戻ると、セムプロニーはもう彼女の姿かたちさえ思い出すことができなかった。
大学を卒業後、セムプロニーは村の教師となり、結婚もする。それから長い歳月が経ったある日、妻の誕生日の贈物を買いに街に出た彼は、人混みの中にかつての情事の相手を認める。
名前も容姿もすっかり忘れていたのに、それが彼女であるとすぐに気づいたのは奇妙だった。セムプロニーは、彼女を見ているうちに、あの情事がつい昨日のことで、その後の長い歳月はすべて夢だった、自分はいま夢から覚めて、現実に戻ってきたのだ…というようなふしぎな感覚にとらわれる。彼は誘われるままに女性の部屋に行き、そこで一夜をともにする。
翌朝セムプロニーは眠っている女性をそのままにして、家へ帰る。心配していた妻に対してどうにか言いわけをしたセムプロニーは、その晩、寝室で妻とともに眠る。だが翌朝めざめると、そこはふたたをそのままにして、家へ帰る。心配していた妻に対してどうにか言いわけをしたセムプロニーは、その晩、寝室で妻とともに眠る。だが翌朝めざめると、そこは再びゲッティンゲンのあの女性の部屋だった。セムプロニーは眠っている女性をそのままにして――夢と現実のこの無限の往還に疲れはてたセムプロニーは、ついに、ある晩を眠らないで過ごすことを決意する。
朝が来た。彼はついに迷宮を抜け出せたのだ。妻とともに街へ散歩に出たセムプロニーは、人混みの中から誰かが彼を凝視しているのを感じる。それはあの女性だった。思わず後ずさりした彼は、車道によろけ出、通りかかった車に轢き殺される。(c.100-105 の要約)
作中にはほかに、ドクトル・ザイブの少年時代の回想(c.132-143)、自分がヴィラモヴィツを殺すというアンナの夢(c.153-160・北欧神話に材を取っている)などの挿話がある。
考察: 選択としての後衛
I.
アポロン・グリゴーリエフ賞の候補にノミネートされたにもかかわらず、『アンナ・グロムとその幽霊』を直接に論じた批評はごく少ない。書評や図書紹介の記事も、その多くは、この作品における「西欧実存主義文学の伝統」という、単行本のあとがきの言葉をくり返しているだけだ。批評家たちは、この作品を敬遠するか、あるいはなかば扱いあぐねているようにみえる。
そうしたなかで注目されるのは、クリツィンが間接的ながらも『アンナ・グロムとその幽霊』を「ジャンルのある書物」と呼び、「このような本を書こうとする志向を目にするのは快い」と述べていることである。* 彼のこの印象は、おそらく正しい。ルイバコヴァは自作品のジャンルをはっきりと意識しており、しかも既成ジャンルの法則に忠実であろうと努めている。
(1) ルイバコヴァは、西欧幻想小説の系譜を意識し、これを換骨奪胎して作中に活用している。さきに引用した2つの挿話には、ドイツ風怪異幻想譚のおもむきがある。とくにセムプロニーの挿話は、
1.夢と現実が対等のリアリティーをもち、どちらがどちらなのか次第に不分明になっていく2.そこに介在しているのが「運命の女」femme fatale であるなど、あきらかにゲーテ『コリントの花嫁』やゴーチェ『死霊の恋』と同一の型を踏襲している。
もっとも、上記は部分的な事例であり、『アンナ・グロムとその幽霊』が作品全体として「幻想小説」のジャンルに属しているかどうかは、また別個に検討するべきだろう。
おそらく読者は、末尾ちかくにいたるまで、これは作者が哲学的・感覚的な考察を自在に導入するために幻想的な大枠を採用しているにすぎないという印象をぬぐえない。トドロフが幻想小説のもっとも重要な要件としている「ためらい」(『幻想文学論序説』)が、この作品には希薄だからだ。冒頭から「生者」と「死者」のあいだに明確な境界線がひかれていて、すべてが死者の側から回顧的・俯瞰的に記述される構造のもとでは、たとえどんなに幻想小説的な手法を部分的に多用したところで、読者は「ためらい」にひたることができない。
「生者」と「死者」の境界があいまいになるのは、「36 日目」と「37 日目」の間に挿入され、全文がイタリック体で書かれている箇所においてだ。これは作中、ヴィラモヴィツがアンナに宛てて書いた唯一の手紙である。アンナの遺体がすでに発見され埋葬されていること、ヴィラモヴィツが彼女の死に責任を感じていることなどが述べられたあと、手紙は、彼とその友人たちが、山にかこまれた寒村の屋敷で、退屈しのぎにアンナの招霊術をおこなったようすを語る。ヴィラモヴィツが手をそえた皿はゆっくりと「親愛なるヴィラモヴィツ!あなたは生きている――私は死んでいる…」という作品冒頭の文章を示しはじめる。
とつぜん稲光が窓を照らした。そちらに目をやった僕は、あざやかな光に照らしだされて、山へとつづく道に、アンナ、立っている君の姿を認めたのだ。君は僕の方を見て、マーシャがトランプ・ゲームの前によくするように、めくばせをしてみせた。稲妻の閃光につづいて雷鳴(гром)がとどろき、その雷鳴(гром)にだれかのさけび声が重なった。これは自分自身が叫んでいるのだと僕が理解したのは、何秒か経ってからのことだった。(c.201)
アンナの手紙は、ヴィラモヴィツが考えているとおり、すべてが彼の想像の所産なのか(「すべては僕が考え出したのだ。どうして自分自身から隠れるなどということができるだろう。」c.198)?それとも、彼が「もう書かないでくれ」(同上)と記しているにもかかわらず、その後も手紙が続いていることからみて、やはり手紙は死者からのものなのか?――この問いに答えを出すことには、そもそも意味がないだろう。重要なのは、ヴィラモヴィツの手紙の挿入から生じる「ためらい」によって、『アンナ・グロムとその幽霊』が「幻想小説」の枠内にあるということだ。
ただし、「36 日目」に唐突に登場するヴィラモヴィツの友人たちは、その直後の「ヴィラモヴィツの手紙」のなかで彼にアンナの招霊を強いるよりほか、作中に存在意義をほとんどもっていない(マーシャをのぞいて「37 日目」以降は登場しない)。これは作者の恣意性を読者に感じさせてしまうという点で、あきらかにこの作品の欠点である。あるいは、この作品がヴィラモヴィツの手紙によって、かろうじて「幻想小説」の型に収まっていることを考えれば、ルイバコヴァは、たとえ読者にかなりの違和感を与えてでも、「幻想小説」のジャンルを踏襲したかったのだというべきだろうか。
「幻想小説」への志向は、短編『現代のヒロイン』にも歴然としている。これは、アメリカ在住のロシア人女性がイタリア旅行中に病気で急逝したあと、その直前に彼女と偶然知りあっていた話者が、残されていた故人の日記を読み、またその旧知をたずね歩いて、彼女の「秘密」を知るという物語だ。
この作品にもやはり「現実界ではとおく無関係に生きている男女の、夢の世界での共生」「異界にまぎれ込んだ結果としての消滅」など、幻想小説のパターンが使用されている。ただし、異界のひとびとがあたかも主人公がそこにいないかのように会話するさまを描いたあとで、唐突に「これは私がもはやこの世に存在していなかったのだ」というイタリア語を導入する幕切れには、『アンナ・グロムとその幽霊』における友人たちの処理と同様、一種の性急さ・ぎこちなさが指摘できる。
概して、「ジャンル」や「型」を遵守しようとする志向は、ルイバコヴァにおいて、ときに短所と感じられるまでに強固である。
(2) 「完全」「永遠」への憧憬が『アンナ・グロムとその幽霊』の主題であることは、これまでの紹介・考察からもあきらかだろう。ただし、生き、動きつづけているかぎり、ひとはいやおうなく「時間」のなかにあり「変化」していくのだから、「完全」や「永遠」を生において求めようとするアンナの憧憬は、かならず破綻せざるをえない。過去のすべてを同時的に把握でき(「時間」の完結・終焉)、空間的に遍在するという位相を、アンナは死者となってはじめて得ることができたのである。死者からの生者への手紙というこの作品の基本設定は、自在な語りを確保するという技術的な要請以上に、「完全」「永遠」への希求とその不可能性という主題と密接に関わっている。
「完全」なる「永遠」への憧憬のうら返しとして、この作品では、いたるところで、「変化」への嫌悪・「時間」への恐怖が語られている。「彼自身がむしろ絵画だった」かつての恋人ジャックと「36 日目」に再会したアンナは、彼の容貌が以前と変わっていることにはげしい違和感をおぼえている。さきに要約したオウムの逸話も、主人公が「時間」によって追いつき追いこされていく点に、ぶきみさがある。
「完全」「永遠」の観念は、伝統的に「円環」「循環」と結びつくことが多いが、これらのイメージもまた作品中にくりかえし現れている。ヴィラモヴィツの日記の記述はその一例だが、『アンナ・グロムとその幽霊』という作品そのものが、1.はじめの方で登場した複数の端役が終わりの方でもう一度登場する2.末尾ちかくのヴィラモヴィツの手紙によって読者が冒頭部に投げ戻されるなど、一種の円環ないし循環構造のうえに成り立っている。
主題との関連で留意すべきは、『アンナ・グロムとその幽霊』における、「鏡」ないし「反映」
отражение のモチーフの重要性である。ディテールのレベルでいえば、この作品には、ラカンへの直接的・間接的な言及が数ヶ所にわたって指摘できる。また、とくに後半部で「鏡」ないし「反映」のモチーフが頻出している(c.196・「37 日目」のエピソード他)。「完全」の幻影が崩れて自殺する直前に、アンナは自室のあらゆる物をぶち壊すが、とくに鏡を念入りにうち砕いている(c.217)。
死者(女性)が生者(男性)に宛てて手紙を書くという設定じたいも、やはり「鏡」との連想をさそうものだろう。実際、ヴィラモヴィツとアンナとはあきらかに鏡像関係にある。生者と死者のあいだの関係は、ヴィラモヴィツの手紙以降、自意識の合わせ鏡的な無限回廊として読むこともできる。ただし、この鏡像関係は非対称的である。アンナの「非在」がヴィラモヴィツの「存在」を前提としている(「私が存在しないのは、あなたが存在するからなのです」)からだ。
女性(死者)と男性(生者)との非対称的な間係を描いた『アンナ・グロムとその幽霊』に、フェミニズム小説を見ることは可能だろうか。ルイバコヴァの他の作品の題名をみると、ゲーテの『ファウスト』Faust を女性名詞化した≪Фаустина≫ (>Faustin)、レールモントフの『現代の英雄』Герой нашего времени を女性名詞化した≪Героиня нашего времени≫など、一見、彼女にはこれまでの文学作品を、ジェンダーの観点から読みかえていこうとの志向があるかのようだ。けれども、これらの題名の読みかえは、実際には、軽い文学史的コノテーションを目的としているにすぎない。
アンナ・グロムはヴィラモヴィツに「完全」の観念を重ね合わせ、自身はその「反映」となることで、自分の生を閉じて完結したものにしようとする。ルイバコヴァは、「男性―女性」の非対称性を転倒させるのではなく、むしろ伝統的なかたちで踏襲しているのである。「男」というジェンダーによる「女」というジェンダーに対する“帝国主義的”支配の脱構築がフェミニズム批評・文学の最大公約数であるとすれば、ルイバコヴァはあきらかにフェミニズムの作家ではない。ジェンダーの問題に関していえば、彼女はむしろ保守的である。
もっとも、男性の「鏡像」であろうとする女性の願望が、ルイバコヴァの場合、かならず実現不可能なものとして表出されていることには留意しなければならない。女性が「完全」「永遠」を獲得するのは、「鏡像」関係においてではなく、それが解消された段階――具体的には「死」においてなのである。
すでに述べたように、手紙を書いているアンナ・グロムの位相は、死者として最終的なものではない。永遠の現在にたゆたう全き死者となるべく、彼女は作品の最後に忘却の水を飲み干す(「なんというかろやかさ」:c.218)。「完全」「永遠」への憧憬が実現されるその瞬間に、アンナという存在は消滅し、彼女の物語もまた終焉するのである。
女性が、男性の「鏡像」となることで自分の生を「永遠」「完結」したものにしようと願うが、その願望は、「鏡像」関係の破綻の後、「死」においてはじめて実現するというこの図式は、『アンナ・グロムとその幽霊』につづいて発表された、ゲーテとコルネーリヤ兄妹の微妙な交感を題材とした『女ファウスト』においても、短編であるだけに、よりいっそうはっきりと表れている。
『アンナ・グロムとその幽霊』は、作品の完成度や直接の影響関係の有無は別としても、完全・永遠の愛は死によってしか成就されないという認識において、単行本のあとがきが指摘する「西欧実存主義文学」よりも、むしろエリアーデ(『妖精たちの夜』)やクンデラ(『存在の耐えられない軽さ』)の系譜に連なっているといえる
(3) 『アンナ・グロムとその幽霊』が、ベルリンで暮らすロシア人女性を主人公としていることから、この作品に国民文学の枠を越えた、いわば「境界の文学」を見ることは可能だろうか。さきに言及したヴィラモヴィツの生い立ちに関する記述などからも、ルイバコヴァがこの概念に慣れ親しんでいることは明らかである。また、ルイバコヴァ自身、ロシア国外での暮らしが長く、現在もモスクワと米国を行ったり来たりする生活のようだ。
作者自身の経験を反映して、ルイバコヴァの作品のいくつかは、たしかに国境を越えたロシア人を主人公としている(『アンナ・グロムとその幽霊』・『現代のヒロイン』)。ただし、彼らには、ふたたび境界を越えて「戻る」ということがない。アンナ・グロムは一度帰国してはいるが、それは彼女にとって、むしろ「ベルリンにおける自分の不在」として重要だったのである。
ルイバコヴァには、主人公が越境したきりの『アンナ・グロムとその幽霊』・『現代のヒロイン』、18世紀ドイツを舞台とした『女ファウスト』のような作品の一方で、現代のペテルブルグを主舞台とした『霊感』『秘密』のような作品もある。だが、いずれの側の登場人物も、境界をはさんだ二つの世界に引き裂かれているのではないという点では、同様である。
ルイバコヴァはこれまでのところ、境界の内側にとどまる者か、境界を越えたきり戻らない者をしか造型したことがない。したがって、主舞台がロシアのそとに設定されていることや作者自身の経歴にもかかわらず、ルイバコヴァの作品を「境界の文学」と見なすことはできない。
II.
既成ジャンルや伝統的モチーフ・主題に対するつよい遵守意識、ジェンダーや「境界」の観点からみた場合の非革新性――ルイバコヴァはアルカイック(擬古的)な作家である。
にもかかわらず、その作品が一種の清新さを帯びているのは、彼女の意識しているジャンルや伝統が、もっぱら「西欧」、しかもその神話や文学――ギリシャ・北欧神話から、ドイツ・ロマン主義を経て、おそらくクンデラにいたる系譜――であるためだ。『アンナ・グロムとその幽霊』『女ファウスト』『現代のヒロイン』など彼女の成功している作品は、いわば伝統的ヨーロッパのロシア語への移植である。『アンナ・グロムとその幽霊』中の挿話のようなパターンをロシア語で読むのは、なかなかに新鮮な体験だ。ルイバコヴァには、同時代の作家たちとの比較をこころみるよりも、トドロフに依拠した方が理解しやすい面がたしかにある。彼女の作品は、ポストモダンを標榜する現代ロシア文化のコンテクストのなかで、きわめて「モダン」な印象を読者にあたえる。
けれどもルイバコヴァを、その擬古性のゆえに、現代ロシアの文化状況と断絶した作家と考えることはできない。断絶をみるには、彼女の志向は、90 年代文学の前衛たちと、あまりにも正確な対称をなしているからだ。
(1) 後者が「断片性」や「無意味」をめざしているとすれば、彼女の作品は、「断片」を整合して「意味」を再構築しようとの意志につらぬかれている。『アンナ・グロムとその幽霊』は、死者となることで「神の視点」「絶対知」を獲得したアンナが、すでに「完結」している「断片」をモザイクのようにつなげ、意味ある全体を再構成しようとする試みといえる。語り手のこの「意味」への志向は、作中人物の導入のしかたからもうかがえるように、ときに「断片」なしに「意味」だけを語るまでに性急である。
(2) 90 年代の前衛的な作家が、既成ジャンルをパロディの対象とし、これを相対化・流動化してきたとすれば、ルイバコヴァはこれをかたくなに遵守し、再生産している。すでに言及した『現代のヒロイン』のやや唐突な幕切れに、私はおもわず、近代のただなかに幽霊譚を復興しようとした泉鏡花『眉かくしの霊』の末尾を連想したのだが、ルイバコヴァの露骨なまでのジャンル志向は、現代文学の潮流に対するアンチテーゼを、彼女がきわめて意識的に創出しようとしていることをうかがわせる。
「アルカイスト」を「エピゴーネン」から分かつのは、自作品がその属するコンテクストにおいてはたす機能に対する計算・意識の有無だろう。典型的な幻想小説に固執するルイバコヴァを「エピゴーネン」ではなく「アルカイスト」と見なしうるのは、その西欧的・伝統的文学の再生産が、現代ロシア文学の流れを意識しつつ行われていると考えられるからだ。ポストモダンと呼ばれる季節にモダンな小説を書きつづけるルイバコヴァの営為には、フォルマリストとして1920 年代の芸術的前衛を積極的に擁護しながら、小説家としては歴史冒険小説のジャンルを選んだトゥイニャーノフに類する、一種の複眼性が指摘できる。
ただし、後衛であることを選択したルイバコヴァの方向性が、今後ゆたかな結実を見るかどうかについては、現時点ではなお見解を保留しなければならない。
(1) ルイバコヴァは、ロシアを舞台とした作品で、まだ一度も成功していない。たとえば、ヘッセ『春の嵐』のような「音楽家小説」のジャンルをロシアの土壌に移植しようという、短編『秘密』における試みは、ロシアの現実や日常に絡めとられる結果となって、無残な失敗に終わっている。ドイツやイタリアを舞台として自在に観念や抽象を重ねていくことのできるルイバコヴァは、しかしロシアを舞台とした場合には、ソ連文学的な意味での「リアリズム」に絡めとられてしまう。伝統・ジャンルに対するつよい遵守意識が裏目に出ているかたちだが、ルイバコヴァは、今後もしもロシアを舞台とする幻想小説を書こうとするなら、『アンナ・グロムとその幽霊』において西欧の神話や文学的伝統を駆使したのと同様に、ロシアの神話や民間伝承を換骨奪胎して用いる必要がある。彼女の素養がはたして、この方向に進みうるものかどうか。
(2) たしかにルイバコヴァは巧みなストーリー・テラーであり、また既成ジャンルの安定した構造に則って作品を生産するという点においても、それなりの「大衆性」が指摘できる。ただし、すでにみてきたように、彼女の作品と志向においては、西欧の神話や幻想小説の系譜が決定的な役割をはたしている。したがって、それらを知悉していない読者層に対しては、ルイバコヴァの方法の核にある文学的・文化的コノテーションは、かならずしも有効には作用しないだろう。広範な層を読者として想定するには、ルイバコヴァはあまりにも「純文学」の枠内にいる。
一方、文学的・文化的コノテーションを感得するであろう、いわばプロフェッショナルな文学読者層に、ルイバコヴァの試みが積極的に受容されるかといえば、これにもまた疑問がのこる。プロフェッショナルな読者層は、ロシア・ソ連文学の伝統を懐かしみ、これに固執する人々と、国外の文学を知悉しつつ前衛的・実験的作品を志向する人々とに、二極分化しつつあると考えられる。とすれば、意識的に西欧的かつ後衛であろうとするルイバコヴァが、このような読者層のあいだに強い支持を獲得する可能性は、高いとはいえないのではないだろうか。すでに言及した『アンナ・グロムとその幽霊』に対する論評の少なさは、この推測を裏づけているように思われる。
ルイバコヴァが直面しているのは、ただでさえ急速に縮小している文学読者層が、さらに通時的にも共時的にも断絶し、たがいに孤立している(伝統の喪失・コノテーションの無効/関心の分岐・タコつぼ化)というポスト・モダン的状況だ。おそらくは意識的な作家である彼女のアルカイズムは、この状況に対する異議申し立てである。この意味で、ルイバコヴァ文学の展開と、彼女に対する批評家・読者の評価の如何は、ロシアにおける今後のポスト・モダン的状況(進捗か回帰か)を判断するうえで、ひとつの指標たりえるだろう。
――けれども彼女は、いつの日か、あるいは虚空に向かって書くことになりはしないだろうか・・・
*Современная русская литература с Вячеславом Курицыным: Курицын weekly, 1999, выпуск. 39.
(http://www.guelman.ru/slava/archive/25-12-99.htm)