●ペトルシェフスカヤ、リュドミーラ Petrushevskaia, Liudmira
童話 Skazki
解説 今田和美
童話作家としてのペトルシェフスカヤ
小説家・劇作家としては評価も知名度も高いペトルシェフスカヤが、かなり多くの童話を書いていることはあまり知られていない。停滞期のソヴィエトで閉鎖的な児童文学界に参入をはばまれ続けてきたためだ。1960年代半ばから書きためられた童話は71年以降単発的に新聞・雑誌に掲載されてきたとはいえ、掲載の殆どはペレストロイカが本格化した80年代末以降であり、正式な童話集の出版は96年の5巻全集の第4・5巻の出版でようやく実現したのである。
童話集(単行本)
Lechenie Vasiliia. Kinotsentr, 1991.
Zhil-byl Trr!. Vek2, 1994.
Sobranie sochinenii v piati tomakh. T.4, T.5. FOLIO/TKO AKT, 1996.
Nastoiashchie skazki. VAGRIUS, 1997.
作品紹介
主人公や作風、テーマにより様々なグルーピングが可能だと思うが、ここでは 96 年出版の5巻全集の第4、5巻で作者自身が行っている7つの分類(ただしこれも殆ど根拠がなく、あくまで便宜的なもの)に従い、いくつか作品を紹介する。
(1)Nechelovecheskie prikliucheniia(人間以外が主人公のもの)
動植物や食器、乗り物、道具、天体、はては間投詞まで、主人公は多岐にわたる。
「キャベツちょうだい! (Dai kapustki!)」(全訳)
子うさぎが窓際に座って、キャベツを食べていました。
そばを山羊が通りかかって言いました。
「キャベツちょうだい!」
子うさぎはキャベツをあげました。すると山羊は、それを食べて言いました。
「なんておいしいキャベツだろう! もっとちょうだい!」
子うさぎは、またキャベツをあげました。山羊はそれを食べて言いました。
「なんておいしいキャベツだろう! もっとちょうだい!」
子うさぎは、またキャベツをあげました。山羊はそれを食べて言いました。
「なんておいしいキャベツだろう! もっとちょうだい!」
子うさぎは、今度は紙切れをあげました。山羊はそれを食べて言いました。
「わお、なんておいしいキャベツだろう! もっとちょうだい!」
子うさぎは布切れをあげました。山羊はそれを食べて言いました。
「わーお、なんておいしいキャベツだろう! もっとちょうだい!」
子うさぎは新聞をあげました。山羊はそれを食べて言いました。
「わおわーお、なんておいしいキャベツだろう! もっとちょうだい!」
子うさぎはテーブルクロスをあげました。山羊は一生懸命それを食べましたが、食べきれなかったので家へ持って帰って子山羊たちやおじいさん山羊に食べさせました。
そこへ子うさぎのお母さんが帰ってきて、こうたずねました。
「うさぎちゃん、テーブルクロスはどこ?」
「だけどキャベツがあるよ、さあ座って、ママ!」と子うさぎは答えましたとさ。
(2)Lingvisticheskie skazochki(言語学的小童話)
発音した時の言葉の面白さのみを追求した、似て非なるロシア語で書かれた実験的作品で、二作のみ。ロシア語を母語とする人なら意味を類推できるらしいが、翻訳は殆ど不可能に近いように思う。Korsakov によれば、以下に引用する作品は 20 年代にアカデミー会員のシチェルバが言い出した、ロシアのフィロロジーではかなり有名なフレーズ (Glokaia kuzdra shteko kudlanula bokra i kurdiachit bokrenka) の論理的続きだそうである。
Pus'ki biatye
Siapala kalusha s Kalushatami po napushke. I uvazila Butiavku, i volit:
- Kalushata! Kalushatochki! Butiavka!
Kalushata prisiapali i Butiavku striamkali. I podudonilis'.
A Kalusha volit:
-Oee! Oee! Butiavka-to nekuziavaia!
Kalushata Butiavku vychuchili.
Butiavka vzdrebeznulas', sopritiuknulas' i usiapala s napushki.
A Kalusha volit Kalushatam:
-Kalushatochki! Ne Triamkaite butiavok, butiavki diubye i ziumo-ziumo nekuziavye.
Ot bytiavok dudoniatsia.
A Butiavka volit za napushkoi:
-Kalushata podudonilis'! Ziumo nekuziavye! Pus'ki biatye!
(3)Prikliucheniia Barbi(バービー人形が主人公のもの)
もとは「オクチャーブリ」誌 96 年1号掲載の "Malen'kaia volshebnitsa -Kukol'nyi roman-"と題された長編童話。その最初の数章が独立した短い童話として96年の5巻全集第4巻に収録されたのち、全編が97年出版の童話集に収められた。魔法使いによって地上に送られたバービー人形マーシャが、魔法によって半盲の老人イワンを助けながら、世界制覇をもくろむ悪い魔法使いたちをやっつける、というあらすじ。根拠はないが、アニメ化を狙って書かれたものでは? と思わせる。
(4)Prikliucheniia s volshebnikami(魔法使いの出てくるもの)
魔法使い(必ずしも作中に登場するわけではない)が魔法によって、窮地に陥った人間たちを救ったり、奇跡を起こしたり、平穏無事だった人間の暮らしを引っ掻き回す話。
「父親(Otets)」(あらすじ)
我が子をどうしても見つけられない父親がいた。子供が男か女かも、どんな顔かもわからない。
ある真冬の夜遅く、男は老婆の重い荷物を彼女の家まで運んでやった。老婆は礼を言う代わりに、電車に乗って「40キロメートル」駅へ行けという。半信半疑ながら、休日に出かける男。駅に着くともう夕方で、男は踏み慣らされた森の小道伝いに小さな小屋へ辿り着く。中は清潔で暖かく、食卓には食事の用意がしてあった。少し飲み食いして食卓に料金を置き、眠る。
突然ノックの音。入ってきたのはぼろぼろの服を着た老人の様な顔をした少年で、自分が誰かも知らないし、ここに住んでいるわけでもないという。少年の面倒を見てやる男。寝かしつけようと長持ちを開けると、子供用の服や寝具が沢山入っていた。眠る二人。
再びノックの音。入ってきたのは、吹雪にあって凍えた裸足の女。食事をし暖まると、女は美しく変貌、少年はずっと捜していた自分の子だという。子供の顔も見る見る変わっていくのを見て少し恐くなった男は、荷物をまとめて駅へ向かう。ところが数時間後またさっきと同じような小屋につき、中に入ると食料や、今度は冬用の子供服が。男は子供の服や橇、女性用の防寒靴を手にもといた小屋へと引き返すが、もう誰もいなかった。女が子供を連れ去ったらしい。二人に追いつく男。女もまた、あの老婆から「40キロメートル」駅へ行けと言われていた。
突然子供がどんどん小さくなり、殆ど赤ん坊に。子供を連れて小屋へ急ぐ二人は、すでに自分たちが最初に会った場所も駅の名前も忘れていた。覚えていたのは、とても大変な夜、長い道のり、孤独で辛い時期があったことだけ。しかし、彼らには子供が生まれた。彼らは探していたものを見つけたのだ。
(5)Korolevskie prikliucheniia(王国もの)
王子様や王女様、魔法使いが登場、奇跡がおこって…という話。現代という時代設定の新しさはあるが、古典的な王国ものと比べると作品としてのレベルははるかに落ちる。ペトルシェフスカヤの童話中、最も出来が悪いグループ?
(6)Prikliucheniia liudei(人間が主人公のもの)
人間が主人公とはいえ、やはり奇跡や魔法と関わりのあるものが多い。
「バラ(Roza)」(あらすじ)
ある男が、突然バラの香りを放ち始めた。家族はバラの香りに飽きてしまったが、男にはどうすることもできない。料理も犬もごみ箱もネコもネズミもバラの香りがするので、ネコはネズミを捕らなくなり、ネズミがどんどん増えた。
不幸な男は治療してもらおうと植物研究所へ行く。男は白とピンクの混ざったバラであることが判明し、植木鉢に植えられ、添え棒をあてがわれて日に三度水を与えられる。そのうち鼻風邪をひいて赤くなった男は、赤いバラと名付けられるように。
風邪が治ると、教授たちは男が何色なのか見極めることができず、淡いピンクで無臭の新種のバラを作り出したと発表(男は治療の過程で香りを失っていたのだ)。見学者がひきもきらず、男は出張講演会にも出かけて行く。そのうち水やりで鍛えられた男は、「赤いモスクワ」という香水を自らに振り掛け、インタビューも受けるようになる。男が唯一嫌いなのは畜糞でできた堆肥だったが、花は自由のない生き物であり、今では男は花として暮らして行かなければならないのだった。
(7)Dikie zhivotnye skazki(ばかげた低級な話)
雑誌(「新世界」)や新聞(「首都」)に部分的に発表された後、5巻全集の第5巻(全250頁)に収録された。登場人物がすべて動物の大人向けナンセンス童話。ペトルシェフスカヤ自筆の挿し絵付きで、彼女の絵の才能も垣間見ることができる。挿し絵からもわかるとおり、動物は明らかに人間(とその生活)を寓話的に描くための手段である。痛烈な皮肉とブラック・ユーモア溢れる興味深いアネクドートのような小品(一話1〜3頁)群だが、現代ロシアの生活を知らないと面白さが半減するし、言葉遊びが豊富で外国語に訳しにくいという難点が。
最後に全登場人物のリストを載せるなど、これもアニメ化を想定して書かれたのでは? と思わせる。
「メエメエ(Meme)」
ある時、子沢山の山羊の母マーシュカがワインを買いに行った。長男が1時間後に結婚することになったのだ。夫のトーリクは、食べ物に執着がないのを見込まれてキャベツ畑の番を頼まれる。しかし、不幸にも狼のセミョーン・アレクセーヴィチが近くをウィスキーの瓶を手に散歩していた。
マーシュカがポートワインの箱を担いで帰ってくると夫の姿は畑になく、蝶のクジマがペディキュア用の鋏でキャベツの葉に透かし彫りを施している最中だった。クジマを捕まえようとワインの箱を置いて走り回るマーシュカ。その間にトーリクとセミョーン・アレクセーヴィチはワインを全部飲んでしまう。
仕方がないので、長男の結婚式には、マーシュカの持っていた試供品の香水や足用ローション、アフターシェービング・ローションを供すはめに。おまけに、セミョーン・アレクセーヴィチが招待されてもいないのに誰にも負けないくらい飲んだ。
その頃マーシュカは、ごみ穴に隠れたトーリクを罵っていた。トーリクは「メエメエ」と答えるだけだったとさ。
作品の特徴
・ペトルシェフスカヤ作品の例に漏れず口語・俗語が多用されているが、子供を対象にしていることもあり、小説や戯曲に比べればずっと読みやすい。
・“一晩で読み切れる”短さ
・ハッピー・エンド
・一部の作品(例えば「父親」「アンナとマリヤ」「壁の向こうで」)は、日本の「牡丹灯篭」に影響を受けて書かれた“スルーチャイ”という大人向けの怪談風の短編に非常に近い。相手が大人と子供という違いはあるにせよ“語り”というパフォーマンスを意識して書かれた作品だからだろう。
・童話というジャンルの例に漏れず、勧善懲悪や教訓的な色彩の濃い作品が多い。
・時代設定が現代なので、童話と言えどもかなりリアリティを感じさせる。貧困や飢え、片親家庭、飲酒、幼児虐待など、現代人である読者にとってアクチュアルな社会問題が多数織り込まれており、現代ロシア人(特に都市の底辺層)の生活の百科事典にもなっている。
・「作品の核は子供」「私は子供の味方」という作家自身の言葉は童話にもあるとおり、親子(特に母子)にまつわる話が多い。
・現実の暗い面だけを執拗に追い、リアリスティックな手法で描き出すおなじみの短編小説からは想像し難い、吹っ切れたような明るさがある。戯曲や小説に救いがない分、砂漠のオアシスのように明るく楽しい童話を書くことで、創作全体としての(そして自分自身の精神の)バランスを保っている感あり。それとも、本人がインタビューでも語っているとおり、これは計算し尽くされた“読者とのゲーム”なのか?
童話作家としての評価
とにかくペトルシェフスカヤの場合、“チェルヌーハ”と呼ばれる、『時は夜』をはじめとする一人称あるいは三人称の女性を語り手とするモノローグ小説の印象が強すぎる。従って、あくまで軽い読み物の域を出ない童話は、やはり彼女の代表的ジャンルとは呼び難い。他の作家の童話をそれ程読んでいないので童話作家としての彼女の力量をうんぬんすることは留保するが、作品の出来にはかなりばらつきがあり玉石混交の感は否めない。少なくとも、チュコフスキーやマルシャークのように長く後世に残るレベルのものではないだろう。
ただし、彼女の作品世界(特に小説)の救いようのない暗さの印象をさわやかに裏切ってくれると言う意味では、ジャンルを次々に変えて読者の作家観を揺さぶるというペトルシェフスカヤの“読者とのゲーム”は大いに成功している。現代ロシア文壇で、大人向け純文学と児童文学をまたにかけて創作する実質上唯一人の作家としての存在価値は大きい。元来ジャンル区分にとらわれない創作をする作家だが、様々なジャンルの作品を書くことは、明らかに彼女の作品世界を豊かなものにしている。
参考資料:
(1) Glas 13 a Will and a Way : New Russian Writing. N.Perova(ed.) 1997. にFairy Tales for Grownup Childrenと題して三作が翻訳されている。
(2)Korsakov, D. Volshebnik s peidzherom pobezhdaet butiavok. Komsomol'skaia pravda, 10-IX. 1997.
(3)童話に関する作家本人のコメント(インタビューより抜粋、編集)
(96 年 7 月 3 日/モスクワ/聞き手は沼野充義氏)
Q.なぜこれまで、あなたの童話は発禁だったのか?
A.停滞期には戯曲、翻訳、詩、児童文学など、文学の部門ごとに各々の掟があった。非常に謎めいていて閉鎖的な部門だったのがセルゲイ・ミハルコフをリーダーとする児童文学。児童文学は旧ソ連では国家の特別な庇護下にあった。「子供には最も大切なものを」というわけで、児童文学を最も高尚にするために、「作家は児童書ならば年に何冊出版してもよく、冊数に関わらず100%の原稿料を受け取る」という決定が下された。その結果この部門には、四半世紀にわたって児童書を年に5、6冊、それも同じ本を繰り返し出版するミハルコフ、アグニ・バルトなど5、6人の作家がいた。この最も実入りの良い部門に入り込むのは不可能だった。彼らががっちりと部門の境界を守っていたから。
言葉を理解するようになった長男のために、1965年くらいから童話を書き始めた。従って私の童話は、もう30年以上単行本として出版されていないことになる。ペレストロイカが始まった時、私の童話集は出版社にすでに15年くらい眠っていた。小説集は出版されたが、きちんとした童話集は結局出なかった。
初の童話集『ワシーリィの治療 (Lechenie Vasiliia)』(単行本というよりは薄い冊子)は、91年に映画の脚本集としてカムフラージュし、出版した。収録8作品のうち実際に映画化されたのは3作だけで他の作品に映画化の予定はなかったが、現在制作中ということにした。勇気ある編集者が思い付いた小細工だ。今回の5巻全集の第4巻(童話の巻)には60作ほどの童話が収録されている。さらに最近2年間で10作ほど書いたから、合わせて70作。とにかく私は、非常に沢山の童話を書いた。
Q.童話はあなたにとって重要なジャンル?
A.重要だ。私は特別な思い入れを持って童話を書いている。これは一種の読者とのゲームだ。私の恐ろしい悪夢のような小説を読みなれた読者が、ある日劇場へやってきて喜劇を観て大笑いし、奇妙な感覚を覚える。つまり、読者の目の前で私という作家像が分裂していく。「ペトルシェフスカヤというのは一体どういう作家なのだろう?」と。
そうした感覚にとどめをさすのが童話。私の童話は、必ずハッピー・エンドだ。それが童話の法則だから。
Q.それは、童話を子供のために書いているから?
A.そう。書いた童話は、いつもまず自分の子供たちに話して聞かせる。子供は不幸な結末を許さない。結末が不幸だと寝付かない。
童話を書くのは自分自身の喜びのためでもある。童話を書くのはとても楽しい。そして、童話にだって多くの主張を込めることができる。それも直接的な表現で。小説ではすべてがカムフラージュされ、隠されているため、読者はそれを自分で掘り起こさねばならない。つまり、作者の主張に到達するには沢山考えなければならない。ところが、童話においては、すべてがわかりやすい形で提供されている。
私は今のところ、ロシアで唯一の短編童話(一晩で読みきれる童話)作家。これはホフマン、アンデルセンなど19世紀的なジャンルだ。今世紀初頭にもオスカー・ワイルドなど、そうした短い童話を書いた作家はいたが、その後児童文学の作家はずっと賢くなり、短い童話から長編が書けると気付いた。長編だとずっと原稿料が高い(笑)。私が童話を書き始めたのはまだ作品が活字にならない時期だったので、原稿料の多少はどうでもよかった。だから私は、自分にとって必要だと思われる分量の作品を書いた。童話自体は短いものだが、それぞれ長編や映画の脚本のタネになりうる。ただ、私は金銭的な問題から自由だったために、童話を自分自身のために書いた。
(96 年 9 月 8 日/モスクワ/聞き手は今田)
A.子供向けの童話も大人向けの童話も、基本的に差はない。私は、子供向けの童話はすべて大人が読んでも楽しめるように書いている。小さな子供に童話を読んで聞かせるのは大人だから、その大人が退屈しないようにするために、私は自分自身楽しめるものを書いている。
A.私のテーマは子供。世界における子供、子供の運命、子供の本質。演出家のエフエーモフ曰く「ペトルシェフスカヤの作品はすべて子供についてのものだ」。私の殆どの作品の内的核となっているのが子供の話。生まれた子供と生まれなかった子供たちの。
Q.最近、あなたの文学の方向転換が話題になっている。92年に『時は夜』発表以降、従来のリアリスティックな小説や戯曲を書かなくなり、童話や“スルーチャイ”と呼ばれる怪談風短編、長詩を発表し始めたが?
A.ジャンルを変えるのが非常に好きなだけ。ここ数年、わざとリアリスティックな短編は発表を控えてきた。他のジャンルに遊んで読者の反応を見てみたかったから。作家なら誰でも自分なりに読者とゲームをする。私にとっては、それは様々にジャンルを変えること。ずっと同じジャンルで書くことはできない。ジャンルが使い古されてしまうから。