●ペレーヴィン, ヴィクトル Pelevin, Viktor
「チャパーエフとプストタ」 Chapaev i Pustpta. Znamia, No.4-5, 1996/vagrius, 1997.
解説 望月哲男
1.作家について
作者ヴィクトル・ペレーヴィンとその作品については井桁貞義氏の紹介(本報告輯No.7)を参照。
本作はこの作家の新作であり、恐らく最も長い作品である。
2.作品について
『チャパーエフとプストタ』 Chapaev i Pustota. Znamia, No, 4,5, 1996.
1)構成
短い序文と10の章からなる小説。
作品はピョートル・プストタ(空)という奇妙な名前を持つ作家・分裂病者の記録という形をとっている。
主人公の人格は大きく二つに分裂しており、一方は革命直後の、他方は現代のロシアに属している。一方の世界では、彼は自らが殺した知人になり代わって赤軍の政治将校となり、内戦時の伝説的な英雄チャパーエフ(18年に戦死した実在の人物で、フルマノフの同名の小説、30年代の映画、数々のアネクドートの主人公として有名)の東方遠征に加わって、数奇な体験をする。もう一方の彼は、現代のモスクワ郊外の精神病院で分裂病の治療を受けている。主治医チムール・チムーロヴィチによる集団治療という方法のおかげで、彼は自らの幻覚(別人格の経験)の他に、3人の同僚患者の幻覚を順次共有することになる。
医師とチャパーエフのそれぞれのすすめで、彼は自らの心的体験の全てを記録する(その記録がこの作品テクストの本体をなしている)が、そこには1918年の一連の出来事とともに、現代の複数の人物の幻想体験が含まれる。作品は奇数章に革命期の、偶数章に現代の体験が描かれるという構成になっている。
過去と現代の両自我は、互いを内包するような複雑な関係にある。従って主人公の手記が二つの時代に存在し、チャパーエフと医師がともにそれを読みながらコメントするといった状況が現れる。しかしどうやら優勢なのは革命期の人格であり(作者は序文で、この手記の全体が20年代前半に内モンゴルの僧院で書かれたものであると主張している)、それが現代の場面での愉快なアナクロニズムを生み出している。例えば主人公にとってブローク、マヤコフスキー、ブリューソフ等が同時代人であり、ナボコフといえば後の作家ではなく立憲民主党の代表である。その一方で彼はシュワルツネッガーやグレベンシチコフ、マグドナルドハンバーガーといった現代世界のイメージ群を相手にしなければならない。こうした彼の意識の中で、現代ロシアと革命期ロシアとの間の奇妙な対比や類推が展開される。
2)内容紹介
1)第1章:1918年2月モスクワ
ぺトログラードの作家ピョートル(26才)は、彼の詩の脚韻(bronevik/lish' na mig(装甲車/もう少しや?)を不謹慎と見なした非常委員会(チェカー)に追われて、モスクワに逃げ延びる。彼は偶然出会った旧知の作家フォン=エルネン(別名ファネルヌィ)に事情を話すが、すでに非常委員会の手先となっていた相手が彼を逮捕しようとしたため、相手を殺害してしまう。その遺品から彼はジャンパー、身分証、金とコカインを入手、非常委員会の一員ピョートル・ファネルヌィを名乗る(この殺害場面は、次のいくつかのシーンとともに『罪と罰』のもじりとなっている)。
状況の赴くまま、彼は委員会から派遣された二人の人物(ジェルブーノフ、バルボーリン)とともに、退廃的な文芸キャバレー<オルゴールのタバコ入れ>に教宣活動に行くことになる。そこにはブリューソフやアレクセイ・トルストイらの文人がいて、「エゴ・へそ派」風ポストリアリズム劇や、小悲劇『ラスコーリニコフとマルメラードフ』といった、実験的な演しものが行われている。麻薬入りウオッカを飲んだ主人公は、舞台でにわか作りの革命的ソネットを朗読し、発砲して大混乱を引き起こす。
2)第2章:現代、マリヤの夢
(主人公の意識では)翌朝、彼は独房のような部屋で拘禁衣に包まれて目覚め、非常委員会に正体がばれたかとの危惧を抱く。しかし目の前に現れるのは、2名の医局員(非常委員会の手先と同名のジェルブーノフとバルボーリン)および精神科医のチムール・チムーロヴィチ・カナシニコフである。彼はこの馴染みのない世界で、重度の分裂症患者として扱われていることを認識する。
医師は主人公の症状を、ソ連後の社会環境への不適応の結果、すなわち外界秩序の瓦解が意識に反映し、方向を失った内的エネルギーが精神世界を混乱させている状態だと説明する。両者の間でユートピア志向の二つのタイプ(東洋的原初志向と西欧的未来志向)、社会の変化の動因などについての会話がなされる。主人公はその過程で、自分の喪失した過去の記録が、すべて医師のもとにあることを知る。
病院で彼は集団治療に参加する。これは分裂病者同士が幻想的な自我の経験を共有し、その過程で自己に固着した虚偽の自我を相対化することにより、病的状態を脱してゆくというものである。
第1の幻想提供者はマリヤと呼ばれる男性。ホワイトハウス砲撃事件時に流れ弾を受け、正気を失った人物である。この人物の意識においては、93年10月事件当時の雰囲気と、ロシアで流行したメキシコのテレビドラマ『ただのマリヤ』の主人公、同じく人気映画のアーノルド・シュワルツネッガーといったモチーフが、まとまって一つの現実空間をなしている。幻想の中では、ただのマリヤに同化して世界の悪を滅ぼす圧倒的な力を夢見ている彼の前にシュワルツネッガーが登場し、彼(彼女)をジェット機の機体に載せて、CNNの中継する騒乱のモスクワ上空を飛行する(幻想自体の中で「ただのマリヤ」とシュワルツネッガーがともにロシア人の共同幻想の媒体であり、このストーリーがロシアと西欧の錬金術的結婚を象徴するという解釈が与えられている)。幻想のマリヤは飛行の果てに機体から振り落とされ、オスタンキノのテレビ塔に衝突する。
主人公ピョートルはこの全てを自らのことのように経験し、さらに夢の中で後日談を発展させる。そこではマリヤとの結婚の結果、シュワルツネッガーが妊娠している。
3)第3章:1918年2月、モスクワ
第1章の事件の翌朝、殺害したフォン・エルネンの部屋で目覚めた主人公の前に、前夜の文芸キャバレーにいた黒い詰め襟服の男が登場、赤軍の指揮官ワシーリー・イワーノヴィチ・チャパーエフと名乗りながら、ピョートルを東方戦線へ向かう自らの騎兵師団の政治将校にスカウトしたいと申し出る。ピョートルは相手に尋常でないものを感じつつ、本能的な信頼感を覚えて、これを受諾する。チャパーエフは魔術的な雰囲気に充ちており、ヤロスラヴリ駅へ向かう快適な装甲車の中で、レーニンの姿を剣の刃面に映し出して見せたりする。
戦線へ向かうイワノヴォの織工たちでごった返す駅で、ピョートルは同じ政治将校のフルマノフ(小説『チャパーエフ』の作者と同名)と出会い、不吉な印象を受ける。兵士民衆に対しては、彼らが従来とは別の仕方で、しかし相変わらず欺かれ続けているという感想を覚える。チャパーエフから要求された兵士たちへの訓辞を、彼は「今日この目でレーニンを見たぞ。ウラー!」という絶叫でごまかす。
戦地へ向かう列車の優雅な客室でくつろいだ彼は、晩餐の場で、チャパーエフに従う短髪の美人機関銃射手アンナと出会い、心を引かれる。同時に彼はこの全てに、夢のような、仮面舞踏会のようなものを感じる。
アンナたちに促されて兵士たちの乗る後続の貨車を見に行くと、そこでは延々と続く真っ黒な貨車の中から人々の歌声が聞こえている。彼がその光景を、人間が引きずって行かなければならない暗い過去に例えると、チャパーエフはそうした発想が誤った先入観に過ぎないと主張し、過去が切り捨て得ることの証拠として、兵士たちの貨車を切り離してしまう。
4)第4章:現代、病院
連続夢から醒めた主人公は、薬物の作用もあって現実感覚の奇妙なズレを感じる。覚醒する度に現実状況を忘れているばかりか、人物の出現とその背景の認知とに時間差が生ずるのである。こうした状態で、彼はすでに見知っているはずの3人の同僚患者(前出のマリヤ、新ロシア人を思わせる坊主頭の巨漢ヴォロディン、インテリ風の髭の男セルデュク)をあらためて認識する。彼は彼らから、自分の苗字がプストタ(空)ということ、自分の病気の原因が、己の人格を全否定して、架空の人格に取り替えてしまったことにあるということを聞かされる。
医者チムール・チムーロヴィチは皆に向けて、自らの「ターボ・ユング式療法」を説明する。それは薬物の力で患者に固着したシンボル世界を強引に表面化し、解読するというものである。
アリストテレスの胸像を皆で写生する「美術療法」を受けながら、主人公は同僚たちが過去に作成した「作品」をながめる。マリヤの作品は男根を連想させるジェット機、セルデュクのは崖淵に立つ半裸の武士をはじめとした日本のモチーフ、ヴォロディンのは焚き火を囲む3人の男に光が当たっている図柄である(これらはそれぞれ前後の各章の幻想夢の内容を暗示している)。主人公自身の絵には、遠近法を欠いた構図の中に、彼のもう一つの人格が遍歴した場所(ペトログラード、モスクワ、中央アジア)、経験した事件や出会った人物たちが無数に描き込まれている。中央アジア編の戦闘場面の図柄と、戦地へ向かう汽車との間の空白が気になった彼は、そこを榴散弾の破裂を表す図柄で埋めてゆく。
昼寝時間に彼は医師の部屋に忍び込み、自分に関する情報を盗み読む。それによれば彼の病根は自分の姓への嫌悪にあって、14才の頃から厭人癖を示し、長じてヒューム、バークリ、ハイデッガーらの空や無に関する著作に読みふけったという。やがて自らの中に複数の自己の合唱や争論を聞き取るようになり、内部矛盾が解決できぬことから極端な不決断に陥る。これと並行して、中国哲学の影響、自由な思考による現実超越への意志、衆を超越した覚者の意識、人民の前での演説願望などが観察されている。
この日、現実は幻想か否かという問題に発する分裂病者たちの喧嘩に巻き込まれた彼は、マリヤに唯物論者の先祖アリストテレスの胸像で頭を殴られて昏倒する。
5)第5章:1918年6月、中央アジア
主人公は、中央アジアのアルタイ・ヴィドニャンスクという小さな町で我に返る。第3章の出来事からすでに4カ月が経過しているが、彼はその間の事情をすっかり忘却している。病床の彼に付き添っていたアンナによれば、彼は4月初めのロゾヴァヤという駅での戦闘で活躍し、頭部に弾を受けて、ショックで気を失ったのである。
彼はアンナを誘って町のレストランへ行くが、相手への愛情のほのめかしは悉く拒否される(彼はアンナがチャパーエフの姪であることを知る)。彼女によれば町には白軍と赤軍が半々で、チャパーエフの師団はすでに3分の2の兵を失っており、全体の戦況は全く不明である。
現実は空であり全ての女は夢魔であるという彼のテーゼをめぐるアンナとの口論のはてに、隣のテーブルの男と喧嘩騒ぎになるが、そこにアンナとチャパーエフの秘密に通じているらしい男グリゴリー・コトフスキーが割って入り、アンナを独占してしまう。
帰り道、宿舎脇の風呂小屋で彼はチャパーエフと再会し、ドブロクを振る舞われる。ふと始まった哲学風の会話で、チャパーエフは「どこで」「いつ」「誰が」の3概念を基本とするソフィスト的な弁論を用いながら、「おまえは誰か」「おまえはどこにいるか」といった答えのない問いに主人公を追い詰める。もし全世界が私のうちに存在しているとしたら、私自身はどこに存在しているのか。またもし私が世界の中に存在しているのなら、私の意識はどこに存在しているか。矛盾した弁証の天秤をぶら下げる場所の曖昧さに主人公は辟易する。チャパーエフを満足させるひとつの答えは、私は「どこでもない場所(Nigde)」にいるというもの。またもう一つの答えは(彼が馬を指し示して答えるように)「ほらここにいる」というものである。
この晩、彼はインテリゲンツィア批判を口実に彼の部屋に立ち寄ったコトフスキーの申し出で、コカインの半分と相手の馬車とを交換する。
この晩の主人公の眠りが、集団療法の一員セルデュクの幻想に直結する。
6)第6章:現代、セルデュクの夢
同じく新社会に居場所を失った者らしいセルデュクは、マクドナルドを包んだ新聞の広告をきっかけに、日本の商社「平商事」の求人に応募、マネージャーの川端義経の面接を受けることになる。
昼夜にわたる両者の会見の模様は、紋切り型日本イメージの戯画となっている(同社のオフィスは日本的伝統様式とテクノロジーの折衷であり、訪問者は下駄にはきかえ、提灯を持って漢数字で書かれた部屋番号を頼りに進み、襖の前で咳払いをする。川端は畳の部屋で着物を着ており、来客にまず燗酒をすすめる・・・)。川端の経営観、人生観には、平安的美意識、仏教哲学、武士道的倫理などが混在している。彼によれば政治と商売とを問わず、日本人の行動は美意識と結びついている。商売も相手の美学的な理解に立脚した、宇宙の調和に沿ったものでなければならない。現代ロシアは西欧的なプラグマチズムに毒されているが、本来ロシアには日本的な「空」の意識につながるものがあった(例としてダヴィド・ブルリュークの絵を彼はあげる)。こうして彼は、前出のマリアの夢の反対テーゼである、ロシアと東洋との錬金術的結婚を主張する。
セルデュクは様々な形で行われる試験にパスするが、その経緯はペレーヴィン流のユーモアに充ちている。例えば半裸に分銅をまとって崖淵に立つ武士を描いた日本画の解釈を要求された彼は、男(on)と分銅(giri)すなわち「恩」と「義理」という概念を描いたものと答える。また在原業平ばりの「旅人の休息」(路上での飲酒)に付き合わされて、歌を一つと所望された彼は「ことの葉はむなしかるべしふりあおぐ夕べの空に星みつるとき」といった意味の返答で相手を感動させる。
酒・食・女のフルコースに付き合った後、彼は首尾よく平商事の一員に迎えられる。しかしその直後、本社が商売敵の源商会の陰謀によって経営破綻したというファックスが入り、彼は一族の勤めとして切腹させられる羽目になる。
7)第7章:1918年6月、中央アジア
第5章の事件の翌日、チャパーエフの駐屯する町にフルマノフらしき人物の率いる赤軍兵士の大集団が結集する中、主人公はコカイン中毒のコトフスキーと会見する。コトフスキーは、アルコールランプに暖められたフラスコの中で融解と凝固の過程を繰り返すロウを人生に例えながら、変転する生に翻弄される人間が、理性的に自己を認識することの不可能性を論じる(彼の本心は、昨夜のコカインと馬車の交換取引をご破算にすることにある)。その場に入ってきたチャパーエフは、ランプを銃で撃ち砕くというやり方で、理性を形象化する比喩自体を覆してしまう。
チャパーエフに連れられて、一同は町を離れた山岳地帯に遠征する。道中、主人公とチャパーエフは悪夢についての話を交わす(この一方の自我の世界では、現代の病院での体験全体が、継続的な悪夢と見なされている)。チャパーエフは、悪夢から逃れるには、それに中心を与えて現実化するのが良いという考えから、別自我の経験を全て記録せよという医師の忠告を支持する。二つの自我のうちいずれの世界が本当かと問う主人公に対して、チャパーエフは「胡蝶の夢」の革命期版のような逸話を提示し、本当のものなどないと答える。彼は一つの夢から別の夢に覚醒するのではなく、全てを夢と見定めたうえでの、完全な覚醒の可能性を示唆する。
チャパーエフは主人公を大地の門のようにそびえる双丘のもとに誘い、「黒いバロン」の異名を持つ謎めいた人物ユンゲルン=フォン=シテルンベルグ(元アジア騎兵師団、現チベットコサック特別連隊長、通称内モンゴル防衛者。主人公は彼の姓から、「現代」世界で耳にしたユングの名を連想する)に引き渡す。バロンは主人公を双丘の向こう側の自らの宿営に連れて行くが、そこは闇の中に無数の焚き火とそれを囲む数人ずつの人間が規則的に並んでいる異空間である(バロンはそれを、英雄兵士たちの霊廟、ブッダの慈悲の永久火がともる死後の世界の一部と紹介する)。ここには戦士たちのみでなく、マフィアの企業戦士のような異物も混入する恐れがあり、バロンは場の秩序を管理する森番に自分をなぞらえている(実際そこには主人公の病院の同僚、新ロシア人ビジネスマンのヴォロディンと仲間も混入しており、バロンに排除されるが、このエピソードが第8章で展開される)。
バロンによればこの場は、精神病院もチャパーエフのいる空間も含め、全てを相対化してしまうような、第三の空間である。そして人間にはさらに、この空間をも超越したような「どこでもない場所」に到達する可能性が与えられている。このどこでもない場所に至った人間の世界、空を観ずる者の内面世界を、バロンは「内なるモンゴル」と呼び、主人公にそこに達する努力を促す。そのひとつの方法は、生の中でどこでもない場に至ること、例えば精神病院を出ることであると(彼はそれを「チャパーエフが粘土の機関銃を使う前に行え。さもないと全てが、どこでもない場所さえもが失われてしまう」という奇妙な警告を発するが、この機関銃の謎は第9章で明らかになる)。
覚醒者たちからなる騎象軍団など一連の神秘的な光景を経験し、現実という書き割りの背後にある空虚を垣間みたような印象を覚えた主人公は、世界とは集団の経験的視覚が形作る虚構であり、人は内面精神の反映を生の中に見るのだという認識を得る。
そして我に返ると、彼は本章の冒頭におかれたコトフスキーとの会見の場に戻っている。すなわち以上の全ては、チャパーエフが一瞬の間に主人公に経験させた世界なのである。
8)第8章:現代、ヴォロディンの幻想
前章の死後の世界の中に垣間みえた異分子たちの焚き火の周囲の光景が、ヴォロディンの幻想として展開される。
そこではヴォロディンと二人のやくざな商売仲間が、取引を前に森の端で焚き火を囲み、麻薬代わりにシャーマン茸を試している。ヴォロディンは仲間にむかって、「恍惚」(トリップ)に関する独特な思想を展開する。それによれば恍惚は人間の内面にあり、麻薬はその部分的な表出を助けるに過ぎない。麻薬の力のおよばない、永遠の恍惚、無限の慈愛の境に達する可能性が人間には与えられている。しかし人間は内部にいくつもの人格や役割を抱えていて(それを彼は内なる検事、内なる弁護士、内なる罪人・・・と表現する)、それが自由な自己解放を妨げている。永遠の恍惚に至る道は、何者でもない第4の人格(内なる無人格)になること、何も望まぬこと、何もしないこと、何者にもならぬことである・・・
仏教とユング思想を組み合わせたようなヴォロディンの消極哲学と、仲間たちの現実主義的な快楽志向との対立が、ちぐはぐで滑稽な議論に結びつく(その過程でホワイトハウス事件前後の政治状況や、ソ連体制の宗教的側面が風刺される)。そのあげくに彼らは、集団のトリップ状態に陥り、存在の拡張感、充実した空の感覚とその恐怖とともに、永遠の恍惚の実感を味わう。彼らの受けた衝撃は、実は前章の死後の世界でバロンが彼らを追い払うために行った措置によるものであり、彼らは天上から射した光の中に、正体不明の第4の人格を目にする。
しばしうろたえた後、覚醒した彼らは取引に出かける。
9)第9章:1918年、中央アジア
チャパーエフは主人公の手記を読み、そこに文学趣味が介在していることを批判する。彼は病院を出ろというバロンの忠告を支持し、どのような世界にあってもその法を利用しながら法から逃げる手段を考えろと促す。
この間に兵士たちの指導部への不信が募り、統制が失われかける。チャパーエフは主人公に、兵士たちの酒宴・余興大会に出演して、連帯意識を高めることを提案、主人公は旧支配階級である公爵夫人と家族の友に関する下品な詩を朗読して喝采を浴びるが、それは兵士たちの放埒さを助長するような役割を果たす。直後彼は、それまで近寄れなかったアンナとの、ロマンチックでエロチックなランデブーの幻想を体験する。
この晩、兵士たちの暴動を予期したコトフスキーは、ロシアインテリの屈折した自由観を皮肉りながら、一人パリへと逃げて行く。
終末の感覚に浸された主人公は、風呂小屋にこもっていたチャパーエフと酒を飲み、彼らを捉えようとする反逆兵たちの銃声を外に聞きながら、「哲学的」会話を交わす。チャパーエフは徹底した「無」の一元論を展開し、あらゆる概念に否定辞を突きつける。それによれば、生も夢も思考の渦巻き運動に他ならず、現実の確かさとは、渦の中にいる者が渦に対して持つような、相対的な感覚に過ぎない。そしてこの渦の外にこそ、完全に不動の一点が存在し、その名を「我知らず/無知」という。この不動の一点に立つ視点からは、あらゆる概念が無として否定される。個別的あるいは全一的な魂も無であり、形質も実体も(器も酒も)無、無という概念さえ無である。世界は神が自らに語り聞かせるアネクドートに他ならず、神自体もまたアネクドートである・・・主人公はこの不合理で冒涜的な思想に抵抗するが、「私とはこの瓶に映ったランプの火影である」というチャパーエフの言葉をきっかけに、無の哲学を悟ったような感覚を覚える。相手は彼にブッダの悟りの記念とされる「十月の星」勲章を与える。
両者はそこでようやく、砲火を浴びる風呂小屋の地下道沿いに脱出するが、道中主人公は、チャパーエフの思想を自己流に論理化してみせる。すなわち、人間は理性の構築したもの(知)に捕らわれており、そこからの脱出が唯一の自由である。その自由の名が「無知」というのだと。
両者が逃げた先には、アンナと従卒および干し草に隠されたチャパーエフの装甲車が待っている。兵士たちの群が彼らの装甲車を取り巻くと、アンナは砲塔を回転させながら、無音の機関銃を発射する。すると車の周囲の直径7メートルほどの空間を除いて、世界の全てが無と化してしまう。この銃は、指し示す全てのものをその本性たる無に化してしまうという、何千年も前のブッダ・アナガーマの小指が入った粘土でできている──そうチャパーエフは説明する。
無と化した世界を前にして、主人公はふと、パリへ逃げたコカイン中毒のコトフスキーの運命を心配する。チャパーエフはそれに対し、コトフスキーは自分たちと同様、自らの宇宙をつくり出す能力を持っているのだと言って、彼を慰める(そのコトフスキーが作る別宇宙に、自分とチャパーエフは登場するのだろうかという彼の奇妙な問いが、次章の伏線となる)。
あらゆる形が空であるからには、空はあらゆる形をとりうる──こうしたチャパーエフの論理を実証するかのように、目の前の何もない空間が巨大な川──無限から無限へと流れる、慈愛と歓喜に充ちた虹色の流れ──に姿を変える。チャパーエフはそれをウラル(Uslovnaia Reka Absoliutnoi Liubvi:完全なる愛の仮像の川)と名づける。アンナとチャパーエフはその川に身を投げる。
自分は一生この川の岸に横たわって、移り変わる夢を見ていたのではないか。とすれば、人生を費やした文学や芸術は、虚しい業だったのではないか。自分は再びこの岸で眠りにつこうとしているのか?──そうした数々の疑問を振り切るようにして、主人公もウラルに身を投げる。
次の瞬間、またもや病院のアームチェアに手足を縛り付けられた格好の彼の頭上で、「完全なカタルシスだ」という医師チムール・チムーロヴィチの声がする。
10)第10章:現代モスクワ
「8200露里の空虚/でも俺たちにゃねぐらもない/楽しかろうに、おまえがいなけりゃ/おまえがいなけりゃ、母なるロシアよ」ラジオのグレベンシチコフの歌が流れる病室、セルデュク、ヴォロディン、主人公が話している(マリヤはすでに退院している)。ヴォロディンはグレベンシチコフの詩を中国的仏教のカモフラージュだと批判し、セルデュクはひたすら紙鶴を折って番号を付けている。
セルデュクは時折チャパーエフを種にしたアネクドートを思い出し、二人に語り聞かせる。主人公にはそれらが、チャパーエフと自分たちが経験した真実の細部を巧みにもじり、格下げしたものと感じられ、その背後に全てを知りながら事実を歪めようとしている者の意志──コカイン中毒のコトフスキーの陰謀──を感じ取る。ひょっとして精神病院を含めたこの世界は全て、コトフスキーがはらいせのためにつくり出したパラレルワールドではないか──彼の推論は発展して行く。彼はこの陰謀を覆そうとするかのように、コトフスキーがパプアの原住民に捕まったとき・・・というアネクドートをねつ造する。そしてあたかもそれがきっかけとなったかのように、彼は医師に呼ばれる。
医師は彼に、幻想をそれ自体の論理に従って極限まで発展させ、枯渇させるという療法が功を奏し、今や主人公はすっかり幻想から解放されたと告げ、退院許可を与える。彼は医局員ジェルブーノフに見送られて病院を出て行く(外界に出て行く彼は、幻想世界からのさまざまなシンボルを引きずっている。彼のジャンパーには、過去の世界でフォン=エルネンを撃ったときの穴が空いているし、ジェルブーノフの手首には、いにしえのバルチック艦隊員の入れ墨の名残が見える。彼が乗る郊外電車の駅は、ロゾヴァヤ(18年の彼が負傷した場所)という名前である)。
往年の面影を残しながら、また異国のようにも見えるモスクワのトヴェルスコイ遊歩道で、主人公はマルメラードフのような行き場のなさを覚えるが、その連想がきっかけになって、18年時の自分が混乱に陥れた文芸キャバレー<オルゴールのタバコ入れ>の場所に向かう。
拾ったタクシーの中で、彼はトルストイのような髭の運転手と、ロシア論を交わす。ロシアの再建の不首尾は、皆がその方策を真剣に考えないからだという真面目な運転手に対して、彼はチャパーエフ風の独特なロシア再建策を提言する。すなわち意識の中にロシアという概念やイメージが浮かぶ度に、それらをその本性の中に溶解させる。ロシアの概念やイメージには何の本性もないので、結果としてロシアは再建されるというものである。運転手は彼をアメリカのシオニストに毒された愚か者と見なし、世界の現実性を否定する者は、一番卑怯で不道徳な現実逃避者に過ぎないと言う(このくだりはポストモダニズムをめぐる倫理的議論を連想させる)。主人公がこの世界の創造者はコトフスキーだと言い出すにおよんで、相手は彼をキチガイと見なし、放り出す。
探しだしたキャバレーは、すでに<ジョン・ブル>という名のアメリカ風の代物に変わっているが、やくざ風のウエイターも、ブルジョアと娼婦からなる客種も、ハシシの匂いも、何かしら18年代と共通している。彼はそこでまたもや、麻薬入りウオッカの勢いで書いた「永劫不回帰」という詩を朗読し、天上に発砲して大混乱を巻き起こす。
店を出た主人公を(予期したとおり)チャパーエフとその装甲車が待っている。彼は幻想の中と全く変わらないチャパーエフの、左手の小指だけが(伝説のブッダ・アナガーマの指のようにように)欠けているのに気づく。チャパーエフは彼にアンナからのメッセージを伝え、二人は装甲車で内モンゴル(内なるモンゴル)を目指して進んで行く。
3. コメント
11)多重世界
現実の相対性あるいは複数の可能世界を描くことは、SFをホームグラウンドとするペレーヴィンの得意とするところで、『黄色い矢』『オモン・ラー』『虫の生活』などにその志向と技量が現れている。
本作ではそれが複数の時間帯にまたがって展開されていること、さらに世界の多重性の動機づけ自体が、複数の、多元的なものになっていることが特徴である。すなわち「現在」の空間では、個的および社会的な原因で生じた分裂症や多重人格という症状が、登場人物たちに帰されていて、彼らの複数の経験世界がそのままパラレルワールドをなしている。そしてそれぞれの幻想世界の構造や構成要素は、コンプレクス、現実逃避、代償作用などといった心理学的概念で説明される。主人公の過去の世界も、ここでは心理学的な現象としての継続夢にすぎない。
一方「過去」の世界では、現実の複数性が仏教的世界観や魔術の論理によって説明される。そこでは現実は全て仮の姿あるいは心の世界の反映であって、現象界を超越した「どこでもない場所」「空」なる世界こそが本当の世界である。「現在」の世界も、誰かの創造による架空世界に過ぎない。
こうした二重の論理と並行して、さらに自己言及のパラドクス、唯我論的世界観、薬物による自我の拡大や遊離、シミュレーション作用など、世界の多元性に通じる古今東西のさまざまな思想やイメージが、作品中に存在している。
結果として作品は、諸原理に基づくパラレルワールドのアンソロジーのような奇観を呈しているが、章ごとの細部の対応を綿密に計算しながら、これを一人の人物の経験世界にまとめあげた作者の技量は驚くべきものであろう。
22)テーマの多重性
上に述べた構成の結果として、作品のテーマ許容量は非常に大きなものになっている。「現実」「自由」「自我」「無」といった概念をめぐる哲学的・心理学的・宗教的なテーマ、ロシアの内戦期と現代の比較対象のテーマ(これに付随する革命論、インテリ論、民衆論など)、欧米とアジアとの間におけるロシアのアイデンティティのテーマといった、位相を異にするテーマ群が、ここに入り込んでいる。
これを展開する作者の素材選択も自在な広がりを見せており、過去と現代の政治・社会状況、文化や風俗(キャバレー文化、文学、武器や機械、麻薬、テレビや映画、性風俗、町の景観、流行語やジャーゴン・・・)、オリエンタリズムの代表としての日本モチーフといった素材を利用して、真面目で深刻なものでもありうるテーマを、下世話でユーモラスな雰囲気の中で展開している。
3)チャパーエフと遊び
作品はいろいろなレベルの遊びに充ちている。ドストエフスキー、ブロークなどをはじめとする文学的レミニッサンスやもじり、「内なるモンゴル」「ウラル」「永劫不回帰」といった奇抜な命名、「恩」と「義理」のくだりに見られるような外国語交じりの洒落、夢の中でのアンナとのセックスシーンにおけるような異文体の混交、ia!!!ia!!!ia!!!ia!!!...といった軽薄風文体、輪型のパン(碯硴韭)に関する卑猥な連想、マフィアたちの用いる下品なジャーゴン──これらは広義のことば遊びである。
掛け合いの面白さも圧巻。例えばチャパーエフと主人公の対話:「おまえの頭はどこにある?」「肩の上に」「肩は?」「部屋の中に」「部屋はどこに?」「家の中」「家は?」「ロシアに」「ロシアは?」「困窮の中にです、チャパーエフ殿」「冗談はやめろ・・・」
また自らをただのマリヤと思いこむ男性、シュワルツネッガーや川端義経といった戯画的人物像、悪夢から悪夢へと目覚める主人公自身などは、その発想自体が遊びの極致となっている。
もちろん最大の遊びは、ソ連史の英雄で、文学、映画さらにアネクドートの種になっている共産党員チャパーエフを、仏教的東洋哲学の教導者、一種の覚者に仕立てたことであろう。小説や映画によって作られたチャパーエフのイメージを否定し、「真実の姿」を描くというのが、序文にも盛られた作者の皮肉な創作意図である。実体と見えるものを無と見なし、無を実体化するようなチャパーエフの言動は、見方によっては禅の公案のようにも、また魔術のようにも見えるが、赤軍の指揮官にこのような人物を据えるところから、様々な歴史事象のパロディーが生まれてくる。いわば小説そのものが、事実の断片から虚像を作るアネクドート的想像力の応用となっているのである。
ここで注目すべきは作品のストーリー自体から洒落やアネクドートを二次生産する手法で、特に第10章に羅列されるチャパーエフ種の滑稽なアネクドートと、事実の証人としてそれをいちいち訂正し、批判しようとする主人公の言葉は、メタ文学的な笑いや偽の既視感覚の源泉となっている。こうして作者はロシア/ソ連的な神話生成現象を、何重にもひっくり返して見せているのである。
4)シミュレーション的ロシアイメージ
中心テーマの一つは、ロシアとその運命に関するものである。チャパーエフに関係する各章では、内戦という現象が、その渦中にありながら目的も現況も分からない人間の感覚を通して描かれる。非常委員会も赤軍も、実体・主旨ともに不明のあやしげな団体である。ここで実質的な力を持つのは言葉であり、チャパーエフも主人公自身も、自身にとっては意味不明の演説によって民衆を動かしてゆく。
一方現代の分裂病者たちの幻想の中では、ロシアと西欧の、あるいはロシアと東洋の錬金術的結婚というイメージが、テレビや映画の主人公や紋切り型の日本人像を素材として、パロディー化されている。とりわけマリヤとシュワルツネッガーがBBCの中継するホワイトハウスの上空を飛行する場面は、現実と映像情報、ものとイメージが入り交じった現代世界の虚構的感覚を巧みに表現している。
その意味でこの作品は、ロシアにおいては常に言葉やイデオロギーが現実の代行をしてきたというミハイル・エプシテインらの議論に対する、愉快なイラストレーションと受け取ることもできる。もっとも、最終章のタクシー運転手の言葉のような、現実虚構論に対する倫理的批判をも取り込んでみせるところが、ペレーヴィンのしたたかさを表しているのだろうが。
55)課題
本作のより正確な解釈のためには、以下のような関連情報の検討が必要かつ有益であろう。
*チャパーエフ像に関する資料:フルマノフの小説、映画『チャパーエフ』、チャパーエフを題材にしたソ連版アネクドートなど。
*グレベンシチコフの詩、テレビドラマ『ただのマリヤ』など現代の文化風俗。
*空や無の概念に関する西洋哲学、東洋哲学
<付>
チャパーエフ、ワシーリー・イワーノヴィチ(1887−1919)
ロシア内戦期の英雄。17年に共産党に入党。19年4月より第25歩兵師団を指揮し、コルチャク軍と闘う。19年9月5日、ルビシチェンスク(現チャパーエヴォ)村で戦死。
フルマノフ、ドミートリー・アンドレーヴィチ(1891−1926)
ロシア作家。18年入党。19年にチャパーエフ師団の政治将校。23年からモスクワプロレタリア作家協会を指導。23年、後の社会主義文学の手本となった中編『チャパーエフ』を書く。同作品は34年にゲオルギーおよびセルゲイ・ワシーリエフ(同姓の映画監督コンビ、通称ワシーリエフ兄弟)によって映画化され、恐らく全てのソ連人によって見られた。