●ペレーヴィン, ヴィクトル Pelevein, Victor
短編集「青いライト」 Sinii fonar'. 1991.
解説 井桁貞義
1. 作家について
現代ロシア作家の若手のホープの一人、ヴィクトル・ペレーヴィン。
1962年に生まれ、技術学校を卒業し、1991年に短編集『青いライト』でデビュー。5部構成で21の作品が収められたこの短編集は10万部作られたが、数日間で売り切れたといわれる。
言葉を語り自己意識を持つ納屋、哲学する鶏、狼人間、飛行する少年──これらが短編集の登場人物たちである。ここには<風刺的哲学的ファンタジー>と呼ばれるようになった豊かな空想の世界が繰り広げられている。
以後の作品には次のものがある。
Omon Ra. Znamia, No. 5, 1992.
Zhizn' nasekomykh. Znamia, No. 4, 1993.
Zheltia strela. Novyi mir, No. 7, 1993.
Buben Verkhnego Mira. Oktiabr', No. 2, 1993.
Nika. Iunost', No. 6-7-8, 1992.
Proiskhozhdenie vidov. Ogonek, No. 29, 1993.
Tarzanka. Stalitsa, No. 20, 1994.
2.短編集『青いライト』(1991)について
◆「青いライト」
ピオネールのキャンプで、子供たちが競いあって怪談を披露している。
窓の外のライトで病室の中はほとんど明るいといってもよいくらいだ。光は妙に青白く、生気がなくて、月が出ていなければゾッとするほど恐ろしかった。月の光は、高い支柱の先から円錐状に落ちている死んだギラギラする輝きを薄めて、神秘的な、柔らかいものに変えていた。
「死んだ町の話、知っている?」トルストイは尋ねた。みんな黙っていた。
「じゃ、話すよ。ある男が出張で2カ月家をあけた。帰ってきてみると、あたりの人間がみんな死人なのに気づいたんだ」
「通りにバタバタ倒れているの?」
「そうじゃなくて、勤めに通ったり、話したり、行列に並んだりしている。すっかり前のままなんだけれど、男には分かった、みんな死人だって」
「どうして分かったの?」
「そんなこと知らない。僕が分かったのじゃないもの。男は何も気がつかないふりをして、自分の家に向かった。奥さんもやっぱり死人だった。彼は奥さんを深く愛していたから、何もかも話してしまおうと思った」
「きみは知っているの、自分が死人だって?」そうしたら奥さんは答えた。
「知っているわ」
男は尋ねた。「この町では一人残らず死人だって知ってる?」
奥さんは答える。「知っているわ。あなたのまわりがみんな死人ばかりなのはどうしてか、知っているの?」
「いや」
「どうして私が死人なのか、知っている?」
「知らない」
奥さんは「わけを言う?」と尋ねた。そいつはおびえ上がったけれどそれでも言った、「話してくれ」
すると奥さんが言うには「それはね、あなた自身、死人だからなの」
今度はコーリャの話──
あるピオネール・キャンプのメイン・ホールの壁に動物の絵がたくさん描いてあった。太鼓を持った黒い兎もいたが、なぜか両手が2本の釘で留めてあった。ある時昼食を終えた女の子が絵の前を通りかかって、兎をかわいそうに思い、釘を抜いてやった。すると兎がまるで生きているみたいにジロリと彼女をにらんだようだった。安静時間が始まる。その時とつぜん、兎が太鼓を叩き始めた。
たちまちこのキャンプにいたすべての人は眠ってしまった。そして、安静時間が終わり、目を覚ましておやつを食べに行った夢を見た。それからすっかりいつものようなことを始めた──ピンポンをしたり読書をしたりというように。でもそれはみんな夢のなかのできごとだった。やがて別のグループとの交替の時期が来て、帰宅した。それからみんな成長して、学校を終え、結婚し、働き始め、子供を育てた。ところが実は彼らはひたすら眠っていたのだ。黒い兎はずっと太鼓を叩き続けていた。
続いてワーシャが「赤いシミの話は聞いたことがあるかい?」と尋ねた。みんなは知らないと答えた。
ある家族が住居をもらった。壁に赤いシミが浮き出ていた。子供たちが気づいて母親を呼んだ。ところが母親は何も言わない。じっと見つめてニタリと笑うんだ。子供たちは父親を呼んだ。でも父親は母親を恐れていて、「あっちへ行きなさい。おまえたちには関係ない」と言う。母親は黙って微笑んでいる。そうしてみんな床に就いた。
ワーシャはここまで話すと憂鬱そうにため息をついた。「その先は?」とコストゥイリがうながす。
朝になって見ると、子供が一人足りない。子供たちは母親のところへ行って、兄がどこに行ったのか尋ねた。「おばあさんのところへ行ったのよ」子供たちはそれを信じた。母親は勤めに出て、晩に戻ってくると微笑んでいる。子供たちは言った、「恐いよ!」母親はやっぱり微笑んで父親に言った。「この子たちは私の言うことを聞かないわ。鞭でぶってちょうだい」父親は言われるとおりにした。子供たちは逃げだそうとしたけれど、夕食に何か入れられて、立ち上がることもできなくなった。
そこまで話が進んだ時ドアが開いた。私たちは皆、サッと目を閉じ、眠っているふりをした。数秒してドアが閉まり、ワーシャは廊下の足音が聞こえなくなるまで息を殺していた。
次の朝、また子供が一人足りない。一番下の女の子が残った。この子は学校にも行かせてもらえなかった。母親が帰ってくる。父親はドアも窓も閉めてしまった……ほかの人たちが来てみると、家には誰もいない。1年たって別の家族が引っ越してきた。赤いシミに気づいて、壁紙を切ってみると、そこに母親が座り、前進が真っ青、たっぷりと血を吸い、這い出すこともできない。ずっと子供たちを食べていて、父親はそれを手伝っていたんだ。
◆「ゴスプラン(国家計画委員会)の王子様」
廊下を人影が走っている。その姿は愛情をたっぷり注がれて描かれており、ややセンチメンタルなほど。<Up>キイを押すとジャンプし、身をかがめ、空中に瞬時とどまって頭上のものを取ろうとする。<Down>キイを押せばしゃがみこんで足元にあるものを拾い上げようとする。<Right>を押せば右に走るし、<Left>なら左だ。ともかくいろいろなキイでこの人物を操ることができるが、この4つが基本だ。<……>
ゲームの目的はお姫様の住んでいる最終ステージまで上昇すること。しかしそのためにはたくさんの時間をかけなくてはならない。大事なことだが、ゲームに勝つためにはキイを押していることを忘れ、自分がこの人物自身になりきる必要がある。その時はじめて人物は迅速に動くようになり……
これが導入部分。ご存じ、コンピュータ・ゲームを題材とした物語である。主人公サーシャはGossnab(国家資源供給委員会)に勤める若者。オーウェルのディストピア小説などもすっかり読んでいて、世間を批判的に見ている。彼の上司は役所で着物を着て日本刀を振り回し「燕返し」の練習をしているという設定。ときどき呼びつけられて行くと、ゲームの進め方を教えてくれ、との頼みだったりする。今日はGossplanへバックアップ・ソフトのプログラムを届ける仕事をおおせつかる。廊下に出ると一面に石のプレートのかけらが散らばっているが主人公はすっかり手慣れたもの。罠をよけたり、手でぶらさがって下へ跳び降りたりして、第4ステージに向かうドアにたどりつき、地下鉄に乗り込む。
やがて主人公はゴスプランに侵入し、プログラムを届けるべく迷宮の中を疾走する。ある部屋では課長が戦車隊を指揮して農場での戦闘を繰り返しており、別の場所ではF15やF16ばかりかステルスまで手に入れた役人たちがミグを撃ち落とすゲームに熱中している。サーシャは第7ステージで生命値が6もある赤いガウンの強敵と闘って倒されるが、スーフィーの教訓話を語って切り抜け、最終の第12ステージまで行く鍵を手にいれる。さてサーシャがそこで見たお姫様とは?
ちょうど笙野頼子の最新作『レストレス・ドリーム』の主人公跳蛇のように、サーシャはゲームの空間を駆けめぐる。いつか王子となって闘いながら。
あるいはロシア版サイバーパンクが生まれるのかどうか。
巨大な役所ゴスプランの中の迷路のような機構と、コンピュータ・ゲームの複雑なダンジョンズとが文学のイメージの中で無理なく結びつき、腐敗した役人たちの無為な日常が皮肉られている。本来喜びを与えてくれるはずのお姫様救出のための闘いからは、空虚な徒労感しか残らないが、それが一種の不条理小説の狙いでもあるのだろう。物語はスピーディに次々と展開して読者を楽しませてくれる。
◆「種の起源」(1993)
ハッチが閉まり、人声が聞こえなくなると、チャールズ・ダーウィンは暗いなかをいつもの空間まで進む。ラマルクの唱えた前進的発達論は間違っている。完全性への志向が生物界の進化と変化の主たる原因であるなら、すべての生物は完全へと近づいてしまうだろう。ところが実際はそうなっていないじゃないか。状況が問題なのだ。しかしある種は滅び、ある種は生き延びるのはなぜか。いかなる力がこの偉大なシステムをコントロールしているのか。「さあ、仕事だ」杖をとって天井を3回ノックする。毛むくじゃらの長い手が伸びて、現れたのは年老いたオランウータンだった。殴り合い、取っ組み合いの闘いのすえ、4つの眼のうちの2つが曇り、ガラスのようになっていく。沈思するダーウィン。状況に適応する力のある種は、生存競争の結果、他の適応力の劣る種に打ち勝って生存する。自然淘汰だ。しかしこの能力を規定するものとは何か?肉体的なパワーであれば、地上は象と鯨の世界になったであろう。ああ、謎の解明にほんの近いところに来ているのだが……
天井を4回ノックする。落ちてきたのは巨大なゴリラだ。闘いが繰り広げられ、ダーウィンはこめかみに一撃をくらい、意識が遠のく。幼年時代の回想が浮かぶ。しかし死ぬ権利はないと思い、超人的な力でゴリラの首を絞める。
傷だらけになっても彼は幸福だった。知性ばかりではない、生きようとする意志が問題なのだ。真実に一歩近づいたのだ。
甲板に出て、白い鳥たち、緑の島を見る。ビーグル号の船長は彼を気遣い、思索の一端を聞きたがる。「非妥協的な、容赦のない闘いのみが生存を勝ち取るのだ。」理解しようと努める船長の肩に手を伸ばすと、船長の眼に肉体的な恐怖が浮かぶ。ダーウィンは憂鬱に微笑み、2時間たったら新しいのを降ろしてくれ、と命ずる。「今日はあと2匹でたくさんだ。」
物語の具体的な描写に引かれて読み進む。ただの話ではないだろう、と期待しながら。そして最後にはやはり、恐ろしいような<非人間的な?>殺戮の物語と知れる。
◆「ターザン遊び」(1994)
広い並木道を歩いていくピョートル・ペトローヴィチ。月が出ている。何時の頃からか一緒にあるいている言葉少なの道連れにさかんに話しかけるが、答えはほとんど彼の言葉の繰り返し。次第に不安になってくる。こいつは鏡像か木霊じゃないのか?確かめたくなる。建物の壁に沿って垂れ下がっている太い電線を見つけた時、ピョートルは思いつく。あれにぶら下がって奴の上に飛び降りてみれば、鏡像かどうか分かるぞ。気を逸らせるために幼い頃に気の高い枝にロープを渡して遊んだターザン遊びの話をしながら近づく。サッと駆け出して暖かい夜の空気の中に飛び上がった。失敗。よろけるピョートルは彼につかまろうとするが、身をかわされる。いったい何を?鏡像じゃないかという気になったので確かめようと。2時間も一緒にあるいて話をしながら、鏡像と疑うとは。何を知りたかったんだ?真実を。自分についての、それとも他者あるいは世界の?自分と生についての。言ってやろうか?言ってもらおうじゃないか。恐くない?やってくれ。いいでしょう。<ルーナチック>とはどういうこと?夜眠らずに、樋の上を歩き回る奴のことだ。わあ、たいへんだ!ピョートルは高いブリキ製の樋の上に立っていた。樋の下はぽっかりと空いていて、20メートル下に街灯が瞬き、黒い樹木が見えた。奇跡によって支えられて。香りが漂う。どこが近くのゴミ箱の燃える匂い。この香りが可能な世界が確かに存在するという証明となっていた。どうかね?やめてくれ。真実が欲しいと言うからやったんだ。男は角を曲がって姿を消した。ピョートルは両目を覆い、湿った額を壁に押し当てていた。これで終わりだ。一生のあいだ、どうなるか考えていたが、これがそれだ。落ちつけ、もう考えないことだ。月を見上げた。若い頃から好きだったスティングの歌声が聞こえた。「バーボン・ストリートに月が出ている」歌が消える。帰宅の時間だ。明日もたくさんの仕事がある、少し眠ろう。本当は俺はまったく幸福なのさ。
ペレーヴィンの作品が思索的、あるいは哲学的なバックグラウンドを持っていることが感じられる作品。不思議なヴィジョンと叙情的な描写を備えた独特の魅力をもっている。
3.ペレーヴィンと<ターボ・リアリズム>について
1993年度ロシア・ブッカー賞小賞受賞。
「民警特殊部隊」と「プリンス・オブ・ゴスプラン」は1993年、幻想文学賞の中編部門と短編部門を独占した。
ターボ・リアリズムとは、1992年初春、ペテルブルグのインタープレスコンにおいてペレーヴィンが命名したもの。ホフマンやカフカ、ゴーゴリ、ブルガーコフ、マルケスといった作家によって受け継がれている幻想文学の後継。
このグループの作家としてはアンドレイ・ストリャローフ、ヴャチェスラフ・ルィバコーフなどがいる。この2人は1995年8月19-20日「はまなこん」に出席、講演を行った。NHKロシア語会話インタビューでこのグループ育成にとってボリス・ストルガツキーの果たした役割が強調された。
ペレーヴィンに関しては後藤正子「飛行するゴーストの夢」(ロシア文化通信「群」第4号1994年7月)を参照。また大野典宏「ターボ・リアリズム 未来へ逆流する文学」(「群」第5号1995年1月)も併せて参照されたい。