●ニコ現代ロシア探偵小説事情
毛利公美
ここ十年間で、モスクワの町の光景はがらりと変わった。灰色にくすんだ街路に看板やネオンがけばけばしい色彩を増していくのと並行して、本屋の店先も大きく様変わりし、ペーパーバックのディテクチフが新聞や雑誌の脇で、あるいは「まじめな」本と並んで、ネオンのように派手な色彩を添える。その広まりようたるや、モスクワで地下鉄に乗ると、ひとつの車両で平均すると最低二人はペーパーバックの探偵小説を読んでいる人をみかけるといってもいいほどである。
インテリと非インテリの精神的落差がいまだ激しいロシアで、文学に思想や哲学を求めるインテリゲンツィアの間では、探偵小説を読むことを恥とし、最近の状況に顔をしかめる向きも依然としてある。しかし、氾濫する探偵小説は、すでに無視できない明らかな事実として、ますます存在感をもちつつある。反面、そうしたなかで、一般の文学と、探偵小説を代表とする大衆文学の間の壁は、どんどん希薄になっている。
今回の報告の目的は、1990年代のロシアで探偵小説がどのように発展してきたかを整理する事である。書評紙「書籍時評」に掲載されたベストセラー表などを参考にしながら、探偵小説をめぐる状況の変遷を探ってみた。
ペレストロイカ、グラスノスチの時代が訪れると、西側の文学が解禁され、翻訳もののミステリーが市場にあふれるようになる。書籍市場が多様化するなか、「書籍時評(Книжное
обозрение)」紙面にベストセラー表が初めて登場するのは1993年11月26日号である。ベストセラー表の項目は、художеставенная/
нехудожеставеннаяという二つに分けられており、前者では純文学・大衆文学に関わらず文学作品全般が扱われ、後者にはドキュメンタリー・実用書・ハウツーもの・地図などが挙げられている。この項目の命名については、編集部でもかなり悩んだあとがみられ、12月6日号からはхудожеставенная/
другая
と変更され、その後も、文学状況の変化を反映して、何度か改名を重ねることになる。この1993年の時点でхудожеставеннаяの項目に登場する本のタイトルを見ると、シドニー・シェルダン、スティーブン・キングなど海外のミステリー物が目立ち、ロシアのディテクチフ作家の名前はまだみられないのがわかる。しかし、しょせん西側とは社会が異なるため、西側のミステリーはやがて限界を迎え、ロシアの内情にあった「国産」の新しい探偵ものへの要求が次第に強まっていく。
1993年8月25日付けの「文学新聞(Литературная газета)」に掲載された、ソ連崩壊後の探偵小説をめぐる状況についての「探偵小説は死んだのか?」と題した記事
には、ソ連時代からの変化や西側との違いについて、具体的に例を挙げて説明がされていて、なかなかおもしろい。記事の筆者は、ソ連崩壊後、探偵小説を買うのは「パンを買うのと同じ位」容易になったものの、それと同時に、それまで犯罪とみなされていたことが当たり前の日常になってしまい、そうした社会や価値観の変化によって、ソ連時代に主流だった探偵小説の構図―体制の敵と戦うスパイものや、汚職・横流しなどを扱った経済もの―は全く場違いなものになってしまったことを指摘している。ソ連時代の探偵小説は、「ソ連的な生活の優位を宣伝する」ものであり、「資本主義というあざ」が犯罪だった。ところが、ソ連崩壊後、市場経済に移行すると、それまでの「犯罪者」が、唯一、経済的な感覚をもつものとして、むしろ世間をリードする存在になってしまった、というのだ。記事は、白と黒、善と悪といった以前のステレオタイプから生活の変化に見合った新しい基準へと移行するための時間が必要であると結ばれている。
しかし、何事につけても極端な変化が特徴のロシア、探偵小説が「新しい基準へ移行」するのにも、さほど時間は必要ではなかったようだ。「書籍時評」のベストセラー表をみると、1994/1/21日号にニコライ・レオーノフの名が見られるのを皮きりに、次第にロシア人作家の名前が入ってくるようになる。レオーノフは、しっかりした筋をもった古典的ディテクチフ作家で、ソ連時代も今も読まれている人気作家である。しかし、上にも述べたように、ソ連が崩壊した後、社会のあり方や価値観の変化をうけて、資本主義を悪者にするそれまでのソ連の探偵もの、スパイものは、すでに存在意義をなくしている。それと同時に、社会の混乱の中、犯罪が横行し、マフィアが勢力を伸ばし、「殺し屋」による暗殺事件などが紙面をにぎわすといった現代ロシアの犯罪の形は、当然、小説にも影をおとし、新しいロシア社会の様々な問題を背景にした、新しい探偵小説が次々と生まれる。
最初にペンをとったのは、ドツェンコ、コレツキーなど、警察の元捜査官たちである。彼らは自分の体験を活かしたリアルな探偵小説で、一躍、人気をさらった。ドツェンコの名は1994年5月24日号にランキング7位として登場、この後、夏ごろからコレツキーの名前も頻繁に登場し、レオーノフと共に、三つ巴として、次第にベストセラー表の大きな割合を占めるようになってくる。
興味深いのは、こうしてディテクチフが隆盛を示すようになるのと時を同じくして、1994年6月21日号から、「書籍時評」のベストセラー表の項目分けに変化が起きていることである。文学市場に占める大衆文学の割合が大きくなり、売れ行きの面だけで扱うと、部数の少ない純文学や哲学系の本がはじかれてしまうからだろう。1994/6/21号からは、それまでのхудожеставенная/
другая という二つの項目分けに加え、Бестселлеры
для интеллектуаловという項目ができる。インテリ用ベストセラーのランキングは《Гилея》《19
Октября》《Эйдос》三店の集計によるものとされる。ニーチェ、V.ソロヴィヨフ、カントといった哲学系の固い本が目立ち、比較的軽い読み物を中心とするхудожеставеннаяの項目とは、歴然としたカラーの違いがみてとれる。
さらに1994/8/16号になると、художеставенная/ другая
の項目が、それぞれハードカバー(以下HCと略)とペーパーバック(以下PBと略)に分けられる。探偵小説やハーレクインものなど、地下鉄の中で読まれるような軽い読み物が、ペーパーバックの安価な版で売られるようになり、急速に部数を伸ばすようになった背景をみることができるだろう。
こうした国産の「軽い」読み物がベストセラー表で幅を利かせるという状況の中で、1995/2/7から項目のタイトルはхудожеставенная
литература→ беллетристика,другая
литература→прочая литература
と改名されている。探偵小説には、художеставенная
литератураより、беллетристикаという定義がふさわしいという「書籍時評」編集部の判断だろうか。ちなみに、上記の二項目がさらにHCとPBに分かれている点、別項目として《интеллектуальные》бестселлеры
が設けられている点は、以前のままである。
もうひとつ、1995年に見られる変化としては、HCの《Русский
триллер》やPBの《Русский бестселлер》など、ロシア国産探偵小説がシリーズ化され、盛んに出まわるようになったことが挙げられる。1995年前半には10位までのうち2、3作をロシアの探偵ものが常に占めるようになり、その割合は目に見えて着実に増えつづける。1995/9/5号では、HC散文作品の7つを国産の探偵ものが独占。後の3つは海外の探偵ものだから、結局ベストセラーの全部が探偵小説で占められていることになる。そして11月には、国産探偵小説がついにベストセラーの9割を占めるまでになる。ベストセラー表常連の顔ぶれはВ.
ドツェンコ、 Д. コレツキー、 Н. レオーノフ、 М.ロゴージン、
Ф.ニズナンスキーといったところだが、加えて「ロシア歴史探偵小説(Русский
истрический детектив)」
と銘打ち、帝政時代のアルヒーフをヒントにして脚色を加えた歴史家В.
Лавловの作品が登場するなど、探偵小説の多様化の動きもみられる。
さらに注目すべきなのは、1995年9月からは、集計の対象になるデータのもとが、それまでの15店舗50露天から15店舗250露天と、露天の数が一気に増えることである。この数字は、ペーパーバックの探偵小説などを広げる露天の店が、地下鉄の駅などあちこちに出現した状況を受けているが、その裏には、当然ながら、こうした露天を中心に売られる軽い読み物の圧倒的な売れ行きがあるわけだ。
続いてロシア探偵小説市場に大きな変わり目をもたらしたのは、女性探偵小説作家アレクサンドラ・マリーニナの登場である。マリーニナの名前がベストセラー表に初めて登場するのは、1996/8/3
号(HC3位)である。マリーニナは、これ以後、毎月1、2冊の割合で、コンスタントに新作を発表。HC・PB同時にランク・インする作品、先にPBで出版される作品もあり、HC・PBあわせて常時3冊ほどがベストテン入りしているという状態である。ベストセラー表に初登場して1年近くを経た1997/7/9号では、マリーニナの作品が、なんとHCの1位と6位、PBの1、2、3、4、6、7位を独占している。
彼女は、やはりMBD調査部の現役捜査官であるという点では、前世代のドツェンコらと等しい。実際に仕事で扱う事件から作品のヒントを得ることはほとんどない、マリーニナ自身はそう言いきっているが、調査部での長年の実務経験が彼女の作品にリアリティを与えているのは確かだろう
。とはいえ、マリーニナの作品には男性による探偵小説のような生々しいアクションなどはみられず、全作品を通じるヒロインのカメンスカヤ刑事が、細かなデータと地道な捜査を手がかりに複雑にからんだ犯罪を解きほぐしていく過程が、ヒロインの私生活の描写を交えて描かれる。
いつも同じ登場人物が活躍する連続物の特徴として、読者は新しい作品ごとに、主人公をめぐる状況を追い続けることになる。犯人を追う犯罪捜査の筋と平行して、結婚したり、浮気したり、はたまた過去の恋人が再び現れたり、そうしたなかで、ヒロインは悩み、成長し、変化する。私生活の描写や、夫やまわりの人間との関係など、シリーズ全体を通して書かれる「おなじみ」の世界は、読むほどに作品世界に親しみを生む効果をもたらす。マリーニナの書く探偵小説は、事件を解くことを仕事とするひとりの女性の日常を描いた、ひとつの連続ドラマともいえる。
また、マリーニナが成功した要因のひとつに、ヒロイン、カメンスカヤのユニークな形象を創り出したことがあるだろう。実用性一本槍のさえない格好のせいでせっかくの美貌も台無しで、犯罪捜査に打ち込むあまり、家庭はまったくないがしろだ。長編『名文家』では、クールな彼女にも一途に恋した乙女時代があったことが明かされるが、その過去の恋人さえ捜査のために利用するという、徹底した仕事の鬼であり女性版熱血刑事。帰るやいなや食事もそっちのけで事件の相談を持ち掛け、夫をげんなりさせるなど日常茶飯事。マリーニナの作品の共通するヒロインであるカメンスカヤ刑事は、ロマンチックな「永遠の女性」像とも、苦労にじっと耐えるロシアの女性像ともかけはなれた、現代のヒロインである。いささかうがった見方をするならば、そういった男に媚びない知性的な強い女性と、彼女を忍耐強くサポートする理想的な恋人(後に夫となる)という組み合わせは、虐げられてきたロシアの女性読者の喝采をあびる、胸のすくものだったろう。ともあれ、本格的な捜査の様子と連続ドラマの要素を兼ね備えたマリーニナの作品は、性別を問わず幅広い年齢層の読者層を惹きつけ、女性である彼女の登場によって、ロシアのディテクチフの層は大きく広がった。
マリーニナは、その後もなお、次々とベストセラーを飛ばしているが、彼女がロシア探偵小説界に果たした最も大きな貢献は、なんといっても、男性による硬派な探偵小説と女性文学を結びつけ、女性による探偵小説の隆盛の火付け役となったことである。マリーニナの圧倒的な人気を背景にして、1997年の夏頃から、他にも女性作家による探偵小説がどんどん登場するようになる。1997/8/5号にはポリーナ・ダシュコワの名前がPB第2位に初登場する。1997/10/28号
には新たにТ.
ポリャーコワがHC1位と7位に登場するのに加え、前述のマリーニナ、ダシュコワもベストテン入りを続け、全体のうち女性による探偵小説が3割を占めている。翌1998年に入ると、さらに、
Е. ヤコヴレワ、М.
セローワといった新顔も加わり、女性探偵小説がますます勢いを増して、ベストセラー表全体に占める割合も4割に増える。
このように、マリーニナ以後、次々と新しく登場した女性探偵小説作家のなかで最も重要な存在は、ポリーナ・ダシュコワである。彼女は、作家の登竜門であるゴーリキー文学大学の出身で、警察畑の作家たちとは、出自だけでなく文体も異なっている。捜査官を主人公としたシリーズ作品を書くマリーニナとは対照的に、ダシュコワの作品は一作ずつが独立しており、何かの事件をきっかけに、ごく普通の人間が、ある日突然、犯罪や冒険にまきこまれるという形をとっている。そのため、マリーニナ作品が、まずヒロインであるカメンスカヤの「おなじみの」日常で読者を物語の中に取りこみ、彼女が扱う事件という形で次第に犯罪の全貌が明らかになるという展開を特徴とするのに対し、ダシュコワの場合、物語は冒頭から緊迫感に包まれ、読者は一気に事件という非日常の世界へと引き込まれるのがふつうだ。
また、犯罪捜査の様子に焦点が当てられるマリーニナの作品と異なり、ダシュコワの作品では、犯罪そのものが中心的な位置を占め、犯罪が起こった背景、犯人の心理状態や生い立ち、犯人や被害者を含め、登場人物の心理のきめこまやかな描写が特徴である。マリーニナの作品で読者を先へと読み進ませる原動力となるのは犯人探しや事件のなぞ解きであり、要するに、結末が知りたくて読むわけだが、ダシュコワの場合、作品の何よりの魅力は、まさに文章そのもの、人間を描き出す彼女の筆致にある。
ダシュコワにつづいて、さらにアンナ・マルィシェワ(1998/6/2号でPB3位と4位に登場)、アンナ・ダニーロヴァなどやはり文学大学を卒業した若い女性が、次々と探偵小説を書くようになり、文章力のある彼らの作品が、探偵小説のレベルを引き上げ、可能性を広げていったといえる。
こうして、探偵小説を中心とする大衆文学が、多様化し、文学全体の中で次第に大きな位置を占めるようになると、こうした「軽い読み物」を特別なものとして扱う姿勢にも、だんだん変化が見られるようになってくる。それには、ВАГУРИУС、ЭКСМО-Прессなど、それまではもっぱら探偵小説のシリーズなど大衆小説でベストテンに幅を利かせていた出版社が、資金力をつけて次第に守備範囲を広げ、売れ筋の「まじめな文学」もあわせて扱うようになったという背景もある。やはりベストセラー表に掲載されているものから例を挙げると、1998/7/7HC10位
В. Пелевин "Чапаев и пустота"(М:
ВАГУРИУС)、1998/9/1 HC8位 В.Набоков "Лолита"
(М:ЭКСМО-Пресс "Русская классика"シリーズ)などがある。
そういったなかで、ベストセラー表の構成に再び変化が起きる。それぞれHCとPBに分かれたбеллетристика,иная
литератураの項目分けがあり、それと別にинтеллектуальные
бестселлерыの項目が設けられているということには変わりないが、1998/10/6
号から、 интеллектуальные бестселлеры
が一店舗(УСычина)のみの結果に依拠するようになり、この店の「お勧め本」を紹介するような形になる。さらに1998/12/1
号では、интеллектуальные бестселлеры от
лавки "УСычина"
と改名されて、順位がなくなる変わりに、通販のためのコード番号と値段が加わり、純文学などのまじめな本が占める割合が減って、従来はиная
литератураに分類されていたもの―政治家を人形劇に仕立てて諷刺するНТВの人気番組の脚本、ヴィクトル・シェンデローヴィチ『クークルィ』Виктор
Шендкрович "Куклы" (М:ВАГУРИУС)のような本や、Михаил
Козаков "Актерская книга"(М:ВАГУРИУС),
Эдвард Радинский. Николай 2: Жизнь и смерть(М:ВАГУРИУС)といった自伝や伝記ものなどがリストに入ってくる。通信販売を受けるためという制約もあってか、取り上げられる出版社に著しい偏向がみられるが(20冊のうち8冊がВАГУРИУСの本)、同じВАГУРИУСから出されたヴェネディクト・エロフェーエフの『モスクワ―ペトゥシュキ』は、PBのбеллетристика第8位にランクイン。項目ごとの混交が明らかだ。1999/4/6
号からはинтеллектуальные бестселлеры от
лавки "УСычина" と並んで、интеллектуальные
бестселлеры от фирмы "Крафт+"が加わって、売れ行きのランキングを掲載する店が二つに増え、1999/4/13
号からはさらに "36.6-книжный двор"を加えた三つとなる。
「書籍時評」の紙面には商業的な意図も強く感じられるため、ベストセラー表にも出版社や書店からの「依頼」が大きく作用していることは予想できる。従って、ベストセラー表だけで全てを判断するのは、危険とも言えるかもしれないが、敢えていくつかの推測を述べるなら、「インテリのためのベストセラー」が特定の店の販売データに依存するようになった背景には、すでに触れたように出版社の扱う本の範疇が広がったこともあって、本のジャンルを出版社によって分類できなくなったこと、書籍市場全般の多様化により、明確にジャンルの項目を分けることが困難になってきたという要因があるだろう。しかし、最も重要な背景は、探偵小説などの大衆文学が文学のなかでしだいに当たり前の位置を占めるようになり、人々の意識のなかで、探偵小説を「低俗なもの」として特別視する気持が薄れ、大衆文学と「インテリのため」の本の間に、それほど明確な線引きがなくなったことなのではないだろうか。
それを裏付けるように、1999/4/13 号からは、ついに、интеллектуальные
бестселлерыというタイトルが消え、単に、上に挙げた三つの店ごとの売れ行きリスト、お勧め本リストとなる。そのうち、"36.6-книжный
двор"によるレイティングは、беллетристика в
перерлете, беллетристика в обложке,
нехудожественная в перерлете
の3項目に分けられているが、それらの間の線引きは明瞭なものとはいえない。実際、1999/5/4号になると
"36.6-книжный двор"によるリストはкниги в
перерлете,книги в обложке
の2項目に単純化され、ジャンルを問わず単に本の形態(ハードカバーかペーパーバックか)の違いで分けただけの雑多なリストに転ずる。
そして1999/6/28号からは、ずっと続いていたбестселлеры
Москвыという名前が消滅、Рейтинги продаж в
фирмах и магазинахという見出しの元に、上記3社の提供するリストのみになる。"УСычина","Крафт+"は、本の通信販売を行っており、前者はインターネットでも販売している。モスクワ全体のベストセラー表がなくなったのは、モスクワの書籍市場が多様化した結果、モスクワ全体の統計を出すことが困難になったためだろう。
以上、書評紙「書籍時評」のベストセラー表を眺めながら、ロシアの探偵小説の発展とモスクワの書籍市場の移り変わりをざっと概観してみた。このように、ベストセラーに登場する探偵小説作家の名前の変化から、探偵小説の分野内における時代の移り変わり、つまり、海外物→ロシア男性作家→ロシア女性作家台頭という変遷がよくわかる。それと共に最も興味深いのは、「インテリ」用ベストテンと大衆文学を分けなければならなかった当初の状況が次第に変化し、大衆文学が大きな存在となっていくにつれて両者の線引きがあいまいになった結果、両者が統合されていく過程である
。現在では、もはや探偵小説と一般の文学、回想などその他のジャンルを完全に分けて扱うことは、考えられないだろう。そう言いきれるほど、ソ連崩壊後の新しい国産探偵小説というジャンルは、この数年間で、ロシア文学のなかに違和感なくすっかり溶けこんだ。
そして、現在では、探偵小説は二極化した文学の片方の極を象徴するものとして扱われれるようになっている。一例を挙げると、1998年4月15日付けの「文学新聞」(№15)に載せられた対談記事
のなかで、アンドレイ・ストリャロフは、現代のロシア散文を「テクスト派」と「シュジェット派」に分け、前者の代表としてはソローキンやナルビコワといった名前を挙げ、後者をマリーニナに代表される探偵小説としている。ストリャロフは、「テクスト派」を「為にはなるがまずい」ビタミン剤に、「シュジェット派」を「おいしいし見かけも誘惑的に作られているものの、たくさんは食べられず、結局はパンが欲しくなる」スニッカーズに喩え、どちらにも不満を訴える。ストリャロフの語っている内容でもうひとつ興味深いのは、両者の世界観には共通点もあるという指摘である。「シュジェット派」の扱う素材は殺人や暴力、犯罪全般であり、「テクスト派」の扱う素材は病、嫌悪感、ぞっとするような情欲で、これではまるで、人生はすっかり精神異常をきたしているようではないか、というのだ。
一方、タチヤナ・モロゾワは、「ロシアでは現在、文学はひとつではなく、いくつかある」とし、多極化する現代ロシアの文学を「貧血」の「ポストモダニズム」、探偵小説、古典的な小説の三つに分けている
。
そうした文学の多極化が見られる一方で、ジャンル間の混交もあり、探偵小説の分野で新しい作家たち活躍する一方で、純文学作家たちの間でも、探偵小説というジャンルに関心を示す動きがみられる。映画化もされた青春小説Как
Вам не снилосьなどで知られ、現在も「ノーヴィ・ミール」を中心に意欲的に作品を発表しているガリーナ・シチェルバコワは、1998年、マリーニナなどと同じ女性探偵小説のシリーズのひとつとして、『最後に笑うのは誰(Кто
смеется последным)』という作品を出した。また、リュドミーラ・ペトルシャフスカヤも、1998年のインタビューの際、今後の作品の執筆予定について聞かれ、「今、探偵小説を書いている」と答え、探偵小説というジャンルに対する関心を示している。このように、純文学の作家の中からも、探偵小説に関心を寄せたり、実際に探偵小説風のプロットをもった作品を手がける動きが生まれたことも、探偵小説とそれ以外の小説との間の溝を埋める大きな要因といえるだろう。
さらに、最近の文学雑誌の傾向などをみると、純文学作品にも犯罪や殺人のテーマを扱ったものが少なくない。1998年の5月に「新世界」誌に掲載されて話題となった、ヴラジーミル・トゥーチコフ『死はインターネットでやってくる』などはその典型的な例といえるそうだ。いずれにせよ、両者の溝が次第に狭まってきていることは否定できない。
文学状況の変化に伴い、批評や文学研究のあり方も変化を強いられている。商業的(宣伝の)意味が強く感じられる「書籍時評」紙は別としても、最近の新聞や雑誌には探偵小説について触れたものが増えている。書評紙「書籍時評」の紙面の文学雑誌等で目に付いた点を、以下に挙げてみる。
まず、「文学新聞」では、ここ数年、探偵小説を初めとする大衆小説と純文学の関係をめぐる問題を扱う記事が増加している。1999年に入ってからは、
"Книжный развал"という新コーナーが設けられ、さまざまな大衆文学の新刊を紹介している。「映画芸術(Искусство
кино)」も、1998年6月号で、ロシア女性探偵小説の第一人者、マリーニナの特集を行なっている。硬派の研究論文を掲載する雑誌「新文学評論(Новое
литературное обозрение)」は、1996年の第22号でА.И.Рейтблатの監修・編集で「もうひとつの文学(другая
литература)」というタイトルの特集号を出し、これまで文学研究のテーマとして扱われることのなかった探偵小説などのジャンルを、社会学の見地も取り入れながら読み直そうと試みている。
こうした状況は、出版界にとどまらず、研究者の間で広く見られる。保守的な立場を守っているモスクワ大学文学部でも、1998年の暮れに、ワルラーモフが、最近の文学雑誌に載せられた「殺人」をテーマにする作品を取り上げて問題提起し、物議をかもした。その後、1999年2月には、ついにマリーニナの作品分析についての発表した学者がいると聞く。
また、「文学新聞」1998/6/10,23号の報道によれば、大衆文学の学問的研究などを目的にした「大衆文学協会」が設立され、中央ジャーナリスト会館で円卓会議「ロシアのベストセラー:起源、傾向、パースペクティブ」が開かれたという。この報道を受けて、同年9月16日付の第37号にパーヴェル・バシンスキーが記事
を寄せ、この「大衆文学協会」に文化学者でブッカー賞審査員でもあるБорис
Дубинや、ポストモダニストのリーダー的存在Вяч.
Курьцинなどが名を連ねているという事実を挙げて、マリーニナがエリート文化に浸透しつつあることを、彼女の価値を認めながらも、皮肉な口調で嘆いている。
このように、探偵小説は確実にロシア文学のなかに浸透しているものの、探偵小説=低俗なものという意識は、まだ完全に消え去ったわけではない。そして、残念ながら、読むに堪えないほどレベルの低いものがたくさんあるのも現状だ。ロシアで「高級な」ミステリーが生まれにくい原因には、何より、出版社の意識の低さがある。まず、ロシアの探偵小説を「低俗なもの」と印象づける要因の一つにカバー絵があり、筋とは関係なく「美女」「死体」「拳銃などの狂気」といったひどい絵が描かれていることが多い。内容に関しても、出版社の要求はかなりレベルが低い。ダシュコワはあるインタビュー記事
のなかで、ある出版社に作品を持ちこもうとして電話したときのエピソードを語っている。出版社:「探偵小説?で、死体はいくつですか?」ダシュコワ:「たぶん5つです」出版社:「少ないなあ。じゃあ、エロチカは?」「恋愛ならありますけど、エロチカはないです」出版社:「書き足さないといけないねえ」ダシュコワ:「何も書き足すつもりはありません。」出版社:「それなら来ていただかなくて結構。」
概して、ロシアの探偵小説作家たちの立場は弱い。マリーニナのような超売れっ子は別として、大抵の場合、作品は出版社の買取りで、原稿料もべらぼうに安いという。上に挙げたダシュコワのインタビュー記事によれば、新しい作家を売り出す際にペンネームを使わせるのは、本名を隠して他の出版社からの引き抜きを防ぐための手段だという。ダシュコワは、出版社は自分が本名で作品を出せないように、自分の本名を他人のペンネームとして使わせたことを暴露している。
また単行本が売れたら文庫化するという日本の出版形態とは逆に、ロシアでは、探偵小説は、まず安価なペーパーバックで出版され、人気をつかんで高い金額でも売れるだけの下地ができたら、ハードカバーの形で売り出されることがしばしばある。ハードカバーになるひとつ前の段階として、ペーパーバック二分冊で出されることもある。マリーニナの場合、『私は昨日死んだ』が二分冊、次作品『レクイエム』『音楽の亡霊』はハードカバー。ダシュコワも同様、『敵の姿』が二分冊で、続く『砂金』はハードカバーである。ニ分冊で出された作品は、決して量的に大きいわけではなく、大き目の活字で一冊あたりの厚さは薄く、明らかに倍の料金をつけるための水増しであることがみえみえだ。
派手な表紙と通俗な内容で、とにかく売れればいいといった出版社の姿勢が変わっていかない限り、良質のミステリーは生まれにくいだろう。そして、圧倒的な数の上での優勢が、質的な上昇に変わっていかない限り、探偵小説を『低いジャンル』とする意識は変わらないだろう。しかし、この十年間の間に探偵小説というジャンルがしっかりと根付いたことは確かであり、ロシア文学の土壌に今後、どんな探偵小説が育って行くか、見守っていきたい。
付記:ここまでの内容は、1999年7月にスラ研で行われた報告をもとに文章化したものである。それからさらに半年余りが経った。それ以後の状況をきちんと追ってみたわけではないので、ここで詳しく述べることは避けるが、状況はさらに変わっているようだ。一時の熱にうかされたようなブームはおさまり、売れ筋の作家も読者層も安定してきたように感じられる。そういったなかで、以前、探偵小説に顔を露骨にしかめるという反応を示していた「インテリ」も、昨今ではあきらめの表情で見過ごすようになっているように思う。街の広告が風景の中でそれほど違和感をもたなくなったように、探偵小説はごく自然に文学の一画をしめるようになってきたということだろう。少なくとも、ここ数年の間に、探偵小説の量における圧倒が、出版業界や文学界をはじめ、社会の意識全体を変えたことは間違いない。
残念ながら、ロシアの新しい探偵小説の日本での知名度は、まだまだ低いが、日本での紹介という意味では、10月に吉岡ゆきさんによるマリーニナの翻訳が出るという歓迎すべき発展があった。
探偵小説は、犯罪の跋扈する昨今のロシアの現実を映す鏡としても、非常に興味深い。文学はもちろん、多かれ少なかれ社会を反映するものだが、純文学が思想などより普遍的なものを志向するのに対し、探偵小説は実際に起こった犯罪を想定するという性格上、社会の抱える問題をよりリアルに浮き彫りにするという面もある。ロシアの探偵小説に、マフィア、汚職がらみのものが多いのは、当然、社会を反映してのことだ。逆に、西側の探偵小説にしばしば見られる「遺産相続をめぐる動機」での殺人事件は、ロシアではまだまだ現実には遠い。細かい描写についていえば、ロシアの現代探偵小説に書かれる街の風景は、純文学の描く町よりも、俗っぽく、具体的で、それだけに現実に密着している。底知れぬ現代ロシア社会を研究する上でも、探偵小説は格好の材料になりうる。
その後、著名な日本文学者で、三島由紀夫の優れた翻訳などでも知られるグリゴリー・チハルチシビリがアクーニンのペンネームで新しい時代物探偵小説のシリーズを出すなど、知的水準・美的基準の高い読者を充分に満足させる、良質のミステリーも登場してきた。今後は、「状況として」の探偵小説ブームを論じるのではなく、個々の作家たちを具体的に論じながら、ロシアの探偵小説の特徴や、個々の作家の特徴に迫る、より具体的な研究を重ねる必要があるだろう。