●ユーリー・マムレーエフ
転生に躓いたホムンクルスたち
― ユーリー・マムレーエフ『黒い鏡』の世界
亀山 郁夫
雪解けの時代から今日に至るまで、異端中の異端と見なされ、一部から熱狂的な支持を得ている作家ユーリー・マムレーエフ(1931年生まれ)。1999年に出た彼の短編集『黒い鏡』のコピーに「グロテスクと深遠な哲学の驚くべき融合」と書かれている。早くからインド哲学、神智学に親しみ、オカルティズムの本を地下出版し、自分の作品をテープ録音で流布させるなど、マムレーエフが歩んだ道のりはまさに、ソビエトの公式文化との地を這うような戦いだった。マムレーエフの名が一躍知られるようになったのは、亡命後もまもなくアメリカで出た『地獄の空』(英訳)。殺される人間の魂をのぞきこもうとして連続殺人をおかす男の執念を描いたこの小説で、彼はゴーゴリ、ドストエフスキーの直系との評価を受け、ポストモダン派の批評家M・ルイクリンは、ブロツキーと彼の二人を挙げて「現代ロシア文学の二つの極」とまで書いた。
マムレーエフの小説を貫いているのは、人間の生命を輪廻転生の一つの相として見る哲学であり、死とは「不死なる私」の身体からの離脱でしかない。しかし現実に小説に登場するのは、悪魔的な力に弄ばれ、無惨な死に追いやられるホムンクルスたちばかり。短編集の表題に選ばれた「黒い鏡」は、ニューヨークの裏町に住み、「自分はだれか」との奇妙な問いにとりつかれた男の物語である。部屋の中央に置かれた黒い鏡から、夜々、姿を現す奇怪な人物たち。二つの頭をもち、犬のように耳を垂らした男は「おまえは誰か?」と住人に問い返す。物語のフィナーレで、「私」の本質など認識不可能と悟った主人公は、その日のうちにふっつり姿を消してしまう。
さらに「野蛮な話」となると、生まれつき片足が短く、手の指が七本しかない別のホムンクルスが登場する。共同住宅の一室で孤独な毎日を送る男は、ある日、ヴェジマ(「魔女」の意味がある)という老婆からお茶によばれ、何のつもりか、即座に結婚を申し込む。喜んだ老婆は、ただちに役所に行き、式の日取りまで決めるのだが、当日、新郎は寝過ごして現れず、結婚話はご破算となる。それから何年かが経ち、男は市電に轢かれて死ぬ……。ここに収められた小説は、人間が授かった運命の悲惨さを、時に民話風のユーモアを交えつつ綴ったものばかりだが、それらの底に淀んでいるのは、幸せな転生に躓いたホムンクルスたちの群れとして現代を見るマムレーエフの恐るべきニヒリズムに他ならない。
ここでは、『黒い鏡』("Черное зеркало",1999)に収められた短編を通して、その作品世界に親しんでいただこうと思う。
*『黒い鏡』("Черное зеркало")より
「墓場の人々」("Люди в могиле")
――「私は恍惚に至らんまでに完全に破滅した人間だ」。マムレーエフの小説「墓場の人々」はこうして書き出される。私は父母を知らず、父母がいたのかさえ定かではない。どこで生まれたかも知らない。幼年時代の半ばを孤児院で過ごし、残り半ばを「祖母」と称する老婆に育てられて過ごした(私は彼女を曾祖母と考えていた)私は、ある日、その老婆から、自分の死んだ母がほど遠からぬ墓地に葬られている事実を明かされ、おまえの母親は私の子ではないという話を聞かされる。母のぬくもりの記憶をもたぬ私は、墓のことなどなんらおかまいもなしに過ごしてきたが、ある時、年上の女の子たちのいじめにあったのがきっかけで、グチをこぼしにいこうとお墓に行く決心をする。そうして墓の前に一人たたずんでいるとき、背中から「何かひんやりした手」に自分のむき出しの足をつかかまれる。恐怖のあまり声も出ず、そっと振り返ると、そこには、「まるでそれは哀れな死者たちの口から飛び出してきたかのよう」な巨大なヒキガエルがいた。
それから再び時が経ち、14歳になった私は、自分が恋する同じ年の少女を連れて母親の墓参に行く。夜、墓石に近い草むらで心地よく寝そべっていると、夜蔭から二つの巨大な目が自分たちをのぞき見ているのに気づく。それは不気味なほど大きな猫だった。私は少女を揺り起こし、家に連れて帰るが、翌朝、またもや好奇心にかられて墓地に行き、墓守の老人に前夜のいきさつを話して聞かせる。するとその老人は、「あれは、猫なんかじゃなくて、妖怪だ」と答えた。
ある秋の日、再び母の墓参りに出かけていった私は、墓地の門から年老いた人々の一群が入ってくるのを目撃した。彼らの傍らには年の頃、13歳とおぼしき少女がいた。彼らは無言のままお墓を徘徊し、傍らを通り過ぎる。好奇心にかられ、私はその少女に声をかけるが、返事はない。墓地をさまよう老人たちの一群とその少女は、決して声を発することのない異界の人々であることを知り、私は世界に向かって叫びだしたい気になる。家に帰っても、脳裏に焼き付いたその少女の、どうしても好きになれない、恐ろしい目が忘れられず、夢にうなされ、ウオッカをあおる4日間が続く。
それから私は、毎日のようにその「妖怪」たちに会いに出かけていき、ついに七日目にして、輪をなして墓地を歩いている彼らの姿を見つける。そしてそのさまを墓守に一部始終報告する。「この墓場の人々をおそらく忘れられないだろう。とくにあの娘はとくに」。
一ヶ月後、お墓に行きたいという悩ましい思いが高じてくる。「私の頭はそのために変わり始めたほどだった。とりわけ死のことがだんだん考えられなくなった。まるで私の頭が自ずから死と化したかのように。そこになんだか黒い光が生じたみたいで、私はその光で目に見えないものに触れ、その光は私をあの娘が住んでいた宇宙の途方もない穴蔵へと連れていった」。
そんなある日、私は、お墓の側のパン屋でばったりその少女に出会う。重いまなざしでじっと私を見すくめるその少女の手に、私は手でそっと触れてみる。「内側の黒い光に焼かれ、導かれるようにして私は歩き出した。娘は私の後からついてきた」。だが、そうしてゴミためのところまで来ると、突然、まばゆく輝く球が遠くに見え、私はこの世のものと思われない笑いに襲われる。そしてその瞬間、ゴミ溜めの木の下でふと振り返ると、その少女の姿も、球も姿を消していた。夜が去り、朝が明けようとしていた。それきり、私は二度とその娘に出会うことはなかった。
何年かが経った。大学を終え、一人前に大人になり、私は故国を捨てて西側の大都会にやってくる。ある日、ニューヨークの大通りを歩いているとき、突然、私は「墓場の人々」と「あの娘」を思い出し、瞬時にして一つの大いなる発見にたちいたる。墓場のあの人々こそが生きている人間であって、雑踏のなかを歩く「仮面のような顔の人群れ」こそ死人、永遠の死人に他ならない。ニューヨークの雑踏の中を歩く彼らは二度と戻ることのできない境界を渡ってしまった人々なのだ、と。「彼らのオートマチックな願望のすべて、その目にちらりと光る微かな肉欲、陰鬱で合理的な知恵(至高の知恵などはもはや存在しないかのようだった)、それらは緩慢な死の流れに他ならない。/そして私が逃げるべきはあの墓場の人たちではなく、この車であり、仕事であり、頬の赤みなのだ」。
そして私のなかに、ロシアへのある名状しがたいノスタルジーが募ってくる。「どこでいつ生まれた身かは自分にわからないが、ロシアは私にとって永遠の神秘として留まるだろう。何しろ、ロシアはすべてを含み込んでいるのだから。人類も、東方も、聖なる魅力も、西側のイヂオチズムも、メタフィジックな広がりも、修道院も、草のそよぎも、グノーシスも。だが、ロシアにおける最も気高いもの、それは人間の目、人間の知恵から滑り落ちてしまう。つまり、このロシア的至高を何かつまらぬものへと変えてしまう/私は一つのことを信じている。つまり、われわれの人類、というか、現代文明を清算すべき時に来ているのだということ。何しろ、この現代文明とやらから生き残ったものといえば、ひとえに名前だけなのだから。しかるに名前とは、巨大で貪欲なしかばねではないか。いったいなぜ、そんな名前などと関わりあうのだ。せいぜい地獄に落ちるぐらいのものではないか/おそらくこうしたほうが――さしあたりそれは不可能なことだが――つまりわれわれの惑星に渡ってきたほうが良いかも知れない。そしてこの惑星をロシアと名づけ、いわゆる人類とやらぬきでここに一人で住んだほうが。深淵なるロシアの歌が、「天上の音楽」(ピタゴラス派の)のように響きわたるように、われわれの、自分たちの、捕らえがたい、遠い、魂をゆさぶるような世界を最終的に創造するのだ……。そして星々並んで、私たちの白樺がともに輝くように……」
マムレーエフはかつて、ペレストロイカ時に、「ロシアを求めて」と題する長文のエッセーを『文学新聞』に寄稿したことがある。稀代のペシミストとみなされた彼の「ロシア探求の試み」をめぐって、当時どんな議論が交わされたかは、いまとなっては、知るよしもない。レールモントフ(「でも、ぼくは愛する、なぜかは自分にもわからないが」)、チュッチェフ(「知もてロシアははかりえず」)ら、ロシア不可知論の系譜を引き継ぎながら、ロシア的なるものをめぐって自分なりをアプローチを示そうとしたのだ。そしてそのシンボル的存在として引き合いに出された作家の一人が「20世紀最大の作家の一人」アンドレイ・プラトーノフだった。マムレーエフによると、プラトーノフは、「ファンタスティックな真摯さと赤裸々さ」(それこそがロシア性の本質なのだ)によって、「存在と非在の間のコスミックな対決」を、「死を克服せんとする人間の、いやます隠された渇望」を明らかにしてみせた作家であり、その精神は、東方性、精霊のインドとも密かに結びついているという。マムレーエフは、さらに、プラトーノフのもつ「4次元的」世界、現代的ともいうべき表現を勝ち得た彼の「ロシア性」(ルースコスチ)、その作品世界に登場する「熟考する」住人たちを西側の人々が用意に理解しないという事実は、彼ら西欧人の日常世界を支配する機能的世界が、取り返しのつかぬ「災厄」に陥っていることを意味しているとまで言いきって見せる。プラトーノフが見せる「存在」へのぎりぎりの沈潜は、何よりも「事実」に惹かれる西欧的知のあり方とは異質のものなのだ……。
国家崩壊後のいま、猫も杓子もアメリカナイズの道をひた走るロシアの大地から、希有のトポスが失われようとしている。死者と生者が自由に行き来する土地。記憶が風化しない希有のトポスとしてのロシア。時間の歩みの極端に遅いロシア。だから、魂の4次元を求めて亡命地から祖国に舞い戻ったマムレーエフの未来は、彼の小説のように暗く、果てしない。
【資料】 ソ連時代におけるモンスター文化の系譜及びマムレーエフを理解するために
1.スミルノフのマムレーエフ論
(И. П. Смирнов : Эволюция чудовищности (Мамлеев
и др.), НЛО, № 3,1993.)
「1950年代末に、モスクワの文化的アンダーグランドで文学的活動を開始したマムレーエフは、狭い範囲の崇拝者に囲まれ、ロシア語圏のポストモダニズムにおいて、たとえその先達ではないにせよ、散文のなかで描かれるすべての世界を怪物性(チュドーヴィシノスチ)へと一つに収斂させた先駆者の一人だった。マムレーエフのテクストは社会的な機能をもっている。つまり、社会のスターリン主義的な構造を破壊し、全体主義の時代に奪い取られた独自の意味をこの怪物性に返してやろうというのだ。マムレーエフにおいてしばしば(常にではないが)語りの背景をなしているソビエトの日常生活こそが(たとえば短編小説「フィアンセ」)怪物的である。だが、彼の散文を理解するうえで、ソビエト体制に対する批判にのみに拘泥することはきわめて非生産的だろう。なぜなら、マムレーエフはこの「怪物性」をどこまでも容赦なく、仮借なきリアリズムで描きとっていくからだ。文学テクストにおいて、モンスター(монстр
怪物)はふつう、日常的な規範を破壊する例外的な現象であるが(たとえば、カフカの『変身』のグレゴール・ザムザ)、マムレーエフは、この怪物的なものに対置すべき何かを、少なくとも人間の世界には何一つ見出そうとしない。マムレーエフの小説において、このモンスターと1対1で対峙させられるのは、われわれが生きる日常世界ではなく、別のモンスターなのだ。短編小説『新しい習慣』では、チェーンから外れたノコギリが主人公の足を切ってしまう。気晴らしをするために、「善良な」老人のもとに遊びに出かけていった不具者は、その老人が、お茶をのみながら、切り取られたばかりの死んだ頭と性交するさまを見る。長編小説『浮浪者たち』("Бродяги")では、バロック風の骨董品陳列館さながら、ありとあらゆる奇形の見本が展示され(人喰いにいたるまで)、さまざまな知的社会的特色をもったモンスターたちの間で葛藤が持ち上がる。死体たちとしみじみとした対話を交わそうと、とめどなく殺人を重ねる田舎出身の古風なモンスターたるフョードル・ソンノフは、はじめ、死者のテーマをさかなに議論にふけるモスクワの若い知的アウトローに接近し、やがては彼らをも自分の毒牙にかけてしまう。『浮浪者たち』における対立葛藤をめぐってここで指摘しておくべきことは、「怪物性」は、総じて、しばしば考えられているように、必ずしも視覚的なものではないということだ。グロテスクな身体とは、この怪物的なるものの一形態にすぎず、抽象的なレベルにおいて架空のオブジェの生気を奪い、デフォルメするみだらなメンタリティとは別物だということである」
* 怪物的なテクスト、あるいは作家の怪物性
1970年代に頭角を現しはじめた作家たちの世代を同時代の人々は作家のそれと同一視する傾向にあった。つまり、描写された主体にくわえて、それを描写する主体も怪物的(おぞましい、ぞっとする)だという。ポストモダニストたちの第2世代の視点からすると、主体の怪物性をうんぬんする議論は成り立たない。
* アンドレイ・ビートフ『プーシキン館』のレフ・オドエフツェフ青年は、スターリン時代のラーゲリから解放され、いまは学者としては廃人と化した祖父と出会う。彼はまさにモンスターだ。ラーゲリ時代の綿入りジャンパーを来て、元囚人の仲間たちと酒を飲んでは荒れ狂う。祖父は孫に「ロシア文化は1917年のボリシェヴィキ革命と同時に終わったのだ」という。だが、この出口のない状況からの出口がうまれる。このオドエフツェフ青年が文学者=間テクスチュアリストとなり、他人の創作の共同主体、となりメタ主体となり、過去の文化の唱道者となるということのなかにである。ポストモダニズム2は、メタ主体すなわち主体的なものについて語る者すべて、すべてのテクストの創造者に怪物性を拡大していった。
* サーシャ・ソコロフ『パリサンドリア』の主人公パリサンドル・ダーリベルグ(両性具有者)は、老婆に対してのみ性的な魅力を感じ、もっぱらお墓を収集する。
* ドミートリー・プリゴフの抒情的「私」
大ホールの真ん中で
幼いぼくがバイオリンを弾いていると
背中からクマネズミが這いだし
ズボンをよじ登り
ぼくのちっちゃな陰嚢に
喰らいつき穴を開けようとしてた
でもぼくは一生懸命弾いていた
寒い大ホールの
真ん中で
*
ウラジーミル・ソローキンの「嫌悪の詩学」または間テクスト性「ウラジーミル・ソローキンの『ロマン』の主人公はロマンという名だ。主人公は牧歌的な村にやってきて結婚しようとしているが、結婚のしばらく前、狩りの最中に凶暴な狼に噛まれる。気の狂った主人公は、きわめて野獣的かつ冒涜的な手段で、この牧歌的な村の住人すべてを殺害し、自らも果てる。マクシマリスト、ソローキンにとって作者がおぞましい(怪物的な)のはいまここにある個人としてではない、作者そのものとして、そのいつもの流儀において、ジャンルの牢獄のなかの自己監禁においてである。ジャンルの名と犯罪者の名は一致する。ここでは美的なものは、リルケのエピグラム風にあることがわかる。取り返しのつかぬおぞましさ(怪物性)の、つまり恐ろしさのまさに始まりとして」
伝記資料: ユーリー・マムレーエフ Юрий
Витальевич Мамлеев (ll.12.1931, Москва)
モスクワの精神医学の教授の家に生まれる。1955年に森林技術大学を卒業、1974年まで勤労者青年のための学校で数学を教える。1953年からインド哲学、神智論、オカルトに凝る。1958年からモスクワの彼の部屋は神秘思想に凝る人々の集会場となる。1953年から1973年まで100以上の短編を書く。1974年夏、亡命の許可が出る。1983年までアメリカに滞在し、その後パリに移る。彼の名前が最初に出たのは、1975年、『新雑誌』と『第三の波』。1980年に散文集『地獄の空』("The
Sky Above Hell")でペンクラブの会員に選ばれる。1985年に1960年代の神秘思想家たちの地下グループをテーマにした『モスクワの捨て駒』を発表。ペレストロイカ期に入り、完成から20年を経て『浮浪者たち』(1966-68)が発表される。1994年にモスクワに帰る。
「マムレーエフの作品の精神的な基盤とは、非物質的な実在に含まれた度重なる転生の諸相としてこの地上での生を自覚することにあり、そのおかげでもって、死は不死なる「私」の身体からの開放を意味する。だが、マムレーエフは、形而上学的な問題をめぐって数多くの論文を著しながら、その作品の中では、そうした知識をもとにより希望に溢れた自由なる世界へとその生命を差し向けるような信仰に厚い人間を描いてはいない。それどころか、マムレーエフが描くのは、悪魔的な力に翻弄され、踏み迷う人間たちである。その主人公たちは、物質的、性的関心にすっぽり呑み込まれ、殺害し、虐待し、凌辱する……」(В.Казак, Лексикон русской литературы 20 века, М., 1996)
マムレーエフの作品(単行本のみ)
The Sky Above Hell, New-York, 1980
Изнанка Гогена, Paris-New-York, 1982
Живая смерть, Paris -New-York, 1986
Шатуны, New-York, 1988
Утопи мою голову, New-York, 1990
Черное зеркало,1999.
Эссе:Духовное возрождение в России, ж."Континент",
№36, 1983.
В поисках России, "Лит. Газ.", 1989, №2.