●マカーニン, ウラジーミル Makanin, Vladimir
「抜け穴」 laz. Novyi mir, No. 5, 1991.
解説 望月哲男
1.作家について
1937年3月17日、オルスク生まれ。1960年モスクワ大学(数学科)卒。映画大学でも学ぶ。1965年『直線』でデビュー。『父無し子』(70)『話のはなし』(76)など、戦後世代の感性をアイロニーとユーモアを交えて描いた作品で人気を博した。人物の輪郭とその肉声や思考をバランスよく追っていく作風は「肖像画的タッチ」と評され、しばしばプロットを脱する小説の魅力は、T・トルスタヤなど若手にも支持されている。反面、脱イデオロギーの「軽薄風」文体に対する真面目な作家からの批判もある。
80年代には『予言者』(82)『喪失』(87)など、一種の超常感覚や時間の混淆感覚をモチーフにした作品を描きはじめ、それが90年代の『プロレタリア街のシュール』(91)『抜け穴』(91)などにも受け継がれている。93年ブッカー賞を受賞。
2.作品について
小説の舞台はモスクワと思われる大都市、時間は恐らく近未来。都市の表層は天災か大戦争の後を思わせるような荒廃ぶりで、電話・給水・交通といった公共サービスがまひしかかり、盗みや強姦事件が頻発している。市民はブラインドを降ろしたアパートに篭るか、あるいは別荘地に避難している。時折正体不明の群集が洪水のように市街を通過して、人々を踏みつぶしてゆく。
いっぽう都市の地下にはレストラン、商店、病院等を供えたもうひとつの都市が開け、別の市民生活が営まれている。地下都市の発生や地上との関連については説明されていないが、以下のことがほのめかされている:・地下都市の住人はなんらかの事情で地上都市から切り離された人間たちであり、地上の状況に深い関心を持っている。・地下都市の人間は呼吸器系の病気によってたやすく死ぬ。・地下都市の生活には祝祭的な側面と哲学的側面があり、住人たちはコンサートや宴会を楽しむ一方で、現代社会の構造、現代人の心理、人間の運命といったテーマについての議論に明け暮れている。住民の大半は未来へのペシミズムに支配されている。・地下都市の規模は不明だが、構造は地上都市のそれと対応しているらしい。
主人公は中年に差し掛かった「インテリ」ヴィクトル・クリュチャリョーフ(マカーニンの別の作品『クリュチャリョーフとアリームシキン』の主人公と同一人物)。荒廃しかけた団地の一室に、妻と知恵遅れの息子(14才)とともに暮らしている。小説は5章からなり、主人公が地上と地下を往復しながら、家族用のシェルターを掘り、友人の住む別荘地を訪れ、別の友人を埋葬し、最後に帰宅するまでの長い一日を描いている。
ストーリー:
第1章: 主人公クリュチャリョーフは、地上で得られない土堀りの道具を入手するために、空き地にある秘密の抜け穴から地下に入ってゆく。降りた先は、地下都市のレストランにあたり、彼の知合いたちが「肉親のような」雰囲気を漂わせて食事をし、現代の共同体の本質について議論している。主人公は知人ニコディーモフによってなにかの編集部のような場所に連れていかれ、二人の初老の男性から「上の生活について」要領を得ないインタビューを受ける(「街路に死骸の山ができているのでは……?」)。
インタビューの後、抜け穴通過時に負った傷の痛みを感じた彼は、診療所で治療を受けるが、そこでも医者から「上の生活」について質問される。
スタンドで軽くウォッカをひっかけた彼は、倉庫街にゆく。そこでシャベル、バール、つるはしを入手し、初対面の店の女主人と慌ただしい情事を交わす。
道具を持った彼は、前よりも狭まった抜け穴を苦労して上り、地上に出る。そこで彼は「半信半疑で育んでいたアイデア」=自宅に近い水辺に隠れ家となる洞窟を掘ろうというアイデアを実行に移す。帰途についた彼は、通りかかったアパートの一室にまだ使える電話を発見し、群集の犠牲になった友人パヴロフの妻に電話して、遺骸の引き取りと埋葬を手伝う約束をする。
第2章: 自宅に戻った主人公は、水も灯火も尽きかけているアパートを捨て、川辺の洞窟に避難する計画を妻に打ち明ける。妻と共に息子(体は巨大だが知恵遅れの14才の子供)を入浴させた後、パヴロフの埋葬の段取りをつけるため、別荘地に避難しているもう一人の友人チュールシンのもとに出かける。バスを乗り継いでゆく間、彼は息子の将来に思いをはせる。
別荘地に着いた彼は、チュールシン一家が、別荘の隣家の老人がかつて作ったシェルター(2本のタンクを地中に埋め、一方に水を、他方に食糧と空気を満たしたもの)に住みついているのを知る。チュールシン夫妻はクリュチャリョーフ一家もそこに合流するように申し出るが、彼は身動きの不自由な息子への気遣いもあってそれを断わる。主人の外出を警戒する妻をはばかりながら、二人は友人の埋葬の算段をする。
帰途主人公は泥棒を見かけ、さらに強姦された女性を助ける。
堀かけた洞窟を通りかかった彼は、家にいるはずの妻が一人で洞窟を堀り進んでいるのを発見し、(穴居時代の暴君にならねばならぬ身として)その軽率さを厳しくたしなめる。妻を送り帰した後、彼は再び抜け穴にもぐり込もうとするが、いまやそれが大地の変動でひどく狭まってしまったことを知る。彼は(地下世界や宴席をではなく)思考と言葉の存在する空間を失ったことに絶望を覚え、地下に向かって絶叫する。
第3章: パヴロフの家で落ち合ったクリュチャリョーフとチュールシンは、パヴロフの身重の妻オリガとともに、バスで遺体の収容された病院へ出かける。病院の付近で彼らは巨大な群集の流れに巻き込まれ、非常な恐怖を覚えながら群集を観察する。
遺骸を引き取った彼らは、親切な遺体管理人の老人の世話で、それを病院裏の教会の廃虚に埋める。
3人は将来の協力を約束しながら別れる。帰途クリュチャリョーフは道端に倒れた人間のポケットを探っている男に出会う。
第4章: 再び少し広がった抜け穴から、クリュチャリョーフは地下に降りる。レストランの人々に混じって、彼は彼らの議論に耳を傾ける。テーマは人間の「共存」の意識について。ある者は共存意識に期待をかけ、ある者は共存=運命の共同性の事実こそが現代人を脅かしていると考える。一人は蜜蜂の群のような一斉の死を予言してみせる。
続いてクリュチャリョーフは光にあふれた市街で灯油と電池を買い、先の倉庫で洞窟に敷き詰める布を入手する。途中で彼は店の売子から地上の知人への伝言を頼まれる。最後に道に迷った彼は、やがて地下都市の空間配置が地上のそれと対応していることに気付く。
立ち寄ったカフェでは現代の理想的な指導者について、群集と指導者の関係についての議論に耳を傾ける。カフェでは未来への姿勢を問う社会学調査が行われているが、未来を信じない人々の返却するカードが、みるみる床に積もってゆく。
第5章: レストランの人類に関する議論(「人間は生命を作り替えられる動物なのか……それとも自分に見合った穴を永遠に捜し求めている巨大な種族なのか……」)を聞きながら、主人公は地上に戻ってゆく。思想の内容ではなく、言葉を語る人々の情念に彼は感動を覚える。
抜け穴のくびれの箇所で、彼は窒息しそうな恐怖と共に、大地に閉ざされて化石となる運命を予感する。さらにまた自分の動きを、大地という女性の体内における男性の動きに例えてみる。
洞窟シェルターに戻った彼は、それが心無いものの手で破壊されているのを見る。しかしそこに示威的に吊された烏の死骸から、相手が単なる動物的な憎しみの段階から、理解可能な記号使用の段階に達した存在であることを確認し、それに慰めを覚える。
既に家の近くで、彼は疲労のあまり寝込み、夢を見る。夢の中では抜け穴が極度に狭まり、言葉しか通さない穴になっている。地下から何か話してくれというメッセージを受け取り、彼はあらゆることを混乱状態で話し続ける。そして彼が返信を期待して穴にたらしたロープの先には、何本もの盲人用の杖がくくり付けられて出てくる。
彼は最後に薄闇の中で親切な男に起こされて目覚める。
3.コメント
* 叙述は情景描写、会話と主人公の内省をつないでゆくスタイル。主人公の視点を外れた説明的な叙述は殆どない。テンスは現在形。語彙を含め文体は平易な口語体。結果的に映画のシナリオを連想させる。
* 作品は一種のユートピア社会小説としての性格を持っている。その際地上と地下の構図は、何等かの「終末」後の世界像(例えば核や科学兵器による戦争後の地上と巨大シェルターの中の世界)、もしくは政治的大変動の後の世界を連想させる。もちろん現代ロシアとその地下世界(あるいは国外ロシア人社会)との対比としても解釈できる。
ただしザミャーチンの『われら』にあるような、ユートピア(アンチユートピア)社会のイデオロギーと人間的論理の対立といった、明確な理念的問題は提示されていない。地下世界は当面の安逸と思考のための時間を与えているが、それは一種の避難所としての受動的なユートピア空間である。したがって地下の人々の言説には、「群」「共同体」「リーダー」といった「政治的」概念への不信がある一方、それに対抗するべき理念(「個」「理性」「愛」など)への信頼が存在しない。総じて彼らは未来に対して多くの希望を抱いていない。
* 哲学的空間としての地下世界の議論には、現代の共同体の質の問題、人間の運命共同性へのオプチミズムとペシミズム、指導者論、理性を失った群集(大衆)論、環境との関係における人間の本質論等が含まれる。これらは現代ロシアにも広がっているスラブ主義的共同体論、メレシコフスキーやオルテガ・イ・ガセットの大衆論、人間の壊れた本能に関するフロイトの後継者たちの理論、ヘーゲルの流れをくむ「歴史の終わり」論などを連想させる。しかしそれらの議論は、イメージとして提示されるだけで、展開されない。(マカーニン自身の大衆論・指導者論は、人類の神話想像力に引き付けた形で、「のようなもの」で展開されている。)
* 主人公は概して、光・色・音・声・形・肌触り・痛みといった、理性ではなく感覚に訴える力に対し反応する。彼の思考も、論理よりもイメージでできあがっている。彼は身体を圧迫する抜け穴の感触から、原始的な生物の世界感覚のようなものを体得する。地下世界で彼をいつまでも感激させるもののひとつは、その照明(光)である。また彼は自分が掘った避難用の洞窟の形が抜け穴に似ているというところから、人間の内なる「大地の思念」を感じる。彼の群集イメージの中核を作るのも、その(架空のあるいは現実の)足音であり圧力である。同じく家族や友人について彼がもつイメージも、それぞれの声やポーズ、仕草に結び付いている。
地下世界の哲学的な議論についても、彼は人々の発話の内容よりも、その言葉と声に反応する。彼にとって地下世界は、語り合う高尚な言葉が存在する世界である。従って(現実にあるいは夢で)抜け穴が塞がれようとするとき、彼を恐怖させるのは言葉によるコミュニケーションが失われてしまうという感覚である。おそらくこの作品の中では、思想的なあるいは政治的なユートピアと、感覚的なユートピアとが対置されている。
* 作品のモチーフには、大江健三郎に通ずるものが多い。
* 物理的な、隔離されたユートピアの不可能性というテーマ: 恐怖に促されて世界から自分の身を隔離しようとすることは不可能である。このテーマが作品ではシェルターのパラドクスといった形で展開されている。地下の広大なシェルターの住民は、現実的な安逸の代償に、心理的な不安を抱え込んでいる。「いま僕らを脅かしているのは、まさに僕らが運命を共にしている、つまり共通性という概念でくくられているという事実なのです。飢饉、無秩序、大量虐殺、市街での殺人、完全に狂った群集……これらが僕ら全てを支配しています。」人々の共同体意識は、彼らが外に残してきた狂った社会のイメージを引きずり、それによって歪められている。地下都市が構造的に地上都市を模倣しているように、外部の群集の狂気はそのまま内部の彼らの狂気となるのである。
隠れ住む友人たちの住居にも、この内部・外部の狂気における対応がみられる。群集に押しつぶされた友人のアパートには、侵入者への牽制のために、「ドアの内部にX線放射機あり。照射量:ドアの前に2秒で2000レントゲン……」という看板が掲げられている。もう一人の友人が住むシェルターは、核戦争におびえた老人の設計で、地中に埋めたひとつのタンクにはコンデンスミルク、粉末ゼリー、米や砂糖のうず高い山が積まれ、もう一方の水タンクには、おまじない用のイコンの破片までが沈められている。これらはみな外部の狂気から身を守ろうとする人間が内部に抱え込んでしまう狂気のサンプルである。地下の住人の意見によれば、人間は生物学的に自分に見合った穴が見いだせないために、安住の地を求めてさまよっている生き物である。
* 主人公の抜け穴は、このような自閉的な空間から疎外された彼の生きる場所を象徴している。抜け穴は外部でも内部でもない、自己完結しない交通空間(内部に食い込んだ外部)であり、そこに安住することはできない。それはまたこの都市のバスや電話と同じように、いつ失われるか分からない不確かな空間であり、さらに群集と同じく、通るものを押しつぶそうとするよそよそしい空間である。ただ主人公はコミュニケーションのためにこの空間を必要とする。彼にとって抜け穴と言語は等価である。
「彼らのうわずった言葉は正確でもないし、説得力もないが、しかし真剣な言葉はたとえ不正確でも人の心を開き(我々の心に抜け穴を穿ち)、ほじりだされた痛みが、新しい言葉を発するのだという、そんな期待に満ちている……」
結局ここでは、ユートピアのテーマが、閉鎖空間とコミュニケーション空間との対比として展開されている。
主な関連文献:
L・バルタシェヴィチ「抜け穴」Oktiabl', No. 2, 1992.
V・マルーヒン「抜け穴の象形文字」Moskovskie novosti, No. 40 (6-X), 1991.
Y・ドュージェ「自らが住む国のため」Sever, No. 3, 1992.
M・ゾロトノーソフ「天才たちへの伏兵」Moskovskie novosti, No. 47 (22-XI), 1992.
M・リポヴェツキー「山とトンネルに関するパラドクス:マカーニンと彼のプロット」Literaturnaia gazeta, 10-IV, 1992.
G・ルキヤーニナ「真実の時?(「抜け穴」「僕たちの道は……」)」Literaturnaia ovozrenie, No. 3/4, 1992.
A・エゴルニン「望みもなく」Literaturnaia Rossiia, 17-I, 1992.