●リプスケロフ, ドミートリー Lipskerov, Domitrii
「チャンジョエ40年記」 Sorok let Chanchzhoe. Novyi mir, No. 7, 1996 /Vagrius, 1996.
解説 望月哲男
1.作家について
ドミートリー・リプスケロフ(Domitrii Mikhailovich Lipskerov):1964年モスクワ生まれ。小説家、劇作家。
主な作品:
Shkola dlia emigrantov. P'esa. Teatre, No. 9, 1991. pp. 175-191.
Reka na asfal'te. P'esa.
Sorok let Chanchzhoe. Roman. Novyi mir, No. 7, 1996./Vagrius, 1996.
2.作品について
Sorok let Chanchzhoe.
1)あらすじ: 舞台となるのは、ロシアの縮図のように雑多な住民構成を持つステップ地帯の町チャンジョエ。この町の雑色性は、様々な民族的出自を連想させる主人公たちの固有名詞に現れている。中国風の町の名称は「鶏の町」を意味すると主人公の何人かは言うが、根拠は不明である。
あるときこの町に何百万羽もの雌鶏が突然飛来し、繁殖し始める。やがて市長をはじめ有力者たちが一大鶏肉産業を興し、町は莫大な利益で潤うようになる。しかし数年後、この町に次のような一連の異常事が発生する。
a)謎の年代記: 主人公シャレルの妻エレーナが、突然忘我状態に陥って、暗号による一大作品を書き始める。孤児学校の教師の解読によれば、そこにはこの「古い町」の歴史を40年間に圧縮したような年代記が書かれている。
b)幸福の塔と飛行船: 町の朝鮮人住民と対立してきたナショナリストの商人ヤグーディンが、広場に1露里以上もの高さの「幸福の塔」を建設し、皆で天国に上ることを企画する。この人物は人海戦術で30万個のレンガを積み上げたところで、町民を罵倒しながら建築中の塔から身を投げ、結局神話的な英雄として葬られる。その後、町の物理学者ゴーゴリが、この企図に続くかのように直径400フィートの「幸福の気球」を建造、全住民で幸福の世界に飛行することを提案する。彼は住民に拒否され、一人で飛び立つ。
c)連続殺人: 孤児学校教師チョープルイが、自らの生徒2名を殺し、内蔵を奪って食うという猟奇的事件を起こし、町を混乱させる。
d)羽毛と暴動: やがて大半の住民の首筋に鶏の羽毛が生え始め、パニックが起こる。修道士ガヴロンの開発した青いリンゴがこれに効くことが明らかとなるが、市民の治療薬として作られた青リンゴのコンポートは、混乱であっけなく失われてしまい、住民は鶏肉工場を襲って鶏を虐殺し始める。
この最後の事件の結果、鶏は群をなして町から飛び去って行く。そして災厄を恐れた住民たちも、新しい土地を求めて町を去る。空っぽになった町に、気球で幸福の世界を見つけたゴーゴリが戻ってくる。
2)主人公シャレルと年代記
a)年代記の誕生: 中心的な視点人物となる45才のゲンリッヒ・シャレル大佐は、セクシーで力も強い理想的男性であり、フェミニストの妻との不毛な生活のかたわらで、快楽主義の若い女性たち(リーゾチカ・ミーロワ、フランソアーズ・コッティ)と性的関係を持っている。無職で、「大佐」の肩書きは、誘拐された市長の子を助けた英雄的功績によって得た名誉称号である。
皮肉なことにこの肉体派の人物は、新しい世界認識を得ようという知的野心にとりつかれていて、中国人が作ったという温泉に浸かっては、「無限」「性」といったテーマに関する哲学的思索にふけっている。これらは作品の主題と直接関係するテーマである。
この人物が22年連れ添った妻エレーナが、鶏の飛来の2年ほど後に、突然庭に据えたタイプライターの前に座り込んで寝食を忘れて執筆し始め、一年間で3000枚ほどの暗号のような文字による原稿を生産する。
その内容に興味を覚えたシャレルは、孤児学校教師のチョープルイに解読を依頼する。これはウィーン大学を優等で終了した秀才だが、長生のために死者の臓物を食らうという秘教セクトに加わって将来を棒に振り、地方都市の教師として不遇をかこつている人物である。現在は、暗号解読のアルバイトで得た法医学大全の死体解剖図を眺め、雌牛の乳頭を食うという、不気味な生活をしている。
謎の手記の解読に情熱を燃やすこの両人物に、さらに飛来する鶏群に父を殺された少年ジェロームが関係し、物語は主としてこの3者を軸に展開される。チョープルイが解読したエレーナの手記は、次のようなチャンジョエ40年史であった。
b)神話的歴史: ステップ地帯のこの町の歴史は入植史であり、最初に訪れた中東系の名を持つ修道士モハメッド・アバリに続いて、医者のストルーヴェ、5人のアフリカ人、放浪の女マドマゼル・ビビゴン、将軍ブリャーノフと20人の兵士、現市長のコンタータ、ローマ法王の使者ロボヒシヴィリ府主教、畜産業者トゥマニャンといった雑多な人間が流れ込んできた。数年後からは朝鮮人の群が流れ込み、町は一挙にふくれあがってゆく。
最初の女性住人ビビゴンは神話的な共同母のような存在となり、数多くの入植者と婚姻関係を結んで、次々と子を設ける。しかも全てが常識の半分ほどの期間での早産で、手記の執筆者エレーナも、現在13才の孤児ジェロームも、この母の子ということになっている。
年代記には天地創造神話も紛れ込み、開基4年目にして臨月の体で町を訪れた黒衣の女プロトゥベラナは、人間ならぬ旋風の子を産み落として、それまで存在しなかった風を(ひいては農耕や電力を)町に供給する。
年代記のクライマックスは、開基6年目の末(?)に始まったモンゴルの来襲である。町を包囲した20万の草原の民のせいで住民は疲弊してゆくが、この間、自らの経営する旅館の一室にこもって思索にふけっていた第一の住人アバリ(正教名ラゾリーヒー)が、防音のため両耳に詰めていたいんげん豆が発芽し、貴重な食料を提供する。一方この人物の兄の一人がモンゴル軍への内通者として処刑され、気が狂った母親が家族と旅館の滞在者を大量に殺すという事件が起こる。アバリ=ラゾリーヒーは苦悩の果てに母親を殺して自らも死刑になるが、死後列聖され、処刑時の虹色の空が、奇跡を呼ぶ「ラゾリーヒーの空」と呼ばれることになる。
モンゴル包囲の結末も神話的である。すなわち住民の苦悩を見かねた前出のプロトゥベラナが、自らの命を代償に敵を伐つことを息子の旋風に命じると、たちまち巨大な竜巻が敵の全軍を滅ぼしてしまうのである。
この突風事件とそれに続くどんちゃん騒ぎをきっかけとして、町の住民は記憶と歴史を喪失し、生まれてくる子どもたちも出自の記憶を奪われて孤児院に入れられるようになった──そう年代記は記している。
c)年代記への反応と解釈: 解読された妻の作品を順次読む過程で、シャレルはその荒唐無稽さにあきれると同時に、ひとつの疑問に苛まれる。すなわちそこには様々な事件や人物名が列挙されながら、45才になる自分シャレルとその経験についてはなにひとつ言及されていないのである。このことは自らの出自について、および執筆者である妻についての根本的な疑問(彼女はパラノイアか天才か)へと結びついてゆく。
彼は一方でこの事態を解釈者チョープルイのインチキのせいだとし、そのことが相手の自尊心を傷つけて猟奇的殺人に走らせることになる。シャレルは相手の犯罪を見抜きながら、唯一の解読者を失うことを恐れて、心理的共犯者となってしまう。
その後作品の後半を読んだシャレルは、自分に関する記述の不在が前出の竜巻と記憶喪失のせいだと見なして、奇妙な安心感を得るが、疑問そのものは消えない。
彼の心は二つの矛盾した証言によってさらに動揺する。
一方は彼に第二の殺人を責められたチョープルイのもので、それによれば妻の書いているのは全くのでたらめなテキストで、作品はチョープルイ自身が啓示を受けて書いたものだという。(この後シャレルは空しさの発作に襲われて酒浸りになる)
もう一方の証言は、鶏事件の後に町を出てゆこうとする医師ストルーヴェが書簡に記したものである。それによればストルーヴェは主治医としてエレーナの生命を支え続けてきた。そして彼女は暗号作品の内容を医師に語っていた。すなわち彼女は完全な正気で、才能と天啓の力によって見事な年代記を書いたのだが、自尊心と妻の才能への嫉妬とらわれた夫だけが、彼女の才能に気づかなかったのだ。手紙には医師と妻が愛し合っており、ともに町を出てゆくことが記されている。
d)シャレルの物語の結末: 物語の最後で、年代記の世界と現実世界が結びつく。すなわち住民が去って空っぽになった町をさまようシャレルは、「成長したプロトゥベラナの息子」たる突風に見舞われ、大嵐の中に2日間閉じこめられる。気づいたとき、彼は町の第一の住人たるアバリ=ラゾリーヒーが最初に住んでいた土小屋の中にいる。そして彼は、自分がじつは修道僧モハメド・アバリであったことを想起するのである。
3.コメント
1)神話的空間: 題名だけでなく内容においても、恐らくマルケスの『百年の孤独』が意識されている。町の誕生と消滅、記憶の喪失、遅延される結婚、出自の隠蔽、正気を失って庭に住む人間、予言、魔術的な技術、暗号(マルケスではサンスクリット語)による年代記の解読といった、マルケスの作品の種々なモチーフが、この作品に多様な形で用いられている。「一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる」というメルキアデスの予言とパラレルに、この作品では「地を這うものは飛び、空を飛ぶものは這い回るようになる」という謎の墓碑銘が言及される。
マルケスにも頻出する鶏は、この作品では現実界と神話界にまたがる存在であり、雌鶏の多義的なイメージ(母性、神の摂理、男勝りの女性、性欲・・・・・・)が、人間の物語に投影されている。雌鶏の飛来の夢が富をもたらす、といった民間伝承も参考になろう(Beryl Rowland, Birds with Human Souls, Tennessee, 1978)。
前出のいくつかのイメージ(幸福の塔、大地母ビビゴン、風を生む女、長生のための臓物嗜食、羽毛症の人間など)の他にも、次のような神話的モチーフが含まれている。
「良心のための闘いで死んだオプラクシン伯爵」: 朝鮮人住民の英雄シン・キム・ゲンの孫ヴァン・キム・ゲンは、美男で町の女たちの相手をして暮らしていたが、突然町を訪れた去勢派の忠告に従って去勢を受け、3年の放浪の後に正教徒として死ぬために戻ってくる。主教は彼にヴァフティシーという洗礼名を与え、ついでにプラクシンという姓も与える。やがてこの名がなまってオプラクシンとなり、いつからか伯爵の称号と上記の形容辞がつけられて、この町の孤児院の名称になる。
「修道士ガヴロンの青いリンゴ」: 園芸家の子アンドレイは少年期から品種改良に才能をみせ、皇帝に成果を献上したこともあるが、この彼が25才の時エヴドキヤという娘に恋をする。彼女は若者に、青いリンゴを作ったら結婚するという条件を出す。だが17年後にこの課題を果たしたとき、彼女はもう軍人と結婚していた(婚姻の遅延)。アンドレイはその後43才で修道院に入るが、後に彼のリンゴが鶏病に効くことが分かる。この話のエヴドキヤは、じつは年代記中の母ビビゴンであり、鶏群の飛来時に夫の退役大尉を失うという荒唐無稽な展開がなされている。
2)セクシャルな空間: 男女の性をめぐる様々なイメージや思念が作品に溢れている。
冒頭近くで主人公シャレルは、「全てのペニスは自らのワギナを求めている」という奇妙な一文を読んで、一種壮大な性的世界観を得る。それによれば本来男性の性は女性を求めているのではなく、宇宙と交接して宇宙を生成することを運命づけられている。従って現状の性は囚われの性であり、女は偽物のワギナである。
作品中の男たちの振る舞いは、ある意味でこうしたロシア・コスミズム風、ガーチェフ風の世界観のイラストレーションとなっている。町の赤新聞『バストと脚』の編集者チキン(!)は、鶏の飛来、幸福の塔、幸福の気球といった事件を、壮大な疑似性的行為と見立てる戯画を提供している。例えば彼は鶏の消失を町の性的ポテンシャルの消失と解釈して、上空を雁行しながら去ってゆく鶏群を女性の尻の形に描き、地上に虚しくマスターベーションする男性群を書き加えている。
こうした宇宙的で抽象的な男性の性に対して、女性の性は具体的で生産的である。年代記の母神群をはじめとして、女たちは性の産出力と快楽を体現している。例えばシャレルと関係するリーザもフランソワーズも、町の有力者でセクシーな男性を次々と求めてゆく女たちである。
マルケスにおけるのと同様に、この二つの性的原理が随所で対立しているように見える。たとえば主人公シャレルの知的好奇心や野心、コンプレクスがセクシャルな肉体能力を裏切ってしまうことと、市民の俗物的な関心や抽象的なユートピア志向が雌鶏の群を追い払ってしまうことの間には、男性原理と女性原理の食い違いという意味でパラレルな関係があるのかも知れない。
3)豊穣なロシア: 作者はロシア史の様々なモチーフを自在に利用して荒唐無稽な架空の時空間を作っているが、恐らくそこには、単旋律でない雑色の、豊穣なロシア像を描こうという意識がある。これは(作中に同名の物理学者が出てくるが)ゴーゴリやブルガーコフの系列につながる非合理なロシア、エロティシズム、神話、暴力、混乱、グロテスク、狂気、笑いなどの要素を満載して、行方も知らずにただよってゆくようなロシアである。豊穣さと空虚さ、理性と狂気、喧噪と孤独、ユートピア嗜好と絶望といった矛盾した要素が、そこで境を接している。
マルケスの作品との差異をいうならば、外部世界、交通、政治、家族の歴史といったモチーフが比較的に希薄で、そのかわりに、歴史の動因が自然力に帰され、さらに上方へ向けてのユートピア志向が現れていることだろうか。
『アガニョーク』誌の批評家I.セミツヴェートフは、リプスケロフの作風を分裂症的リアリズムと名づけている。