●リアノゾヴォとロシア現代詩
鈴木正美
1. リアノゾヴォの概観
リアノゾヴォの詩人たちについては、まだ日本ではほとんど知られていないので、その概観をまず述べる。リアノゾヴォLianozovoはモスクワ郊外にあるサヴェロフスカヤ鉄道の駅名である。1950年代終わりから60年代、この辺り一帯はバラックばかりのみすぼらしい町だった。そこに住む貧乏な芸術家たちが、詩人であり画家であったエヴゲーニイ・クロピヴニツキー(1893-1979)を師とする一つのグループを形成していた。なかでもワレンチーナ・クロピヴニツカヤ(1924-)とその夫オスカル・ラビン(1928-)は共に画家で、毎週日曜日に自宅を開放し、自分たちの作品の展覧会を開いていた。ワレンチーナはクロピヴニツキーの娘であり、ラビンは彼の教え子だった。
1963年クロピヴニツキーが芸術家同盟を追放されてから、絵画グループとしてのリアノゾヴォが形成された。メンバーは彼の妻オリガ、娘のワレンチーナ、息子レフ、孫のカテリーナ、サーシャ、娘婿ラビンである。ラビンの親友で、1944年からクロピヴニツキーに薫陶を受けていた詩人ゲンリフ・サプギール(1928-)もいた。さらに詩人イーゴリ・ホーリン(1920-)が加わり、ラーゲリから戻った詩人であり画家のレフ・クロピヴニツキー(1922-1994)、画家ボリス・スヴェシニコフ(1927-)が加わった。60年代初めにはフセヴォロド・ネクラーソフ(1934-)とヤン・サトゥノフスキー(1913-1982)の2人の詩人が加わった。リアノゾヴォの住人ではないが、ウラジーミル・ネムーヒン(1925-)、リディア・マステルコヴァ(1927-)、ニコライ・ヴェチトモフ(1923-)といった画家たちも協力者だった。そして若きエドゥアルド・リモーノフ(1943-)も60年代初め詩人として一時加わっていたことがある。リアノゾヴォは綱領もなく、なんらかの流派を意識した人々の集まりではなかった。サプギールは次のように述べている。「『リアノゾヴォ派』などというものはなかった。私たちは単に寄り集まっただけだ。冬に集まり、ペチカを焚き、詩を読み、人生や芸術について語り合った。夏にはブロークやパステルナーク、ホダセーヴィチの詩集、イーゼルや画板を持って一日中森や野を歩いた」。しかし今日では、リアノゾヴォはポスト・アヴァンギャルドのひとつの傾向を代表する集まりとして位置づけられている。
リアノゾヴォはもともと非公式画家のグループ名として知られていた。オスカル・ラビンの絵は日本でも何度か紹介されたことがある。彼の絵はリアノゾヴォのバラック風景をグロテスクなフォルムでありながら、詩情あふれる表現で描いている。オクジャワやヴィソツキーの歌が画面から聞こえてくるような彼の絵は、ソ連時代は公式的にはほとんど見ることができなかったが、最近はロシアでも画集が出て、ワレンチーナ・クロピヴニツカヤとの展覧会が1993年にペテルブルグで開催されるなど、今日の評価は非常に高い。
リアノゾヴォの詩人たちは50年代終わりには「バラックの詩人」としてアンダーグラウンドで知られていただけだった。1959年にサミズダートで発行された『シンタクシス』にはサプギール、ホーリン、ネクラーソフの詩が収録された。1968年にはオリガ・カーライルの編纂した『交差点の詩人たち。15人のロシア詩人たちの肖像』でサプギール、ホーリンの詩が紹介された。さらに1977年にはシェミャーキンの非公式芸術文集『アポロン─77』において、リモーノフがリアノゾヴォの詩人たちに「コンクレート」 基I??ニいうグループ名を与えた。詩の具体性、リアリティーを志向していたリモーノフにとってこれはふさわしい名称だったろう。当時西側で問題になりつつあった「具体詩」concrete poetryの影響があったか確定はできないが、その後、小説に言語表現を求めていったリモーノフを考える上で、重要な出来事だと思われる。
ペレストロイカ後、ロシアでラビンが大きく再評価され始めたのがきっかけだったのかもしれないが、最近の文芸誌ではリアノゾヴォの名前をよく目にするようになった。レフ・クロピヴニツキー編集による文集『屋根裏部屋』(1992年、部数3000)はリアノゾヴォの詩人たちの詩や絵を多く収録し、また「新文学展望」(1993年、第5号)はエヴゲーニー・クロピヴニツキー生誕百周年を記念して100ページ余りにわたってリアノゾヴォ特集を組んでいる。またサプギールは「ソロ」(1993年第10号)に「レトロ」と題してリアノゾヴォの詩人たちの紹介と詩のアンソロジーを組んでいる。リアノゾヴォの研究はようやく端緒についたところと言えるだろう。
2. リアノゾヴォの周辺
詩人ヴィクトル・クリヴーリンの回想によると(「ズヴェズダー」1990年第1号)、アフマートワは1960年の春に若い世代の注目すべき詩人として次の10人の名前を挙げたという。モスクワのスタニスラフ・クラソヴィツキー、ワレンチン・フローモフ、ゲンリフ・サプギール、イーゴリ・ホーリン、レニングラードのミハイル・エリョーミン、ウラジーミル・ウーフリャント、アレクサンドル・クーシネル、グレープ・ゴルボフスキー、エヴゲーニー・レイン、アナトーリー・ナイマン。やはりアフマートワが評価するだけあって、これらの詩人たちは今日も注目されている。
こうした詩人たちの間にも頻繁に交流があったろうが、サプギールの回想するところでは(「アガニョーク」1990年第25号)、リアノゾヴォには実に多くの芸術家が出入りしていた。絵画コレクターのゲオルギー・コスタキス、シェークスピア学者のレオニード・ピンスキー、詩人ではゲーナジー・アイギ、ボリス・スルツキー、レオニード・マルトゥイノフ、ヨシフ・ブロツキー、先ほどのゴルボフスキイー、レイン、そしてエレンブルグや作家のマムレーエフ、ビートフ、画家のズヴェーレフもいた。こうした錚々たる人物たちで、みすぼらしいバラック地帯が賑わっていたのである。
こうした人々とも交流があり、特にオスカル・ラビンを支援した人物にアレクサンドル・グレーゼル(1934-)がいる。詩人、グルジア詩の翻訳者、美術評論家、絵画コレクター、パリとニューヨークの現代ロシア美術館館長、雑誌「第三の波」編集長、雑誌「射手」主幹、パリ・モスクワ・ニューヨークの現代ロシア文化センター長等々、様々な肩書きを持つこの人物は、60年代以降の現代ロシア美術界を支えてきた。
彼は1952年にモスクワ石油大学技術・経済学科に入学。卒業の年の57年に「若者と学生のモスクワ国際フェスティバル」を経験したことが、彼のその後の人生を決定した。この有名なフェスティバルでは西側の現代美術や音楽が大量に展望でき、ロシア国内で自己の芸術を探求していた非公式の芸術家たちを刺激したが、グレーゼルもまたショックを受けた一人だった。彼は芸術家仲間たちと展覧会を開催したり、共同住宅の自分の部屋にロシア非公式美術館を設立したりと精力的に活動した。そして1974年秋、モスクワのユーゴ・ザーパドヌイの野原で非体制芸術家たちの野外展覧会を組織した。この展覧会は当局のブルドーザーや散水車によって蹴散らされ、5人の芸術家が逮捕された。いわゆる「ブルドーザー事件」である。もちろんオスカル・ラビンも参加者の一人だった。この事件の2週間後、イズマイロヴォ公園で2回目の野外展覧会を開催。観客1万5千人を集め、ソ連で最初の検閲のない自由な展示を人々は楽しんだ。その後も何度か非体制画家の展覧会は開かれたものの、当局の圧迫はなおも続き、多くの画家が亡命を余儀なくされた。グレーゼルは自身の絵画コレクションを持ち出すことを条件に、祖国を離れた。そして1976年、パリ近郊のモンジェロンに、亡命ロシア人画家たちの作品を集めた美術館「現代ロシア美術館」を開設した。美術の紹介ばかりでなく、グレーゼルは彼の雑誌「第三の波」「射手」でリアノゾヴォやその周辺に集まった詩人たちの詩を多く掲載してきた。またクロピヴニツキーやサプギールの詩集も出版している。
グレーゼルの組織した「ロシア非公式絵画展」は、1978年に東京でも開催され、グレーゼル本人も来日している。このときの様子はかなり報道されたが、中でも「芸術新潮」誌(1979年11月号)は「ソヴィエト反体制の画家」という特集を組み、彼の小論を掲載した。「現代ロシア芸術は、幻想的な、シュールレアリズム的なソヴィエトの現実から生まれた、純粋にロシア的なるものなのである。そして、個々の画家、作家、作曲家は社会主義と名づけられた全体的な体制のもたらす重圧の中で、勇敢にも自由に創造するという軛を背負っているのである。だから、検閲の下にあるロシア美術家に西側の著名な作家との類似点を見出そうとするのは無駄なことなのだ。現代ロシアの表現主義、シュールレアリズム、シンボリズム、その他の流れは、すべて西側の芸術から来ているものではない。これらは全く完全にロシアの土壌から出発し、ソヴィエトの生活そのものからインスピレーションを受けているのである。つまり、ソヴィエトにおける現実を、生活を知り、理解して初めて、そこから生まれたロシア現代芸術を真に理解し、評価することが可能なのである。」
実は後で見るようにグレーゼルのこの発言の「芸術」を「詩」に置き換えた時に、リアノゾヴォの詩の特徴も浮かび上がってくるはずである。言葉のリアリティー、生活のリアリティーがリアノゾヴォに限らず、同時代の詩人たちにとってもっとも重要な問題だったからだ。
3. リアノゾヴォの詩人たち
ここでリアノゾヴォの詩人たち、クロピヴニツキー、ホーリン、サプギール、サトゥノフスキー、ネクラーソフの詩を実際にいくつか見ながら、ロシアの現代詩の一側面について考えてみたい。
☆ エヴゲーニー・クロピヴニツキー(1893-1978)
画家、詩人、作曲家。後期シンボリズムの詩、「ダイヤのジャック」の絵画の中で育つ。50年代終わりにはモスクワの非公式絵画のリーダー的存在であり、彼の薫陶を受けた詩人、画家は数多い。若いころから詩人になるか、画家になるかで悩んだ。1911年ストロガノフ校を卒業。革命前にいくつかの雑誌に詩が掲載されている。終生、詩をかき、絵を描き続けた。20年代の詩は悲しいアイロニーを基調としており、無感動な抑制された表現、デカダン的な詩である。しかし30年代終わりには表現が変化し、きわめて日常的なテーマ、事実の忠実な描写、秘められたアイロニーなどが重視されるようになる。
売春婦の塀に
髪の白い百姓娘
9番地 鴨を
酢キャベツを食べた
ベッドで寝入った
新婚のころ
第112協同組合での
生活はみすぼらしいものだった
路面電車が走る キオスクが傾いている
アンカーボルトが突き出てる
飛行機がうなり 飛んでいく
空へ まるで狂ったように
U zabora prostitutka,
Devka Belobrysaia.
V dome 9 eli utku
I kapusstu kisluiu.
Zasypala na posteli
Para novobrachnaia.
V 112-i arteli
Zhizn' byla nevzrachnaia.
Shel tramvai. Kiosk kosilsia.
Bolt torchal podveshennyi.
Samolet gudia nosilsia
V nebe, Tochno Beshenyi.
こうした抑制された詩への志向は同時代のオベリウ、特にオレイニコフに近い。リアノゾヴォをポスト・オベリウと見る研究者もいる。直接関係していたわけではないが、30年代末、クロピヴニツキーはオベリウの存在を知っていたという。オベリウもリアノゾヴォも遊びの詩、パロディー詩の伝統の上にある。プリミティヴィズム。グロテスク。文体の不均衡。子供の視点、遠近法の導入。言い間違い。こうした手法によりオベリウはこの現実のリアルな感覚そのもの、この世界の中の生がもつ違和感そのもの、意味をはぎ取られたモノ(対象)の具体性そのものをあらわにしようとした。こうした志向はリアノゾヴォも同じだったろう。しかしクロピヴニツキーの対象性、具象性への志向は、オベリウが意味論的な遊び、無意味など方法的には誇張された偶然性を重視したのに対して、むしろ現実そのものをそのまま描くこと、誇張された具象性を重視した。
クロピヴニツキーの詩では、大人と子供の視線の差が分からなくなることがしばしばある。それはちょうど彼の描く少女や猫の絵が、まるで子供の描いた絵のように感じるのと同じようである。「ぼくは場末の詩人/町の小さい家の/この小さな詩集に/どれほどどれほど秘やかに/くもった小さな窓に/赤いゼラニウム/子猫のミーちゃんがまどろみ/ターニャとワーニャが歩いてくる」
クロピヴニツキーの生前に出た詩集は『悲しげに微笑んで』(1976)のみである。その中に描かれた第二次大戦後のバラック地帯の風景は、リアルに描けば描くほどグロテスクになる。そして死もまた対象化される。1946年の「死」という詩では、ヴヴェジェンスキーの描いた反転された生の世界、死から見た生の世界とは違い、この現実そのもの、ありきたりの生と死がそのまま描かれる。
誰もが死を免れない 誰もが永遠ではない
誰にもさだめがある
でもぼくらはのんきに生きている
ありきたりの出来事のなかで
ぼくらはいがみ合い 議論する
夫を取り替え 妻を取り替える
思いつき 建設する
そして無謀なことをする
ぼくらは品物を値ぶみする
整理たんす 寝室用たんす マットレス
レコード カップ やっとこ…
すると突然死が迫る──ばーん!
Vse brenno, vse ne vechno
I dan Vsemu predel.
No my zhivem bespechno
Sredi obychnykh del.
My ssorimsia i sporim,
Muzhei meniaem, zhen,
Vydumyvaem, stroim
I lezem na rozhon.
My strastno tsenim veshchi:
Komod, biuro, matrats,
Plastinku, chashku, kleshchi...
Vdrug smert' po shee- bats!
☆ イーゴリ・ホーリン(1920-)
50年代前半から詩を書き始める。アンダーグラウンドではかなり知られていたが、初めて詩集が出たのが1989年。現在も元気で、最近「セボードニャ」(1995年9月28日)紙のインタビューでもリアノゾヴォや現代文学について語っている。
ホーリンの詩はクロピヴニツキーの描いたバラックの風景をさらに冷徹に、感情を排した形で表現する。「塀、ごみ溜め、ポスター、広告/物置はさまざまながらくたの墓/青い深みの空は輝く/バラック。住み心地のいいバラックで、静けさ/鏡の戸棚、整理タンス、ソファー/2匹の南京虫に、ゴキブリのテーブルに/ランプシェードが吊り下がり、天井はくすみ/怠惰な妻たちはベッドに横たわり/夫たちは働く、台所には老婆たち/うるさいハエが至る所飛び回っている」。
こうした記録的なスタイルがホーリンの詩の特徴である。バラックは世界のすべてであり、ひとつの宇宙を構成している。現実の生活そのものがグロテスクで不条理だ。しかしこの世界に住んでいる住人たちにとっては少しも不条理ではない、ありきたりの人生なのだ。「クレーンの運転手として働いていた。土台穴に落ちた。委員会の結論は『湿った天気のせい』。妻は満足。葬儀の費用は工場が出したから」。
ホーリンはさらに表現を簡潔にし、かろうじて韻を保った短い詩行で詩をかくようになる。ほぼ自由詩に近づいていく。
制帽
テント
鉄道の引き込み線
ガス管
自動水飼い器
フォークリフト
杭
ボルト
検事局
パーセント
スタルカ
付属部品
電気溶接
熱く
砂
粘土
堤防になる
Pilotka
Palatka
Zheleznodorozhnaia vetka
Gazoprovodka
Zemlecherpalka
Lesosushilka
Betonomeshalka
Kamnedrobilka
Avtopoilka
Avtopogruzka
Medikamenty
Svai
Bolty
Prokuratura
Protsenty
Vodka-starka
Armatura
Elektrosvarka
Zharko
Pesok
Glina
Budet plotina
言葉のミニマリズム。詩行の長さから自由になり、作者の言葉を意識させない、他者の言葉の引用だけからなる詩のようになる。いわゆるコンクリート・ポエトリー(具体詩)の手法をホーリンは、60年代から独自に発展させた。こうした語の並列、コラージュの手法はポスト・アヴァンギャルドの詩の特徴の一つであり、ロシアでは80年代のコンセプチュアリズムにおいて顕著になる。ホーリンをコンセプチュアリズムの先駆け的存在と考えることもできるだろう。
☆ ゲンリフ・サプギール(1928-)
クロピヴニツキーの影響の下、初めはバラックの風景を詩にうたっていたが、すぐにホーリンの確立した具体詩へと向かう。1958〜62年に書かれた『声』詩編は「グロテスク」の副題を持つ。さまざまな「声」が勝手に語り合う現実を鮮やかに切り取り、時代や社会の切断面を提示する。それは実際グロテスクな現実をあらわにする。「イカロス」という詩を引用する。
彫刻家が
イカロスを作った
モデルは去った
こうつぶやきながら 「やっつけ仕事だ
私には筋肉がある
エンジンの部品なんかじゃない」
友人がやってきて
言った 「月並だ」
女たちだけが驚いた
これは何──天才的だわ
「なんて力」
「ほら、あのもの」
「古代ギリシャの
伝統よ」
「セクシュアルな熱情…」
「変速装置からできた
子供が欲しい!」
身ごもった 速度に
限界速度で
馬衛(はみ)をかみ
生んだ
ヘリコプターを
彼は飛び 叫ぶ──
自分のママを呼ぶ
ほら雲のほうへ去っていく
女性の観客たちは号泣した
芸術のこれほどまでの
教育的効果
芸術家はお辞儀をした
広場には胸像が立てられた──
自画像
ワゴントラック
電話
自動機械
Skul'ptor
Vylepil Ikara.
Ushel naturshchik,
Bormocha:"Khalturshchik!
U menia muskulatura,
A ne chasti ot motora".
Prishli priiateli,
Govoriat:"Banal'no".
Lish' zhenshchiny uvideli,
Chto eto-genial'no.
-Kakaia moshch'!
Vot eto veshch'!
Traditsii
Drevnei Gretsii...
Seksual'nye emotsii...
-Ia khochu imet' detei
Ot kotobki skorostei!
Zachala. I v skorosti,
Na predel'noi skorosti,
Zakusiv udila,
Rodila
Vertolet.
On letit i krichit-
Svoiu mamu zovet.
Vot ukhodit v oblaka...
Zarydala puvlika.
TAKOVO VOSITATEL'NOE
VOZDEISTVIE ISKUSSTVA!
Rasklanialsia artist.
Na ploshcadi postavlen biust-
Avtoportret,
Avtofurgon,
Telefon-
Avtomat.
言葉の分断化、局所化、遊びのような多韻律などは、チュコフスキーの子供のための詩にも見られる。サプギールの場合、言葉遊びを多用し、ハルムス的でさえある。多様なリズム、コンポジションのダイナミズムは作者のモノローグではなく、多くの他者の声によって構成されているのが特徴である。例えば「通りでの会話」は街角を行き交う人々の会話を断片的に組み合わせたものである。「中絶したの/レストランでしたたか飲んだ/コンサートにはやってこなかった/会計係は梗塞で/10年の刑を宣告/見るとそいつは終わっている/ぼくはバレエが好きだな」。
サプギールは多作で、リアノゾヴォの詩人たちの中では、もっとも多くの詩集を出版している。文集『メトロポリ』にも参加しており、そのため、西側ではかなり早くから知られていた詩人である。新しい手法、思いがけない効果など、現在も積極的に実験を続けており、多彩な作品群を一言で特徴づけることは難しい。しかし、基本的にはヴォルフガング・カザックの言うように次のような3つの特徴を挙げることはできる。・言語表現における具体化の試み、・遊びの装置化、・グロテスク。
さらに詩ばかりでなく、最近はさまざまな散文を発表している。例えば、17篇の小話を集めた『とても短い話』(「ズナーミャ」1993年10月号)は、ごくありきたりのどこにでもある日常の風景を、さりげなくアイロニカルに描いている。その中の「老婆はいかに食べたか」という話。
「老婆は夫と向かい合ってテーブルにつき、食事をしていた。よく噛もうともせずに、せかせかと、次から次へと呑み込む。自分の分を食べてしまうと、おじいさんの皿を見た。彼の食べかけに冷たい視線を投げる。
彼女の皿はもうからっぽ。でも彼女は平らでつるつるの皿の底にフォークを突き刺しては、しわしわの口に何もないフォークの先っちょを運び続けた。そして噛む。総入れ歯で噛む。止められない。空虚を、すっかり干からびた彼女の人生に残されたすべてを、彼女は咀嚼している。
もう少し如何ですかと言ったら、かんかんになって怒りだす。彼女は満腹だ!腹いっぱいなんだ!
思うに、年寄りというものは普通がつがつと食べるものだ。死ぬまで好きなだけ食べられるものらしい。マッシュポテトをそえたカツレツを出さなかったらの話だが。」
これはハルムスの「恐ろしい死」(1935)のパロディーともとれるが、ある人は50年代のモスクワの風景、あるいはブラート・オクジャワの詩のいくつかを思い出すかもしれない。先行する作品のパロディー、現実に対する痛烈なアイロニー、グロテスクは、この小話集にも顕著である。
☆ ヤン・サトゥノフスキー(1913-1982)
20年代の構成主義文学の中で育ち、影響を受けた。リアノゾヴォに加わったのは1961年である。サトゥノフスキーの詩はきわめて簡潔。
読者──彼は何を望んでいるのか?
彼が望んでいるのは
ぼくができるだけ明らかにすること
ポ──エ──ジーを
つまり不鮮明な思いを
耳をくすぐる
ぶつぶつ煮えたぎる音を
Chitatel'-chego on khochet?
On khochet,
naskol'ko ia vyiasnil,
po-e-zii,
to est' neiasnykh myslei
i zvukov klokochushchikh,
v ukhe shchekochushchikh.
これは詩のできる動機をうたった詩だが、同時に読者と作者の関係についての詩でもある。このように詩が発生する現場、詩の創作のプロセスについてサトゥノフスキーは非常に意識的である。フセヴォロド・ネクラーソフの言うように「言葉の発生を認識する瞬間、その本質をつかまえる。こうした生き生きとした本物の断片は単純には在りえないが、彼はすぐに詩それ自体としてとらえる」。サトゥノフスキーの詩の多くは、会話の断片の集まりや途切れない発話の流れの一部によって構成される。これをアイギは「胡椒のように辛いレプリカ?・韭烽フ詩」と呼ぶ。初めも終わりもないその詩は現実をリアルに切り取る。
通りで
──スフィンクス──
──橋──
──木レンガ──
アリサは舞台の袖から舌を見せる
彼は言う「私はブローク」
彼女「リンゴを買ってよ」
──博物館──
──会館──
──病院──
双子のいとこ
Na ulitse
- sfinksy -
- mosty -
- tortsy -
Alisa iz-za kulisy pokazyvaet iazyk.
On govorit: Ia-Blok.
Ona: Kupite iablok.
- muzei-
- dvortsy -
- bol'nitsy -
dvoiurodnye bliznetsy.
かぎりなく自由詩に近いが、内的な韻律は保っている。サトゥノフスキーは言葉そのもののリアリティーをとらえようと志向している。言葉だけが自立していく具体詩のひとつと言えるだろう。近所との電話での会話、新聞の見出しの羅列、新聞記事の断片、劇の台詞の一部が詩になっていく様は、言葉に新たな力を喚起させる。
ぼくはベケット ぼくはゴトー
はきものを脱ぐ
そしてゴトーを待つ
ぼくはいつか詩人になった
芝居でそう言っていた
Ia iz Bekketa. Ia Godo.
Razuvaius'
i zhdu Godo.
A kogda-to ia byl poetom.
V p'ese skazano i ob etom.
ヴォズネセンスキーのゴヤの詩を思い出すが、ここではなんの政治的メッセージもない。ただ5行の詩の中に、自然な発話の断片があるだけだ。自然な言葉の抒情性。たぶんこれが現代詩の行き着いたひとつの終着点のはずである。
☆ フセヴォロド・ネクラーソフ(1934-)
サプギールやホーリンが行き着いたコラージュの手法をさらにおし進める。
バラック
ただのバラック
2階立のバラック
3階立のバラック
たくさん
たくさん たくさん たくさん
何階立ものバラック
Barak
Prosto barak
2-kh etazhnyi barak
3-kh etazhnyi varak
Mnogo
Mnogo mnogo mnogo
Mnogoetazhnyi barak*
初期の詩ではまだ意味を剥奪されていない。ネクラーソフはさらに言葉の分断化、局所化を進め、単純な言葉の繰り返しによって、言葉そのものの「異化」を行なう。60年代後半の詩を引用する。
冬
冬 冬 冬
冬 冬 冬 冬
冬 冬 冬 冬
冬 冬 冬
そして春
Zima
Zima Zima Zima
Zima Zima Zima Zima
Zima Zima Zima Zima
Zima Zima Zima
I vesna
山村暮鳥の「いちめんのなのはな」 が思い出される。さらに、
春 春 春 春
春 春 春 春
春 春 春 春
ほんとうに春
Vesna vesna vesna vesna
Vesna vesna vesna vesna
Vesna vesna vesna vesna
I pravda vesna*
詩のグラフィック。いわゆるビジュアル・ポエトリーである。このように余分なものをすべてはぎ取っていこうとしたのがリアノゾヴォの詩人たちに共通する志向だが、ネクラーソフのミニマリズムは今日のコンセプチュアリズムの先駆けとなった。
4. リアノゾヴォからコンセプチュアリズムへ
未来派の言語実験から始まりオベリウでひとつの到達点を示した詩的言語の探求は、リアノゾヴォの詩人たちによってソヴィエト的現実の中でさらに先鋭なものとなり、彼らの総決算ともいうべき具体詩の数々が、現在のコンセプチュアリズムを生み出したと言えるだろう。芸術と生、知と直感の境界にある芸術性の発生の条件を解明することは、今日のコンセプチュアリズムの問題の中心である。ネクラーソフは現在もさらに自己の方法論をおし進めている。
またコンセプチュアリズムの詩人、例えばプリゴフなど活字の世界を飛び出し、ジャズ・ミュージシャンとの共同作業を進めている。ウラジーミル・タラーソフとのコラボレーション「カンタトス」などは途切れることなくつづく、脈絡のない猥雑な言葉の連続とさまざまな雑音によって構成されている。さらにウラジーミル・チェカシンのトリオと二人のダンサーによるパフォーマンス「ボレロ2」も、このプリゴフの詩を叫び続けるものだったが、小屋芝居のように途切れることのない哄笑に満ちたステージは観客を最後まで釘づけにする。言語は発話者のさまざまな表情、身振りなどの身体性とともにあり、それが発話される場所はさまざまな風景、雑音、他者の声に溢れている。これらを意識した上で詩の在りようを問うた結果がこうしたパフォーマンスなのだろう。タラーソフとイリヤ・カバコフとの共作による音のインスタレーション「オリガ・ゲオールギエブナ、煮立っているわよ」なども同じ試みである。「我々は会話をしているのではない。空気を震わせているだけなのだ。コミュニケーションの代用品。我々のまわりはすさまじい言葉の騒音であふれている。それは騒音ではない。それは人生そのものなんだ。」(「モスクワ・ニュース」1994年6月5日)
詩のリアリティーの探求は、結局我々が生きているこの世界のリアリティーの探求であったことは言うまでもない。これはあくまでもソヴィエト的現実、リアノゾヴォという現実から生まれた出来事なのである。
詩の発生する現場という点では、芭蕉が言う「俳諧はなくてもあるべし」(俳諧はなくてもいい、俳諧の場こそ重要だ)という言葉がここでも十分に生きているのである。