●クワルジン, ユーリー Kuvaldin, Iurii
「戦場はドストエフスキー」 Pole bitvy--Dostoevskii. Druzhba narodov, No.8, 1996.
解説 亀山郁夫
1.作者について
ユーリー・クワルジン ── 生年、経歴不明。
2.作品について
11)登場人物
ヴィリゲリム・ヨシーフォヴィチ・ダヴィドソン ── ユダヤ人。アカデミー会員。文芸学者で、とある財団の顧問をつとめる。
エゴーロフ ── しがないドストエフスキー研究者。
22)あらすじ
ある夏の午後、エゴーロフなる貧しいドストエフスキー研究家がアカデミー正会員のダヴィドソン教授を訪ねてくる。科学助成金を得るため、基金顧問をつとめる教授に一筆書いてもらおうというねらいだ。かくして彼の豪奢なアパートで知恵比べにも似た文学論が展開しはじめる。まずは、シェークスピアとショーロホフを例に著者をめぐって話題になる。D はいう。「静かなドンハムレットをだれが書いたからといって何の違いがある?……テキストが存在するだけで十分じゃないか!」
やがて Eには、オペラ歌手を思わせる美声と、回文作りの才があることがわかる。
konnotatsiia → iaitsatonnok ── D「なんだか、細い卵のようだ」
そしてやがて、議論はドストエフスキーに移る。
「で、あなたはドストエフスキーに関する研究をなさっていらっしゃる?」
「ええ、そうです。ドストエフスキーは私の大好きな作家なんです」
E がこう答えると、D の顔が苦虫をつぶしたように不機嫌にゆがむ。D は大のアンチ・ドストエフスキー派なのであった。
D の持論では、「文学などというのは、貧乏人ややっかみ屋の仕事であって、文学の繁栄などというものはその国家の貧しさのしるしであり、知的プロレタリアートがあることのしるしであり、こいつはこの世のなかでもっとも危険なしるしなのさ」、ドストエフスキーは「ロシア文学のプロレタリアートで、トルストイとは違う。ただしトルストイは文学で財産をこしらえていたわけじゃない」「もしも国家が繁栄しているとすれば、そこにはドストエフスキーなんて作家が収まっていられるような場所はないんだ!」
「ロシアにおいて伝道者の時代は終わったのさ」
次に印税の話になる。ドストエフスキーは「ロシア報知」から『罪と罰』台紙一枚で250ルーブル、トルストイは『アンナ・カレーニナ』で500ルーブルを受け取る。ドストエフスキーの冗漫な小説を縮め、文体を直してやりたい、編集部にチェーホフを送り込んで、「賭博者」だの「悪霊」だの「白痴」だの「罪と罰」だのといったタイトルを別のものに変更するだろう、と主張する。発行部数の問題についてE が熱弁をふるう。ゴーゴリ『ディカーニカ』は2800部出したが、売行きが悪いと愚痴をこぼしていた。チェーホフは5000部。ドストエフスキーを含め、1万部以上の売行きを経験した作家はいない。しかしソ連時代になって、かのドストエフスキーの全集第1巻は20万部出た、等々。
やがて、D と E のそれぞれに対照的な過去が浮かびあがる。
D- ユダヤ人。現アカデミー会員。1920年代にキエフから一家とともにモスクワに来る。父親が、革命時の語彙を巧みにマスターして「ボリシェヴィキ・イデオロギーの不条理演劇」にたくみに入り込む。 D は5歳ですでにスティーヴンスンの『宝島』を読破し、神童ぶりを発揮。11歳で性にめざめ、女漁りに精を出すが、大学では優秀の学生で通し、ポー、ヴェルレーヌ、マラルメを読み、シンボリズムの定式化に関する論文をものす。しかし、30年代以降は、『プラウダ』の引用と党の感謝をちりばめた社会主義リアリズムの理論づける論文を多数書き、批評界の大御所として長く権力をふるいつづける。そしてペレストロイカ時代からソ連崩壊時には、それこそ何年もかけて机の中にしまっておいたモダニズム論、ポストモダニズム論、ジョイス、マンデリシターム、プラトーノフ、サルトル、カフカ等の論文をひっさげて脚光を浴びる。そして今、とある基金の顧問の座におさまりつつがない優雅な毎日を送る。そして、時おり、美人の大学院生を家にまねいては情事にふけり、ヴェルナツキー通りのとあるアパートに「16歳のゲイシャ」を囲っている。
E- 貧しい家庭に私生児として生まれる。18歳で結婚し、それ以来、他の女とはいっさい交渉はなく、軍隊時代に文学に出会い、それ以来、ドストエフスキーに関する大論文を書き上げるという孤独な夢に生きている。結婚後、生みの親は叔父を殺害し、獄中生活を送る。叔父が E を「売女の子」と呼んだのが原因らしいが、ニッケル製のベッドの支柱で撲殺した、ということ以外、詳しい事情はE 自身も知らない。
D と E の話題は次々と移り、1867年から71年にかけてドストエフスキーとツルゲーネフの交渉、ドストエフスキーとユダヤ人観(E ドストエフスキーは反ユダヤ主義者だったのでしょうか?」/D 偉大なロシア人は偉大なユダヤ人から書物を手にいれ、それにとけ込み、自分の書物にしているんだ。にもかかわらず、ユダヤ人をジッドと呼んで、彼らを呪っている。なかなか面白い変化だ。ということはつまり、共産主義を考えだしたのはユダヤ人であり、ロシアがこのアイデアを現実化したわけだよ」/E ユダヤ人というのは、ぼくに言わせると、全世界的兄弟愛の先駆者たちなんです」)
E の親ユダヤ的発言を聞いて、大喜びするD。ところが、E は急に吐き気を催し、トイレに案内される。王侯貴族の屋敷のような豪奢なトイレの便器にうずくまりながら苦悶。じつは前日、この基金を紹介してくれた20年来の友人シェフトマンと痛飲したのである。「シェフトマンとウオッカは E にとって同義語になった」。D が推薦状を書いてくれないのではないか、と不安になる。鏡との対話(『分身』モチーフ)。トイレの中で不条理な瞑想にふける。
議論再開。
D「ドストエフスキーのモノローグの一つ一つはこのスメルジャコフシチナ・カラマーゾフシチナが通ってくる。私にすると、ドストエフスキーの散文というのは、果てしもないモノローグでね。……彼は芸術家じゃない。彼はモノロギストさ」
E 「お言葉ですが、マエストロ、ドストエフスキーは一度もモノロギストだったことはありません。ドストエフスキーはロマンの新しいジャンル上の種類を作りだしたのです。ポリフォニー小説という……」
「そういうバフチン的たわごとはやめたまえ。おたくのいうバフチンなんぞは、ドストエフスキーなどまったくわかっとらんのだよ。ポリフォニーはチェーホフにあるんだ!」
「ドストエフスキーは永遠のポストモダニスト」「ペンと紙とのすばらしい接触がそこにある」
など、とりとめもない議論が続くが、そこで突然、E の驚くべき才能が明らかにされる。作家の文体論をめぐる見解を、オストゥージェフばりの朗々たる声で、しかも完ぺきなダクチリ格の韻を踏みながらまくしたてるのだ。D が、驚きの声を発するなか、一人の女性の来客が告げられる。美人の大学院生がやってきたのだ。D が E をかんたんに紹介すると、「あら、今でもそんなガラクタが研究できるのね」といともすげない返事。
D とその女性は奥に消える。情事の暗示。「D は合理的に、厳格に予定表にしたがい、火曜日ごとに情事をこなしていた。今日がその日だったのだ。大学院生は時刻どおりにやってきて、時刻どおりに帰っていった」。
そして、ついに D は、E にドストエフスキー研究に対しては奨学金は出せない、「テキストが存在する、それだけで十分、ドストエフスキー自身で十分!」と宣言し、エゴーロフの申請をにべもなく退けるのだが、ところがフィナーレにきて話は急転直下、D 教授自身をテーマに論文を書いてはどうか、と持ちかけられ、代わりに毎月1500ドル、内二割をリベートとして返金、との切札が出される。かくして、女たらしの俗物教授とわれらが哀れなゴリャートキン氏は固く手を握りあうのだが、果して、二人のどちらがよりしたたかだったのか。
3.コメント
批評と小説的プロットを一つに織りあわせた一種の<擬>小説。このジャンル的特性について詳しくコメントする余裕はないが、筒井『文学部唯野教授』によく似ている。ポスト構造主義批評のタームが頻出するが、ドストエフスキーをめぐる議論は、閑話以上の域を出ていない。ただし、D と E のパーソナリティもたいへん魅力的で、ゴーゴリ、ドストエフスキーに特長的な自己分裂的ユーモアに富んでいる。ダイアローグの形式が、ドストエフスキーにおけるそれをしばしばのっとっている場面がとくに興味深い。しかし、全体的にこの小説の面白さはむしろ、アカデミズムの背後にうごめく欲望の本質をねらい打ちした点や、ソ連時代のアカデミズムのピューリタン的イメージからの解放にあり、さらには、ある意味でドストエフスキー的なニヒリズムの現代社会における一つの帰結としても読むことができそうだ。1996年度の『アガニョーク』ヒットチャートの上位を占めた理由はその点にあったのではないか。
「極端な貧富差にあえぐ現代のロシアが、かつてゴーゴリやドストエフスキーが描いた一九世紀半ばのロシアに何やら似てきた。150年を隔てた後のこの循環がそもそも奇妙だ。作者のクワルジンは、教授の口をとおしてポスト構造主義の難解なタームを駄ジャレ風にちりばめ、カネに溺れる知識人や文壇の姿をどぎつく滑稽味豊かに描きだしていく。戦場はドストエフスキー。死ぬまで金に苦しめられた彼の存在がまさに奇妙な共感とリアリティをもって受け止められている。」(毎日新聞「海外の文学」より)