●コロリョーフ, アナトーリー Korolev, Anatorii
「エロン」 Eron. Znamia, No.7-8, 1994.
解説 望月哲男
1. 作家について
ペルミ国立大学卒業後、ペルミの新聞『青年親衛隊』で働く。『ウラル』等の雑誌に寄稿。現モスクワ在住。
参考文献
Anatolii Korolev. Beiustiteli Neba. Ural, No. 4,5,6,7, 1990.
Anatolii Korolev. Golova Gogolia. Znamia, No. 7, 1992.
Anatolii Korolev. Ozheg linzy. Povest', rasskazy, roman. Sovetskii pisatel', 1988. p. 367.
Anatolii Korolev. Bludnyi syn. Znamia, No.4, 1994. (M.ブルガーコフ論)
V. Serdiuchenko. Progulka po sadam rossiiskoi slovesnosti. Novyi mir, No. 5, 1995.
2. 作品について
(1)性格と構成
『エロン』は現代の人間の自己認識というテーマによせた雑色のオブジェのような小説である。
題名となっているエロンという語は、恐らく作者の造語で、二重の意味づけが与えられている。一方でこれはエロスとクロノスとの結合から生まれた一種の神格であり、人間と世界の関わりをつかさどるような存在として性格づけられている。また他方でエロンとは、小説の時空間を枠づける量的単位でもある。1972年3月2日にケープ・カナベラルから打ち上げられたロケット『サターン』が、太陽系の果てめがけてパラボラ・アンテナを備えた探査通信機「パイオニア10」を発射した。この装置が太陽系を脱するまでの時間と飛行距離──88年9月24日までの15年間、60億・──がすなわち1エロンであり、これが同時に小説の全体規模である。(事実小説は72年の出来事にはじまり、当該時間のすぎた時点で、途切れるように終わっている)
このような「枠」を持ったこの小説は、実際には多数の断片を貼り合わせたコラージュの形をしている。その全体を便宜的に2つの要素に分けて考えることができる。ひとつは何人かの主人公たちの経験を描いた部分であり、もうひとつは語り手自身の言説にあてられた部分である。
前者の部分の主役となるのは、70-80年代のモスクワの若者たちである。彼らは相互に無関係であるか、あるいは間接的な関係しか持たないが、その人生の描かれ方のパターンは類似性を持っている。すなわちいずれの人物の体験も、都市の風俗をベースにしたきわめて日常的な生活の部分と、超現実的でシンボリックな時空間での体験という部分から構成されている。すなわち彼らの性意識や野心、あるいは生命・死・信仰などをめぐる思想が、現世的レベルと神秘的レベルで、2度ずつ試みられるという構造になっているのである。
一方後者の部分では、狂言回しか活弁士のような仮面をかぶった語り手自体が主役となって、彼のパフォーマンスが展開される。この人物は多弁と博識を特徴とし、読者に向かって物語の結構を解説する一方で、現代という時代を特徴づける様々なデータを提供しながら、それにもとづく自らの思考実験を開陳してみせる。彼の言説の中には、古代以来の宗教や思想からとったコンセプトをはじめ、現代の科学、技術、文化、政治、風俗、三面記事的ゴシップにいたるまで、広い領域を横断する題材が持ち込まれる。
もちろん語り手は小説に遍在しているのであり、主人公たちの物語も語り手の思考実験の一部であるとも言えるわけだが、その事情をふまえたうえで、ここでは上記の2つの部分に分けて、作品についての解説を加えてみたい。
(2)内容紹介
1) 主人公たちの経験
11章からなるこの小説において、中心的な人物とみなし得るのは次の者たちである(カッコ内は主として登場する章数)。
フィリップ・ビルノーフ:モスクワの大物政治家の息子(1,7)
アダム・チャルトルイスキー:建築学を学ぶ学生(1,2,6,9)
ナージャ(ナーディン)・ナヴラチーロヴァ:地方出の見習工、のちにダンサーにもなる (1,3,11)
フランツ・ビューズィング:哲学科のドイツ人大学院生、ナージャの恋人(3)
アントン・アレヴディン(アスクリト):インツーリスト・ホテルのミュージックホー ルに勤めていた若者(5)
メリッサ・マルクス:死の予感と去勢志向を持つ謎めいた美人(5)
リュープカ・ナブラチーロヴァ:ナージャの妹、娼婦(8)
登場の章数から分かるように、主人公たちの人生は概して均一な密度で継続的に語られるのではなく、かなり細描的な2〜3の断面図が距離をもって置かれるという描かれ方をしている。各人物の個性の一貫性とか、複数の経験の間の因果関係といった、近代小説のストーリー性を保障する要素も、重要視されていない。彼らの人生の断片は、人物名を入れ替えても同じ小説構成的意味を持つかもしれない。
さらに主人公の大半は、物語の過程で作品舞台を去ってゆき、最後まで語り手につきあうのは、女主人公ナージャのみである。男性たちの経験は総じて自我主義者たちに対する試練の物語となっているが、その際世界に対する彼らの主観的・主体的態度はその人生にとって大きな意味を持たず、合理化しがたい衝動や超常的な現象といった「外部の」力のみが、彼らを行為や認識に誘うような仕組みとなっている。
以下サンプルとして4人の主人公の運命を略述する。
・ フィリップ: 作中随一のエゴイストであり、権力のみが人間らしくある権利を保証するという思想を持つと同時に、自分の権力が父親の地位によってしか保障されていないことに気づいてしまう小心な内省家でもある。彼にとって、自由な主体たるべき人間は、また性欲に支配されて行動を制御できない奴隷的存在でもある。1972年のこととされる彼の情事を描いた断片は、虚栄、サディズム、うしろめたさ、嫉妬の混じった、幼児的なものである。
小説の後半、カメルーンの奥地に狩猟に出かけた10年後の彼は、「自由」と「死」を個人としての人間にかせられた二重のしっこくであるとみるニヒリスティックな世界観の持ち主となっている。彼はそこで、野生の斑猫を追いかけるうちに出会った不思議な一角獣と、哲学的な対話をすることになる。一角獣の論理によれば、人間の本質は即自的な存在であることに自足せず、存在に対面し、問いかけ、呼びよせる開かれた存在たるところにある。そして問いと応答の主体たる人間は、本質的なものが存在という姿をまとう契機でもあり、個的な生死の枠を越えて、全存在にたえず参加している……一角獣のハイデガー式レトリックに満ちた饒舌に辟易したフィリップが相手に発砲すると、それにつづいて彼の目前で一連の変身──野生の猫の死骸がスフィンクスに、スフィンクスがファラオにという変身──が起こる。死を個人の生を無意味化する限界と考えていた彼は、アフリカの自然、動物、神話的形象が無限自在に変貌し転身する様を前にして、死もまた生の一現象であり、存在に終わりはないことを認識する。フィリップの「冒険」はここで途切れている。
・ アダム: もう一人の主人公アダムには、比較的ゆったりとした肉付けがされている。彼の人間性も二重である。すなわち自己の心をとざし人間的なものを拒否することによって強い個人となろうとする意志と、人類の社会的理念の表象にかかわる建築家としての開かれた意識とが、彼の個性をアンバランスなものにしている。
世間がソルジェニーツィンの追放に沸いていた1974年、彼はガールフレンドの堕胎と父親の死とをたてつづけに経験し、運命のバランスをつかさどる神的なものの存在を感じる。その後棲家を失ってモスクワを転々とするうち、彼は性と権力とが結びついた社会から二度追放されるという経験をする。その運命にかかわる一人はフィリップの妹リーカで、彼女はアダムを誘惑し、父親の高級アパートに連れ込むが、アパートが盗聴されていることに気づき、アダムを裸で追い出してしまう。もう一人の登場人物である大物建築家の魔ヘ、アダムの才能を認めながら、この世ではあらゆる純粋なイデーが不純で愚劣なものとならざるを得ないゆえに、純粋たらんとする者は小心な俗物たるしかないといった厭世的思想を披れきする。魔ヘまた、意志ではなく生理および性衝動こそが人間の主人であるというシニシズムの持ち主であり、同性愛の誘いをしりぞけたアダムを家から追放する。
このアダムの姿は、一人の放浪者として後の章に現れる。
場面はモスクワをはるか離れた「アーメン山」のふもと、鉄道事故の直後と設定されている。彼は恐らく事故から救出した正体不明の少女を肩にのせて山越えしている。そこで彼は山中で祈とうしている修道士の姿を目撃し、それをきっかけに中世のベネディクト派の僧の幻想とおぼしき世界に入ってゆく。アダムと少女が湖を渡って着いた村では、折しも奇跡が進行中で、聖母子とヨセフの幻が草原に顕現している。しかし村人たちがその意味を理解せず、冒涜的な言動にはしるため、村全体が目覚めたイエスによる恐ろしい報復の対象となる。街道に出たアダムは、時の河を旅する者の感覚にとりつかれ、中世初期のクリストフォルス(幼児キリストを背負って渡河する巨人)の物語を追体験する。彼の心はそこでスコラ哲学的世界論──世界の全体が神であり、全存在は神の部分である/個人の経験の意味も神の定めるものである/創造は、神たる世界の運命を被造物にゆだねる神のリスクである──を聞き取ることになる。
その後少女と別れたアダムは、動物たちを載せた車に便乗し、屠殺場に着く。そこはオペラのような世界であり、「魔笛」の曲にのせて人々が歌いながら、動物たちを組織的に殺りくしている。生き物への同情心から救済を乞うアダムに対して、女屠殺人は信仰の言葉によって自らの行為を説明する。それによれば生命のできごとは神の与えるところであり、その前に人も動物も差はない。共通の運命にある者に同情する者のみが、神の指として他者を殺す力を持つのである。アダムの物語もここで途切れている。
・ アントン: もう一人の男性主人公アントンの運命は、よりグロテスクである。
ホテルのラウンジでディスクジョッキーの仕事をしていた彼は、高慢で破廉恥な美女メリッサに誘われるまま、彼女の義兄弟を名乗る3人の男性と母親だというメリサンドラとからなるそのグループに加わる。メリッサはペトロニウスの主人公がとったアスキリトゥスの名を彼に与えると同時に、彼の余命があと7年しかないこと、彼女は彼に何も与えないだろうことを宣言する。このメリッサは、娼婦性と処女性をあわせ持つ女性で、言葉の端々にサディズムと去勢志向、さらに自殺願望をただよわせている。
後に一同で行ったリガのヌーディストクラブで、麻薬使用の疑いで逮捕されたアントンは、一時メリッサたちを見失い、友人フィグリンと行動をともにする。女衒をなりわいとするフィグリンは、アントンをともなってモスクワの性的地下世界探訪の旅に出る。娼婦たちのほか、レズビアンの外人女性、ゲイたち、小人のサーカス、死体安置所の死人たち、蛇姦を好むニンフォマニアの女性といった者たちの間をめぐるこの一月ほどの放浪を、両者はダンテとヴェルギリウスの地獄めぐりにたとえる。
この後メリッサたちに再会した彼は、たちまち自由を奪われ、幻想的な空間にひきこまれる。そこでメリッサとメリサンダの母子は、彼の体を素材に、エジプト式の供犠の儀式──去勢、肉体の解体、ミイラ作り──を行う。
ここでひとたび死に、解体された彼は、次のシーンでは中央アジアへ向かう汽車の寝台で目を覚ます。そして砂漠の小駅にひとりのこされ、太陽の下で死を待つことになる。
・ ナージャ(ナーディン): アダムと並んで物語の中心軸となる存在。両性具有の肉体を持つ。地方出の娘である彼女は、染色工場の見習工という劣悪な環境の中で、女性であることを拒否するストイックな生活をしている。やがて同僚の不幸な恋愛と堕胎という事件を契機に仕事を離れた彼女は、富裕なフランス人女性マゾーに認められ、彼女のダンススタジオでバレーを踊ることになる。しかしレズビアンであるマゾーの振付によるバレー「性に関する天使たちの神への反逆」は、その冒涜性ゆえに彼女を満足させない。
ナージャは同時に、ハイデガーと古代文化を研究するドイツ人大学院生フランツに出会い、性的生活に入ってゆく(彼女の性への感情は去勢派的矛盾をおびたもので、将来の生において性から解放されるために、現在性に没頭するというモメントを含んでいる)。
フランツは、その博識、無神論的知性、ロシアとロシア人への両義的感情からくる奇行(彼はロシアにもう一人の不具者を加えようと、せむしのまねをして街を歩いたりする)で、ナージャを驚かす。
ナージャはやがてフランツの子を宿し、様々な不安や葛藤を経験したあげく、生命伝達の媒体となるような感覚に落ちついてゆく(このフランツとの生活は、やがてナージャの妹リュープカの介入によって破綻する。フランツは自殺し、リュープカは娼婦となったあげく、マフィアによって殺される)。
ナージャの姿は最終11章に再び登場する。88年のモスクワで彼女は翼を生やした男を見かけ、彼を追って戻り道のない異空間のような部屋に入り込む。そこで彼女は病める若者アゲル(エンジェル)、若い医者、トリックスターのような少年(小人)を眼にするが、3者は一人の人間の変貌のようにも見えるし、また全ては精神を病んだナージャ自身の幻想の世界とも感じられる(医者によれば彼女は見ようと思うものを見ることのできる能力を与えられている)。
若者アゲルは彼女に生の本当の姿(本質)を直接に見るチャンスを与えると宣言し、幻想的な飛行に誘う。彼女はそこで、「30人の天使のまなざし」を通して、人類史の様々な時と場(生の誕生の瞬間から現代のモスクワまで、レーニン廟の中から地球の全景まで)を見ることになる。その光景の中には作品の登場人物であるフィリップやアダム、アダムに背負われた少女(彼女自身の娘らしい)、さらにフランツの短い生涯も混じっている。
彼女がそこで至る認識は、男性主人公たちの認識に似ている。すなわち死は生をはらみ、現世は来世をはらむ。そして世界は人間にとって知的認識の対象ではなく、参加と働きかけの対象であるという認識である。
2) 語り手の世界
主人公たちの運命を離れて語り手自身のパフォーマンスにあてられた部分は、1、4、6、8、10、11章の一部あるいは全部をなしており、作品の大きな部分を占めている。語り手の言説は形式もテーマも多様であるが、全体を通底するものとして3つの基本特徴が指摘できる。
一つは、20世紀後半の人間の自己意識が、宇宙における人類の孤独さの認識によって規定されているという考え方である。語り手によれば、この認識を確定したのは、まさに小説の出発点となっている1972年の2つの科学的発見──米ソの火星ロケットが開明した無人のおぞましい火星の表面風景と、アメリカの月ロケットから撮られた地球の全体写真(ハイデガーが「非地球」と呼んだ写真)──である。
地球外に類似生物を持たないことを知った人類の孤独さという認識は、この作品自体に2つの方向で反映している。一つはここに頻出している宇宙探検史への言及であるが、そこでは金星や木星さらには太陽系の果てにまでロケットを飛ばすような人類の営為が、単に積極的な知への志向の産物ではなく、自己の孤独と世界の不可知性を確認しようという、一種絶望的なマイナスの意志(無目的性)に支えられたものと性格づけられているのである。人類の孤独さという認識は、また作品の哲学的思考自体にも影響している。ここでは世界における人間の位置、性格、意味に関する思考実験が展開されているが、語り手の立場は神学的な言葉や自然学的な知識をベースとしながら、結局は意味の主体を人間に求める人間論の内にとどまっている。例えば第4章で語られる人間の発生論によれば、世界の根源的状態は無(nichto)であって、その無にある本質的なもの(sushchee)が触れることによって、ある輪郭を持った存在(bytie)が生ずるとされている。人間は、ひとつにはこの本質の接触によって生じた存在(無をかかえこんだ枠)であるが、同時にそれは本質の役割を模倣する存在でもある。すなわち人間は存在せしめられたものであるばかりでなく、自らが無に接触し、いわば世界を分節化して、存在せしめるものでもある(人間の性のメカニズムは接触によって無から存在を生ずるメカニズムの模倣である)。このような文脈では、超越的な根源(本質=神的なもの)を前提としていた議論が、結局は人間を万物の起源とする議論にすりかわってゆく。人間は知のレヴェルでも、自らを超える存在に依拠することのできない孤独な存在なのである。
語り手の言葉のもう一つの特徴は、一種の視覚的パターン性、反復性である。例えば語り手は宇宙の規模をテーマとしたいくつかの思考実験を繰り返している。すなわち太陽をビリヤード玉大のものと仮定すると、太陽系およびその外の宇宙はどれほどの大きさのものとイメージできるか、また地球の軌道を分子中の水素原子の軌道にたとえると、宇宙はどのような規模となるか、あるいは地球のこれまでの歴史を1年間に圧縮した場合、人類が現れるのは12月31日の何時か──といった考察である。そしてこうした記述の一方で、極小の世界──23対からなる遺伝子を背負って卵子をめがけて進んでゆく無数の精子の世界──をも描き出している。
世界認識のスケールを自在に変換してみせるこのような叙述の繰り返しは、ある種の同型反復からなる世界像を生み出す。例えば原子の内部構造と宇宙の構造、あるいは胎内を進む精子のイメージと、暗黒な宇宙を進むロケットのイメージが、どこかで読者の頭の中で重なるのである。
こうしたパターン的発想は、第10章で言及されるフラクタル(自己相似幾何図形)の理論と直接つながっているようにみえる。IBMのマルデルブローが80年代半ばに提唱した説によれば、世界の事物の構造は、極小レベルから極大レベルに至るまで、ひしゃげた8の字の累積としてモデル化される。それは語り手によれば、コンピューターが開発した神の視点からの世界像である。
語り手の言説の第3の特徴は、その新聞紙面的な雑居性である。
彼はいくつかの場所で同時代史を圧縮したような記述を行っているが、その際、政治・科学・天災・事故・文化・犯罪・三面記事的ゴシップ・流行現象など、あらゆるジャンルの出来事をわざとのように散りばめている。例えば72年から75年の記述には次のものが入る。
──ウィーン地震、川端康成の自殺、アポロ16号の発射、「ジーザス・クライスト・スーパースター」の流行、モスクワのジャルゴンの変化、世界的干ばつ、反アルコール・キャンペーン、エルビス・プレスリーの復活、ピカソの死、ブレジネフによるレーニンへの党員証・1の発行、個人宅での展覧会の流行、シリアとエジプトによるイスラエル攻撃、モスクワの洪水、オナシスの息子の事故死、自らの肉体を冷凍した医師、マンデリシタムの詩集の出版、シャガール展、反ソ活動家の公開裁判、チリの軍事クーデター、サハロフ批判、ソルジェニーツィン批判、パトリシア・ハーストの誘拐、ジューコフ元帥の埋葬、ニクソン退陣、アメリカ製ガムの発売、国連のシオニズム批判、エルトン・ジョンの活躍、ソ連製チューインガム発売、プノンペン陥落、ショーロホフ70才記念、ネッシー騒ぎ、ジャクリーン・オナシスとクリスチーヌの遺産争い、米ソのソユーズ・アポロ計画、インド洋で遭難し生還した水夫の話──
果てしなく列挙されるこうした現象に論理的一貫性はない。そこでは現実は、まさに主調音を欠いた音楽のような観を呈しているが、これこそエロンのいとなみの表の顔なのである。
「同型の反復」と「雑色性」という2つの世界描写の方法は、おそらく宇宙における自らの孤独を意識した人類の2つの矛盾した志向──法則性への志向と偶然や自由への志向──を反映している。人間はそのいずれとも同一化できない、つまりフラクタルの図柄を見渡す位置に立つことも、現実の一点に自足して生きることもできない。ただ選ばれた者(ここでは両性具有のナージャと、そして恐らく特権的位置にある語り手)のみが、その2つの場に同時に存在することができるのである。
3.コメント
1) 約束ごとの小説
物語の虚構性を強く意識しながら叙述する姿勢がこの作品に強くあらわれている。語り手の言葉には、読者への語りかけの様式(「眠りを知らぬ読者たちよ」「我らが主人公を捜しに行こう」といった表現)が用いられる。印刷媒体への自己言及(「(水素原子の軌道径は)この文の末のピリオドの何万倍も小さい」といった遊び)も含まれる。作品の最終ページの印字面がななめに分断された形で途絶えているのもその一例である。
虚構性は、各部分の輪郭を際立たせるという形でも強調される。叙述的言葉と評論的言葉、あるいは物語的現実に対する社会的現実といった対立が枠となって各部分を仕切っており、さらに全体にはこれがエロンという時空枠で仕切られた世界だということが明言されている。
オドーエフスキー的な枠物語の様式を、現代的メタ文学の意識によって再利用した文学といった印象を与える。
2) 多言語性
物語スタイルと評論スタイルの併存ばかりでなく、文学的言語と様々な「文学外的」言語との共存という現象も見られる。宇宙科学、哲学、神学、生物学などの学術用語、ファッション界や調香師の言葉などの業界語、性的な俗語や卑語、非常に多くの領域にわたる固有名詞といったものが、スノッブ的印象を与えるほどに盛り込まれている。
文学外の概念や語彙を文学に取り込むのが小説の本来であろうが、とりわけ現代社会の情報の多元化、社会的自己意識の枠の拡大といった現象を踏まえて、文学の枠をも拡大してゆこうという意識がここには感じられる。
3) 読みの難しさ
上述のような性格に起因する一般的な解釈の難しさが作品のもうひとつの特徴である。
ある巨大な問い──自己再生産能力と自己認識志向という特権的属性を与えられた人間が、宇宙における自らの孤独と生命自体の有限性の認識を踏まえたうえで、自己の内にある曖昧なもの(性、暴力、死……)をどのように処理してゆこうとしているのかという問い──が作品を貫いている。ただしこの問いは解決し得るものとしてではなく、開かれた問いとして置かれていて、作者の努力はこの問いの現代におけるあり方を適切に描写する装置を工夫することに注がれているように見える。作品の各部分は、恐らくこの巨大な問いを様々な視点から眺めるための窓として性格づけられるのであり、各部分にあらわれる個別的テーマの、継続的展開や結論を求めても無駄なのである。
このことは例えばこの作品の性のテーマの読み方をも限定する。性的なサディズム、マゾヒズム、ホモセクシュアリズム、去勢願望といった様々な形の性のあり方が言及されるこの小説においては、性が人間と世界の関わりの象徴であり、また個人にとっての重要関心であるとされている。こうした文脈において、女主人公ナージャが両性具有であることが何度か言及されている。一方第4章にあらわれる色情狂の女性アーシャは、神は両性具有であり、自分は神のクリトリスであるという性的世界観を述べる。そのほか各部にあらわれる両性具有や複数の属性の具有のシンボル(例えばスフィンクス)を勘案したうえで、両性具有が作品中で特権的意味を与えられていることは確からしく思える。つまり最終章でナージャに、世界の諸相をありのままに見る能力が与えられることは、彼女の両性具有性と恐らく関係している。
しかしこのことは、作中の一人物が全体を見渡す目を持つ契機としてあるのであって、彼女の新しい視野が作品の大きな問題に最終的解決を与えるわけではない。また何故それが両性具有性でなけらばならないかという理由も、あるいはそうした属性が彼女自身の生にとって持つ意味も、ここでは展開されていない。両性具有は現世的な性のあり方の止揚の一シンボルなのである。
同様に作品に頻出するエジプト的モチーフ、ダンテ風の地獄めぐりのモチーフ、宇宙飛行のモチーフといったものも、それぞれが展開されるわけではなく、ひとつの問いへの複数の視点を可能にする契機として、シンボリックに用いられているのである。
作品がテーマの解決装置ではなく、現実世界に対する様々な観点を提示し、ひとつの問いを多角的に浮かびあがらせてゆく仕掛けとしてあるというこの特徴こそ、恐らくは作者が強く影響を受けているハイデガー的現象学の手法と関連するものであろう。
4) 脱ロシア性
作品の舞台となるモスクワには、しばしば第三のローマの首都といった形容辞が与えられ、高官のアパートやレーニン廟をはじめ、ソ連時代の政治・風俗・文化のレミニサンスが散りばめられている。
しかし作者にはロシアおよび特殊ロシア的問題を扱おうという意識は無いようで、このモスクワも性的で暴力的で政治的な大都市の普遍像といった観が強い。キリスト教のテーマも中世カトリック神学の遺産を素材として語られるし、ミクロコスモスとマクロコスモスの対応というテーマに関しても、いわゆるロシア思想の文脈ではなく、現代哲学とコンピューター科学の用語で語られている。そうした意味で作者は、文学的なものの枠を広げると同時に、特殊ロシア文学的であることをも脱しようとしているように見える。