●フメリョーフ、ヴォフシャ Khmelev, Vovsha
スカース作品 Skazy
解説 藤田智子
1.作者について
本名ウラジーミル・アレクセーヴィチ・ストィーリンVladimir Alekseevich Sutyrin。1951年ウクライナ共和国ザカルパチア州ウジゴロド市生まれ、1973年にウラル国立大学文学部を卒業後さらに映画大学で映画シナリオ創作理論を修め1986年卒業、現在はエカテリンブルグ市に住んで小説、詩、シナリオなどを書いたり時事評論を地元の新聞に発表したりしている。スカースを書くときだけは語り手の役を演じるためにヴォフシャ・フメリョーフというペンネームを使うとのことである。
ちなみに「ユーノスチ」1996年11月号等の予告によれば、1997年上半期に掲載予定作品リストにストィーリンの中編小説と短編小説とあり、それとは別にフメリョーフの風刺的スカースとある。
スカース以外の仕事(本名で発表):
・最初に活字になった文章はナセルの伝記を扱った短い書評(というより紹介)(retsenziia na Leonida Agarysheva 《Naser》 iz serii 《Zhizn' zamechatel'nykh liudei》. Novyi mir, No. 7, 1976.)
・評論「人道主義者は人道的か?」(Gumanen li gumanist? Iunost', No. 12, 1995.)
・1994年、詩集と現代ウラル文学的おとぎ話(編著)をエカテリンブルグで出版
2.作品について
1) 1995年8月号の2作品のあらすじ
『ウラル・コモンウェルスのスカース』(1)
Skaz pro Ural'skii komenvel's. Iunost', No. 8, 1995.
1993年のロッセリによる「ウラル共和国宣言」事件を下敷きにした創作。
かつてエカテリンブルグにローシンという名の県知事がいた。ある時彼が「ウラル共和国」なるものを興そうと企てた。地元の人々の賛成もモスクワの大統領からの了承も簡単に得られた。
しかし「ウラル共和国」憲法について地元で話し合う段になると「共和国」内の各地域の勢力がそれぞれ自分たちの利益を主張して紛糾する。こうして憲法制定会議が長引くうちに、モスクワの大統領が側近にローシン批判を吹き込まれて「ウラル共和国」を作ることは許さないと言い出し、ローシンは失脚する。
失脚したローシンはドイツに去り企業家に転身する。成功を収めた彼は再びエカテリンブルグに現れ、「人道援助」を与えてすぐまたドイツに戻っていった。
ローシンが去ったあと、語り手たちは事件の顛末について思いを巡らす。「どうじゃろなあ。あの時わしらは本当に例のウラル共和国をがんばって守らなけりゃいけんかったんじゃろか?共和国ができていれば役にたつこともあったろうが、いや、わからんぞ。じゃがまあ、チェチェノ-イングーシ野郎とバザールでタメ口をきくようにはなっていたじゃろなあ・・・」
『こんなふうにしてペトルーシカ帝がわしらにカチューシカをしょいこませたんじゃのスカース』
Skaz pro to, kak tsal' Petrushka otovaril nas Katiushkoi. Iunost', No. 8, 1995.
1991年のスヴェルドロフスク市からエカテリンブルグ市への旧称復活に触発されてなされた創作。
エカテリーナ1世がどのような人物だったのか知りたくなった語り手は物知りのセルゲイ・セルゲーヴィチのもとへ出かける。セルゲイ・セルゲーヴィチは次のように物語る。
その昔ペトルーシカ帝はロシアの版図を広げるための戦いに疲れ、安息を求めていた。それに気づいた側近のメンシコフが帝にひとりの百姓娘を薦める。彼女はツァーリにとってかけがえのない伴侶となり、皇后になった。カチューシカ皇后はペトルーシカ帝に「自分の都市」をねだる。ペトルーシカ帝はタチーシチェフ大尉にウラルに新しい都市を建設するよう命じる。タチーシチェフはウラルに砦を築き、その砦に皇后の名を与えてツァーリ夫妻に献上する。こうしてエカテリンブルグという町ができた。
「だがこの百姓女のお祭りは長くは続かなかった。」突然ペトルーシカ帝が亡くなり、カチューシカ皇后はメンシコフらに推されて帝位につく。しかしツァーリである重責に耐えられず乱れた生活を2年間送ったあげく死んでしまう。「けつがやわなくせに鞍にまたがるもんじゃねえぜ。」
セルゲイ・セルゲーヴィチの物語を聞き終わって語り手は、現在エカテリンブルグ市に見られる社会的混乱の原因は自分たちにあるのではなく伝統が悪いのだと考える。
2) 1996年3月号の2作品のあらすじ
『昔蒸し風呂でこんなことがあったっけなあのスカース』
Skaz pro to, kak ia odnazhdy v ban'ke poparilsia. Iunost', No. 3, 1996.
老人の思い出話。民衆の間に残るひとつのスターリン像が浮かび上がる。
語り手は大祖国戦争のとき伝書使だった。1948年のこと、彼はモスクワ第*番野戦逓信点気付け「同志イワーノフ宛」(役職名も階級も記載なし)の小包を託される。苦労の末小包を届けることはできたが、宛先にたどりつく寸前に野犬におそわれ真冬だというのに身につけていたものをすべてはぎ取られてしまっていた。彼は蒸し風呂小屋に運び込まれ、ひとりでゆっくり休息する。
ようやく人心地がついた頃、口ひげを生やした小男が蒸し風呂用のほうきを手に入ってくる。その小男は「明日勲章を与えるが、その前に今日このほうきでもってほうびを与えてやろう。腹這いになれ。」と言って語り手を激しく打ち始める。語り手は痛みに耐えた。次に小男が語り手に自分の背中を打たせ、やはり冷静に痛みに耐えた。
こうして勇敢さを認めあったふたりは脱衣室でひと休みしながら不思議な問答を交わす。口ひげの男が「小包は誰宛だったのか?」と聞く。語り手が「同志イワーノフ宛であります。」と答えると、口ひげの男は言う。「我々全員が彼の副官である。我々各員に[引き船人夫が船を引くように同志イワーノフを引くための]引き綱がつけられている。」そして同志イワーノフとは「至高にして不死のロシア・ナロードなのだ。」と。この時手渡されたタオルに「国家防衛委員会」のスタンプが押してあるのに気づいた語り手はこの小男が何者であるかを悟った。
語り手はこの人物に3つのことを願い出る。第1に衣服を、第2に武器を請い、第3に伝書使として後方をうろうろするのにはうんざりした、一兵卒としてドイツ人と戦わせてくれ、と願う。そして言い終わると気を失ってしまった。
どれほどの間そうしていたのか、ふと気づくと語り手はすでに一兵卒となり徒歩行軍に加わっていた。大休止の時自分が勲章を持っているのを見つけあの人物との出会いを思い出されるが、やはりどうしても信じられない思いがするのだった。
『ウラルのナロードがどうやってたつきを立てるようになったかのスカース』
Skaz pro to, otkudava est' poshel narod ural'skii. Iunos', No. 3, 1996.
ウラルの歴史を独特の物語り方で描いた創作。
語り手は旧知の露天商セルゲイ・セルゲーヴィチを訪ねる。セルゲイ・セルゲーヴィチは語り手や客たちと掛け合いをするうちウラルの歴史を語り始める。
イワン雷帝がウラルに犬の頭を持った人間がいると聞いてエルマークにそれを捕まえてくるよう命じた。エルマークは途中のカザン・ハン国を服従させたのちウラルに入り、犬の毛皮の帽子をかぶったヴォグール人を見つけてモスクワに連れ帰る。
次にシベリア軍司令官がバシキール人をウラルに攻め込ませて暴虐を働く。ウラル人は反撃に成功し、新たな指導者のもとで鉱業を発展させ始める。
その発展ぶりが広く知られるようになるとトゥーラからデミドフという専門家がやってきてドイツ式の新技術を伝える。さらにポルタヴァの戦いから生還した軍人たちもドイツ系の知識をもたらす。労働者が不足すると首都のスクラートフなる人物が流刑囚の配備を提案し、実現される。未亡人たちにもよい夫ができ、ウラルの鉱業もいっそう発展を遂げる。
こうしてウラルの鉱夫たちは十分な収入を得ることができるようになったが、売店にはヴォトカしか売っていないのでいきおい酒浸りになってしまった。ソビエト政権がそれに気づき、第2のデミドフがやってきて「土地をナロードへ!」と叫ぶ。そこてウラルの人々は「その土地を掘り返し始めた。鉱山も土地もソビエト政権もなくてならないものなのさ。」
ここまで話すとセルゲイ・セルゲーヴィチはそれからさきのことは聞き手たち自身がよく知っているだろうとつっぱなす。そして「神のものは神へ、俺たちウラルのものにはウラルのものをさ。鉄に頼って鉄でおまんまを食っていくのさ。俺たちゃほかのことはなんもできねえんだからよ」と言い残して店番の仕事に帰る。語り手も彼の考えに賛成する。「働き者じゃないウラル人とかけてひょろひょろの雄牛と解く。この世にそんなものはいやしない!」
3.コメント
どちらのグループも「ユーノスチ」誌の「緑の鞄」(Zelenyi portfel')のコーナーに発表されたもの。1995年8月号のスカースによってストィーリンはこの年の「月桂帽」賞(Plemiia 《Lavrovaia shliapa》)(毎年「緑の鞄」コーナーに発表された作品の中で最も優れたものの作者に贈られる)を得た。(2)
文章は口頭のウラル方言そのままで非常に読みにくい。非標準的な語彙が多いだけでなく、変化語尾もvyzyvat (vyzyvaEt); lyzhonki kaki-nikaki (kakiE-nikakiE)のように母音がしばしば落ちる。またkomenvel's (komOnvelF)のような外来語の不正確な転記も多く用いられている。
スカースの系譜の中でストィーリンの作品が際だっているのは、作者と異なる語り手を明示している点とユーモアを通じて本質的なものに迫るアプローチを意識的に取っている点である。第1の点については、フメリョーフなる語り手が明示されているばかりか、セルゲイ・セルゲーヴィチというもう一人の語り手も作品世界の中に存在し、彼がどのような状況で話し始めたかもかなり詳しく述べられている。第2の点はゾーシチェンコを思い出させる。ここに見られる4編の作品のテーマはすべて滑稽な風刺であり、これはスカースの中でひとつの勢力をなすテーマである。「ユーノスチ」誌1996年11月号の来年の掲載予定作品によればストィーリンはこれからもこの方向でスカースを書いていくつもりらしい。
<注>
1 参照:拙稿「『ウラル・コモンウェルスのスカース』について」(「スラブ・ユーラシアの変動」重点領域研究報告輯No. 19, 1996年11月)
2 Iunost', No. 1, 1996. p. 7.