●ハリトーノフ, エヴゲーニイ Kharitonov, Evgenii
「オーブン」 Dukhovka, 「ある少年の物語--どうして僕はこうなったのか」 Rasskaz odnogo mal'chika--"Kak ia stal takim"
解説 鈴木正美
1.作家について
エヴゲーニイ・ハリトーノフ(Evgenii Vladimirovich Kharitonov):1941年ノヴォシビルスク生まれ。1950年代末モスクワに移り、全ソ国立映画大学の俳優・パントマイム学科で学ぶ。修士論文(芸術学)「映画俳優教育におけるパントマイム」によって1972年学位修得。自らパントマイムのスタジオを設立。聾唖者の俳優たちによる芝居「魅惑の島」を制作、演出し、パントマイム劇場で上演、成功を収める。ソ連最初のエストラーダ演劇グループ「最後のチャンス」を結成。モスクワ大学の心理学講座を手伝い、言語障害者の治療の問題にとりくむ。1981年6月29日正午、プーシキン通りで突然倒れる。死因は心臓病、享年40。 文学活動は晩年の12年間。生前「37」「時計」などのサミズダート誌に発表された作品は数編の詩と短編「オーブン」のみである。原稿はごく限られた範囲で読まれただけだった。1980年に6人の若手作家とともに文学グループを結成、公の活動をしようとしたが、許されなかった。ハリトーノフ、フィリップ・ベルマン(アメリカに亡命)、エヴゲーニイ・ポポーフ、ニコライ・クリモントヴィチ、ウラジーミル・コルメル、ドミトリイ・プリゴフ、エヴゲーニイ・コズロフスキイの作品を収めた文集「カタログ」がアメリカのアーディス社から出版されたのは作家の死の翌年(1982)のことである。生前ハリトーノフは詩と長編、短編小説あわせて21編をまとめた作品集『軟禁中』を国外で出版しようとしたが、ついに果たされず、原稿は友人たちの手で保存された。これらが活字になるのには1993年のグラゴール版2巻作品集を待たなければならなかった。
●作品
Slezy na tsvetakh: Sochineniia. V 2-kh kn. Moscow, Zhurn. 《Glagol》, 1993.
ハリトーノフの作品リストは上記2巻作品集第2巻に収録のビブリオグラフィーを参照のこと。この作品集以降、アンソロジー、雑誌等に掲載された作品は次の通り。
How I found out: one boy's story. Index on censorship. 1 (1995).
One Boy's Story: "How I Got Like That". The Penguin Book of International Gay Writing. 1995.
The Oven. The Penguin Book of New Russian Writing: Russia's Fleurs du Mal. Edited by Victor Erofeev. 1995.
●参考文献
Contemporary Authors. Vol.104., Gale Research Company, Detroit, 1982.
Kozlovskii V. Argo russkoi gomoseksual'noi subkul'tury: Materialy k izucheniiu. Vermont, Chalidze Publications, 1986.
Stevanovic B., Wertsman V. Free Voices in Russian Literature, 1950s - 1980s; A Bio-Bibliographical Guide. Russica Publishers, New York, 1987.
Glas. New Russian Writing. ・4 (1993)
Gareev E. Ego spasala literatura. Literaturnaia gazeta, No. 7, 1995.
Shatalov A. The last unprintable writer. Index on censorship. 1 (1995).
「ある少年の物語──どうしてぼくはこうなったのか」鈴木正美訳 「ユリイカ(ゲイ短編小説アンソロジー)」 1995年11月臨時増刊
Erofeev V. Russkie tsvety zla. V labirinte prokliatykh voprosov. Esse. Moscow, 1996. pp. 232-250.
2.作品について
「オーブン」 Dukhovka
夏の1週間、別荘地での恋の物語。1日が1段落で語られる。主人公の「私」はとある別荘地で17歳の少年ミーシャに出会う。ギターを弾きながら歌う美しいミーシャに私はどんどん惹かれていく。2人は共に川を水泳したり、ミーシャからギターの弾きかたを習ったりしながら楽しい時間を過ごす。ミーシャの友人たちや彼の姉オリガとダンス・パーティーをひらいた土曜日の晩、酔って歌う若者たちの中でもミーシャはひときわ輝いてみえ、私はこの上なく幸せな気分になる。美声のオリガにモスクワに来て歌手にならないかと誘う。それは数学の勉強のために進学しようとしているミーシャを自分のもとにおいて共に暮らそうと考えたからだ。パーティーの後、それぞれの別荘に帰る若者たち。その中でテントに寝泊まりしているスラーヴァは少年シュリクを自分のテントに引き入れる。私が声をかけると中から「僕とシュリクのベッドタイムだ。これからファックするんだよ」という返事がかえってきて私は驚く。
ミーシャと別れる月曜日、もどかしい思いを胸にミーシャの別荘に行く。帰り支度をするミーシャの父は、ミーシャより12歳年上の私に冷たい感じがする。ミーシャが町に帰ってから1週間というもの何度も電話をするが、彼の家族は取り次ぎたくないのか、ミーシャはいつも留守だ。早朝の電話にやっとミーシャ本人が受話器を取ってくれる。映画を見て2人だけの時を過ごした後、モスクワの自宅のアドレスを教えようとするが、メモとペンがない。近日中に別荘に戻る予定を聞いて、その時にアドレスを渡す約束を交わす。ミーシャの別荘の前で朝から晩まで彼を待つ私。しかし運悪くミーシャとすれ違ってしまい、とうとう会えない。人気のなくなった別荘。夏休みは終わった。もうミーシャに会えるチャンスはないだろう。
「ある少年の物語──どうしてぼくはこうなったのか」
Rasskaz odnogo mal'chika--"Kak ia stal takim"
聞き手の立場は分からない。聞き手に向かって主人公は自分がいかに同性愛を経験するようになったかを語る。初め60歳の人民芸術家とぼく(17歳位)との関係は清いものだった、芸術家はぼくを愛撫するだけで満足していた、と主人公は語るが、これが事実ではないことは読み進むうちにすぐに分かる。子供の時の友人との経験、空港のトイレでの経験、女の子との経験、汽車旅行での経験、そして初めて夢中になったミーシャとの経験をあからさまに語る。やがて聞き手は消え、主人公の独白が続く。あたかも最初から聞き手がいなかったように。ようやく主人公は真実を語る。友人サーシャとの関係は続いている。人民芸術家は主人公からサーシャのことを聞き出し、彼を新たな恋人にしようとたくらむだろう。しかし、サーシャは男色の花咲く修道院に行くべきだ。そこにこそ彼の幸福があるはずだから。
3.コメント
ハリトーノフは1992年のドイツ語版カザックをふくめ、文学事典ではほとんど取り上げられていない作家である。作品集にまとまったのがつい最近のことであり、本格的な評価はまだこれからだろう。またホモセクシュアルの文学という点で、ロシアではいまだ批評の方法が定まっていないのかもしれない。ゴスチロをはじめとして欧米のフェミニズム研究が女性のセクシュアリティーに関する考察を深めているのに比べ、カーリンスキーによる研究を除けば、ロシア文学におけるホモセクシュアリティーの研究はあまり盛んではないようだ。
ハリトーノフはミハイル・クズミンから50年以上を経てようやく現れたホモセクシュアルの作家である。クズミンの詩では愛する対象が男性か女性かあいまいであるのに比べて、ハリトーノフは「同性愛の主題をあからさまに扱った最初の作家」である、とドミトリイ・プリゴフは指摘し、さらにヴェネディクト・エロフェーエフ、ソローキン、リモーノフ、サーシャ・ソコロフと並んで、ロシアの20世紀文学を代表する10人の作家の1人であると評価している。また、ツルゲーネフ以来これほどに純粋な愛を描いた作家はいないし、彼の作品はロシアのゲイ文学の古典となっている、とヴィクトル・エロフェーエフは高く評価している。
同性愛文学に特徴的なのは性交の描写が微細であるという点だろう。ふつう異性愛の場合、性行為に先立つ駆け引きの描写を微細にすることで、読者を興奮させる。しかし、同性愛の重要なテーマは、行為の先取りではなく、行為の追憶にある。たとえば、カサノヴァの言葉「恋愛における最高の時とは、階段を昇っているときである」(異性愛)に対してフーコーは、「恋愛における最高の時とは、恋人がタクシーで去る時だ」(同性愛)と言う。同性愛の文学においては、行為の後とその追憶に興味を集中させる。ハリトーノフの「ある少年の物語」はまさしくその典型だろう。しかし「オーブン」の場合、同姓のミーシャによせる恋愛感情が物語の全体を支配し、その恋愛が成就しないことで、主人公の届かぬ思いのせつなさをきわだたせる。これは純愛に対して懐疑的になってしまった現代において、ふつうの異性愛小説以上に読者を興奮させることのできるテーマだろう。
ハリトーノフの作品においては、懺悔のような独白のスタイルが特徴である。その多くは、自己の意識を忠実に描写していく。こうした「意識の流れ」の方法はおそらく映画大学在学中にワーギノフの小説やプルーストのなんらかの翻訳を読んで影響を受けたのだろうとプリゴフは指摘している。また、さまざまな他者の意識が自己の意識の中で再構成されていくような方法は、ハリトーノフが本業とした演劇(パントマイム)の方法論とも関係があるのだろう。さらに多くの批評家が指摘しているように、ローザノフの『落ち葉』などの三部作の影響もある。たとえば日記風の断章で構成された「花の上の涙」は明らかにローザノフの方法を意識したものである。意識の生成する場、それを筆記し再生させようという感覚は現代の作家に顕著である。こうしたことをシニャフスキイと対比してエロフェーエフは次のように述べている。ローザノフの影響は「シニャフスキイにおいては不自由であり、ハリトーノフにとって自由だ。シニャフスキイにおいてそれは方法の借用であり、ハリトーノフにおいては自由の借用である。ハリトーノフはただその鍵、その方法を選び、発展させたのだ」。ローザノフが『月光の人々』などで探求した性の問題、つまり硬直した性意識からの自由こそ、ハリトーノフの作品の最大のテーマといえるだろう。
ハリトーノフの作品が現代の作家たち(たとえばニーナ・サドゥールやヴィクトル・エロフェーエフ)に与えた影響については今後の研究課題となるだろう。