●現代ロシア詩の源流
宇佐見森吉
1. 1950年代の非公式なロシア詩
スターリンの死後、いわゆる「雪どけ」期のロシアではモスクワとレニングラードを中心にさまざまな文学グループやサークルが生まれた。50年代以降の非公式の芸術の担い手となった詩人たちの多くもこうしたグループやサークルから出発している。
彼らは《銀の時代》の詩人のように綱領を出したわけでもなく、流派を結成したとは言いがたい。しかし、文学の自由化が叫ばれていたこの時期に国外の新しい文学を吸収し、20世紀前半ロシア詩(モダニズムの詩)の遺産に触れ、埋もれたテキストを発掘し、その時代の生証人でもある詩人たち(たとえばパステルナーク、アフマートワ、ザボローツキイ、クルチョーヌイフなど)と交渉を持ち、地下文学の系譜に触れ、オフィシャルな文学の枠外で新しい詩的言語の可能性を探求したという点ではおおむね一致している。
近年公にされた資料はまだごくわずかなものにすぎず、この時期の全体を俯瞰することはなかなか困難である。ここでは1950年代以降の非公式詩に関するロシア本国のいくつかの最新の研究および資料に基づいて、群小詩人のモザイクと呼ぶべき様相を呈しているこの時代にも核となる集合体があり、その礎となった詩人がいることを確かめておきたい。
今日知られているポスト・スターリン期最初の非公式な詩のグループは1954年にモスクワで結成されたレオニード・チェルトコーフをリーダーとするグループである。以下ではこのグループの活動をとりあげる。
モスクワでは当時、エヴゲーニイ・クロピヴニーツキイのまわりにも多くの芸術家や詩人が集まっていたが、60年代に入ると《リアノゾヴォ》派と呼ばれた。1893年生まれのクロピヴニーツキイの経歴を考えれば、このグループの歴史はさらに1930年代にまで遡ることが可能である。したがって、チェルトコーフ・グループ以前にも非公式詩の集まり(地下文学のサロン)が当然のことながら存在していたことは強調しておく必要がある。
またモスクワとほぼ同時期にレニングラードでも非公式な文学グループは誕生している。レニングラードの場合、大学を拠点にした文芸サークルが活動の中心となった点に特徴がある。サークルの指導者の役割も見逃せない。そのうえにさまざまな私的な集まりがあり、モスクワ・レニングラード間の交流も行われていた。また50年代はサムイズダートの刊行以前の時代だったことも思い出しておく必要がある。
2. レオニード・チェルトコーフ・グループ
レオニード・チェルトコーフのグループは主にモスクワの外国語大学の文芸スタジオに集まった学生たちからなっている。図書館大生だったチェルトコーフをのぞき、メンバーのガリーナ・アンドレーエワ、アンドレイ・セルゲーエフ、ワレンチン・フローモフ、スタニスラフ・クラソヴィーツキイはいずれも外大生で、ほかにオレーグ・グリツェンコ、ニコライ・シャトロフが学外から加わり、ゲンナージイ・アイギとも交流があった。「西向きの窓のある屋根裏部屋」と呼ばれたアンドレーエワの部屋がサロンとなり、詩の朗読や合評が行われた。
「アルヒーフ青年」と呼ばれたチェルトコーフは図書館に埋もれた未知の詩人や未知の詩篇の発掘に情熱を燃やし、市中の散策もまた書店めぐりを兼ねていた。グループのメンバーがグミリョーフやマンデリシターム、オベリウ時代のザボローツキイに触れたのも彼を通してだったという。19世紀、18世紀の文学にまで遡るチェルトコーフの旺盛な関心、とりわけ20世紀詩への関心は、このグループのみならず、以後に登場するソビエト時代の公式的な文学規範を拒絶する新世代の若者にも共有されている。切断されたロシア詩の伝統への関心。チェルトコーフはその生きた百科全書となることでグループのリーダーとしての役割を果たした。
このグループの詩人たちについては、その詩の特徴を簡単に述べておく。
チェルトコーフ(1933年生まれ)はアクメイストの詩学を標榜していた。「グミリョーフ的な果敢さとチーホノフ的なイントネーション」(セルゲーエフ)が彼の詩の第一の特徴とされる。初期の詩に描かれるのは異国的で凄惨な戦争の光景だったが、やがてその光景はモスクワの深夜の場末の酒場や、公衆便所、泥酔者の収容施設等にとってかわられる。
冷えきったタイルを煙らしながら、
鼻をつく尿の水流が砕け落ちる、
塩素の染みついた天井のモザイクが
ちびちびと黄昏の光線を飲み込んでいく
Drobno b'iut o prostyvshie kafli
Struiki terpkoi i dymnoi mochi,
I plafony, chto khlorom propakhli,
V sumrak skupo tsediat luchi.
しかし、その詩はここでもやはり、
「尿の銃弾を浴びた路地を連行され、/冷たい壁に立たされるだろう」
「夜明けに、さながらこの夜明けのように、/おまえは背後の橋に火をつけるだろう」
というように、銃殺や戦争のイメージと崩壊の予兆、終末の到来の予感によって彩られている。
アクメイスト志向はガリーナ・アンドレーエワの詩にも色濃い。アンドレーエワの詩の場合、描かれる風景と抒情的主人公の心理との間の緊張が初期のアフマートワを彷彿とさせる。
どこまでもからっぽの空、
よぎる影も物音もない、
寒さ、休息の欲求、安堵のため息、別離。
そんなにもあなたはこの別れを渇望していたのか、
金に染まる天空の清らかな燕らを、
そのさえずりを拒もうとして。
もぬけの殻の屋根屋根は
素朴な歌声の記憶を絶やさず、
静寂を堪え忍び、
帰還を待ちわびている。
Tol'ko prostranstvo pustoe,
net ni mel'kan'ia, ni zbuka,
kholod, zhelan'e pokoia,
vzdokh oblegchen'ia, razluka.
Tak li ty zhazhdesh' proshchanii,
chtob otkazat'sia ot chistykh
lastochek, ikh shchebetanii
na nebesakh zolotistykh?
zdes' opustebshie kryshi,
pomnia nekhitroe pen'e,
prevozmogaia zatish'e,
zhdut vozvrashchen'ia.
一方、フローモフはフレーブニコフの新語創造、回文、半音声詩に惹かれていた(セルゲーエフ)。彼はまた18世紀以来のロシア詩にも造詣が深く、彼の詩では廃語や雅語、オードの語調、荘重な語彙も好んで用いられる。語の響き、さまざまなタイプの交響、さまざまなタイプの衝突は彼の詩でとりわけ重要な意味を持つ。
眠たげなソネット
浮き世のごたごたにぼくらの実の人生はない
ここでは生まれる前に死ぬことも可能だ
ここでは目覚める前にまた眠りこみ
宿酔の苦しさを迎え酒でまぎらせている
あこぎな猛禽やなれなれしい子猫どもの爪につかまれると
歌びと(ピイート)はあわてて柳に退屈という琴を懸け
鼠さながらピイピイと鳴いてみせる
彼は科学というものをなんと巧みに心得ているのだろう!
Sonnyi sonet
Net zhizni nam v zhiteiskoi kuter'me
Zdes', ne rosivshis', mozhno umeret'.
Zdes', ne prosnuvshis', zasypaiut vnob'.
Ot tiagot p'ianstva snova p'iut vino.
Piit speshit na vetly veshat' skuku,
Pishchat' myshom v rasstavlennykh kogtiakh
U khishchnykh ptits, u laskovykh kotiat.
Kak lovko postigaet on nauku!
回文の探求も彼の詩の大きな特徴である。つぎのように各行が回文で書かれた詩の試みもある。以下はその最初の詩節。
ぼくは鴬の毛
窓枠の蚊は飛んでいった
ぼくは烏を甘やかす
珍しいイカロス
Ia volos solov'ia
Ramok letel komar
Ia voron norovia
Redkii Ikar.
近年、チェルトコーフ・グループに関する対談や回想を公にしているアンドレイ・セルゲーエフ(1933年生まれ)も学生時代には未来派に熱中していた。後のパステルナークの詩学への共感も語っているが、実作においてはチェルトコーフの影響とおぼしきグミリョーフ風のバラードから出発している。彼の詩はのちに哲学的な抒情詩へと変貌をとげ、その試みはザボローツキイの目にとまった。一方、このころから彼は以下のようなハルムス風の詩も書き始めている。(ハルムスのテキストには触れる以前だった)。
路上の歌
小路から小路、通りから通りを
ぼくらはふたりでさまよった。
よもやまばなしの花を咲かせ、
この世のあらゆるものを再構成していった。
敬虔な人生について論じたり、
ブロークやナールプトについて論じた。
ぐるぐる回り道しながら議論を重ねていくと、
暗闇が思索をどんどん深めてくれた。
ところがそれから別れ道に来ると、
ぼくらは分かれ、散らばり、引き離された、
分裂して、原子に分解された
だがそうなって、ようやく、やっと、ぼくらは──
ぼくらは幸福で、賢明になれたのだ、
ぼくらの人生は小路をくぐり抜けていた
Pesnia na ulitse
Pereulkami, perekhodami
My brodili s druz'iami po dvoe.
Govorili o vsiakoi vsiachine,
Vse na svete pereinachivali.
Toskovali o zhizni pravednoi,
Tolkovali o Bloke, Narbute.
Rassuzhdali vokrug da okolo,
Temnota razmyshlen'iam sposobstvovala.
A potom dorogami raznymi
Razoshlis', razbrelis', rastolkalis' my,
Razoshlis', rasshchepilis' na atomy,
A togda-to, togda-to, togda-to my-
My schastlivymi byli, umnymi,
Nasha zhizn' proshla pereulkami.
グループにはこのほか、ルボーク風のグロテスクな詩によって成功をおさめたグリツェンコ、文化史的伝統への羨望から「西欧を理想化するきらいのあった」このグループにあって、「土壌主義的な」立場からグループのモダニズム志向に敵意を隠さなかったシャトローフのような詩人もいたが、グループ最大の詩人であると同時に「モスクワとレニングラードの非公式詩のリーダーとして認められた」(クリヴーリン)「伝説の詩人」として知られるのはクラソヴィーツキイであった。
3. クラソヴィーツキイの詩
クラソヴィーツキイは「《銀の時代》の純度にも劣らぬ若い世代の詩人」としてアンナ・アフマートワが名を挙げた10人の詩人のうちの1人であった。それにもかかわらず、彼は1962年になると詩の創作行為そのものを罪深い行為として断念してしまう。書きためた原稿も破棄した。彼は以後ロシア正教会の聖職者となったが、最近になって再び詩を書き始めたと伝えられている。もっともそれは以前とはまったく趣を異にした宗教詩であるらしい。
クラソヴィーツキイの詩は《アポロン─77》《コフチェーク》等の雑誌や《ブルー・ラグーン現代ロシア詩アンソロジー》(1980)といった少数の出版物に収録されているだけで、近年まで彼の読者はきわめて限られていた。彼は現在も自分自身の過去の作品の公表を拒み、それらが掲載された雑誌には抗議すら行なっている。
クラソヴィーツキイ(1935年モスクワ生まれ)がグループに加わったのは1955年で、当時彼はマヤコフスキイの模倣から抜け出るために自己のスタイルを模索していた。彼がやがてものにしたのは抒情的主人公を極力おもてに出さずにひたすら風景を描くという手法である。《ラトヴィアの風景》と題された連作詩もそのひとつ、冒頭にはつぎの詩が掲げられている。
夜ごと──
空が氷で覆われるころ──
キプリングみたいに猫は公園をうろついている
暗い書斎の奥では
端正な静物画が描かれているらしい。
夜ごと──
空が氷で覆われるころ──
雨が降る。
静寂が破られる。
まくらはみんな眠っている。
息苦しい書斎では
それらしい影も見当たらない
キプリングみたいに猫は公園をうろついている
大地はすでに春の雪を放免し
コテージの犬小屋では
朝が静物画を描いているらしい。
影は森のそばにレリーフさながらに横たわり
枝枝には嵐でひき裂かれた雲がいる
けれども毎日、朝には窓からカーテンをはがそうとするものがいる、
眼から覆いをはがそうとするものがいる。
Po vecheram-
kogda pokryto l'dami nebo-
po-kiplingovski parkom brodit kot-
i kazhetsia, chto v temnom kabinete
risuiut stroinyi natiurmort.
Po vecheram-
kogda pokryto l'dami nebo-
i dozhd' idet.
I narushaet tish'.
Podushki spiat.
I v dushnom kabinete
pod paru teni ne naiti.
Po-kiplingovski parkom brodit kot.
Vesennii sneg uzhe zemlia ne derzhit.
I kazhetsia, chto v konure kottedzha
risuet utro natiurmort.
I barel'efom ten'
U lesa zalegla.
I v vetkakh - oblaka, oborvannye shtormom.
No po utram s okna odergivaiut shtoru.
I pelenu odergivaiut s glaz.
抒情的主人公の隠匿と自然の擬人化はクラソヴィーツキイの詩をパステルナークの詩に近づけている。けれども抒情的主人公の隠匿と自然の擬人化はパステルナークにあっては自然の内部で営まれる生の奇跡(不死の自然)という主題と密接に結びついている。クラソヴィーツキイのこの詩にも同様の主題の反復が見てとれなくもないが、彼の創作を貫いているのはむしろ「静物画」(死せる自然)としての風景、そのグロテスクで表現主義的な描写である。クラソヴィーツキイの詩はその点でオベリウとも繋がっている。ハルムス的な言語遊戯よりも、むしろ初期ザボローツキイの詩集《コラム》の影響を強く受けていることはまちがいない。
クラソヴィーツキイの詩は崩壊、廃墟、荒野、核戦争といった終末のイメージで彩られている。世界がすでに内部崩壊を起こしているという意識。あるいは世界は内部ではすでにずっと以前から廃墟と化しているという意識。それが彼の詩を結果的にはヴヴェヂェンスキイの詩に近づけているともいわれる。しかし、廃墟と化した世界の内部では、彼の詩の主人公はひたすら驚愕し、沈黙するほかない。「沈黙こそがもっとも有意の意味塊となる」(クリヴーリン)からである。
スウェーデン通りの袋小路
スウェーデン通りの袋小路ではパレードは見えない。
見えるものといったらまったくひどい
ばかに大胆な秘密でいっぱいの
男が釘に掛かっているかと思えば、
十字路に立つ門柱に
際限のないシュートを蹴り込んで
ばかに巨大な少年たちが
毎晩ここでサッカーをしたりする。
冬には小さなリンクが出来上がり
曇った氷が
婦人の脚の幻影を
幾度となく みだらに打ち砕いていく様を
だれもがただで見物できる
ここでは雪のかけらさえ、大小あわせて
普通の人間の倍ほどの大きさがある。
それゆえあんたの頭はこのくたびれきった家々の狭間で
ひどく重たそうだ、
窪みのなかの、白々とした無言の空を
最後に一目見ておきたいんだろう
あんたには無用の青空が、
いまさら両眼を裂いたりしないしさ。
ShVEDSKII TUPIK
Parad ne viden v Shvedskom tupike.
A to chto vidno - vse neobychaino.
To chelovek poveshen na kriuke,
Oveiannyi kakoi-to smeloi tainoi.
To zabivaia beskonechnyi gol
V vorota, chto stoiat na perekrestke,
Po vecheram igraiut zdes' v futbol
Kakie-to ogromnye podrostki.
Zimoi zhe zalit malen'kii katok.
I kazhdyi mozhet nabliudat' besplatno
Kak tusklyi led
Viden'ia zhenskikh nog
Lomaet nepristoino,
Mnogokratno.
Snezhinki zhe zdes' bol'she raza v dva
Liudei obychnykh,
I bol'shikh i malykh,
I kazhetsia, chto vasha golova
Tak tiazhela sredi domov ustalykh,
Chto khochetsia vzglianut' v poslednii raz
Na nebo v nishe beloe, nemoe.
Kak khorosho, chto uzh ne rezhet glaz
Nenuzhnoe vam nebo goluboe.
したがって、クラソヴィーツキイはこの点では不条理に不条理で応じたオベリウとは異なる道を歩んだことになる。そして1960年代に入るとクラソヴィーツキイはついに詩を書くことさえ断念するに至るのである。
おわりに
1957年1月にはチェルトコーフが逮捕された。判決は反ソ宣伝による5年間の矯正労働。リーダーのチェルトコーフを失ってグループは消滅に向かった。モスクワの非公式詩の流れは以後、リアノゾヴォに移ることになる。今回触れられなかったレニングラードの非公式詩の動向も含めて、今後さらに調査を続けることとしたい。
非公式ロシア詩年表(1950〜1974)
1952年 12月、レニングラード大学文学部で《未来派デモ行進》が行われ、クラシリニコフ、ミハイロフ放校となる。
1953年 3月、スターリン死去。秋、レニングラード鉱山大でセミョーノフ指導のリト誕生。
1954年 エレンブルク《雪どけ》第1部掲載。モスクワでチェルトコーフのグループ誕生。11月、レニングラードのポリテクニクス大で学生詩の夕べ開催。12月、作家同盟第2回大会。
1955年 レニングラードで大学を拠点とした各種文芸サークルがつぎつぎに誕生。《外国文学》誌、《ユーノスチ》創刊。
1956年 2月、第20回党大会。春、《青年詩人・作家大会》開催。「自由化のピークとなると同時に締め付けが始まる」(ウフリャント)。5月、アイギ、パステルナークを知る。ファジェーエフ自殺。10月、ハンガリー事件。11月、クラシリニコフ逮捕。12月、《コムソモーリスカヤ・プラウダ》紙がレインのセザンヌ論、ボーブィシェフのウフリャント論を載せたレニングラード工科大の壁新聞《文化》を批判、レイン放校となる。
1957年 1月、チェルトコーフ逮捕。イタリアで《ドクトル・ジヴァゴ》刊。
1956年 2月、第20回党大会。春、《青年詩人・作家大会》開催。「自由化のピークとなると同時に締め付けが始まる」(ウフリャント)。5月、アイギ、パステルナークを知る。ファジェーエフ自殺。10月、ハンガリー事件。11月、クラシリニコフ逮捕。12月、《コムソモーリスカヤ・プラウダ》紙がレインのセザンヌ論、ボーブィシェフのウフリャント論を載せたレニングラード工科大の壁新聞《文化》を批判、レイン放校となる。
1957年 1月、チェルトコーフ逮捕。イタリアで《ドクトル・ジヴァゴ》刊。
1958年 3月、アイギ批判。10月、パステルナークにノーベル賞授与。ザボローツキイ死去。このころ、クラソヴィーツキイ断筆する。12月、作家同盟創立大会でアイギ弾劾演説。
1959年 アレクサンドル・ギンズブルグ《シンタクス》刊、サムイズダートの時代のはじまり。9月、レイン、ブロツキイを知る。
1960年 5月、パステルナーク死。アクショーノフ《同期生》。このころよりレイン、定期的にアフマートワを訪ねる。
1961年 第22回党大会。ブコフスキイ《フェニックス61》。
1962年 《新世界》誌に《イワン・デニーソヴィチの一日》。8月、ブロツキイ、アフマートワを訪ねる。ウラジーミル・ソコロフによる《ソビエト教父学のアンソロジー》刊。サプギール詩集《声》。ブコフスキイ逮捕。
1963年
1964年 2月、ブロツキイ裁判。10月、フルシチョフ解任。
1965年 1月、グバノフ、アレイニコフら《スモーク》結成。6月、《コムソモールスカヤ・プラウダ》紙《スモーク》を批判。アレイニコフ、モスクワ大放校。7月、《スフィンクス》刊。9月、シニャフスキイ=ダニエル逮捕。12月、プーシキン広場で(《スモーク》による?)シニャフスキイ=ダニエル裁判反対デモ。
1966年 2月、シニャフスキイ=ダニエル裁判。3月、第23回党大会。スモーク派の裁判。アフマートワ死。8月、チェコ事件。《秘密の自由》世代の登場。「火夫夜警の文化」(クリヴーリン)のはじまり。
1967年 1月、ギンズブルグ、ガランスコフら逮捕。
1968年
1969年 ソルジェニーツィン作家同盟除名。
1970年 このころフセヴォロド・ネクラーソフ、ホーリン、サプギール、サトゥノフスキイ、リモーノフ、リョーンら《コンクレート》結成。《新世界》編集長トワルドフスキイ解任。ソルジェニーツィンにノーベル賞。アロンゾン自殺。
1971年
1972年 ブロツキイ亡命。
1973年 チェルトコーフ亡命。パリで《収容所群島》刊。
1974年 ソルジェニーツィン逮捕、国外追放。第三次亡命時代の始まり。9月、モスクワ郊外野外美術展。11月、《コンチネント》刊。このころよりプリゴフ詩も書き始める。ヤン・サトゥノフスキイ詩集(サムイズダート)。
1979年 エヴゲーニイ・クロピヴニツキイ死去。《メトローポリ》刊。