●ゲニス, アレクサンドル Genis, Aleksandr
「赤いパン──ソビエト権力の料理史」 Krasnyi khleb:Kulinarnaia istoriia sovetskoi vlasti. Znamia, No. 10, 1995.
解説 浦雅春
1.作家について
アレクサンドル・ゲニスについてはピョートル・ワイリとの共著『亡命ロシア料理』(沼野充義、北川和美、守屋愛訳、未知谷刊、1996年)に付された訳者あとがきに詳しいので、ここではポイントを述べるに止める。
現代ロシア文学の評論ではもっとも注目すべき批評家の一人と目される。1953年生まれ。ラトヴィア大学ロシア文学科を卒業、その後ワイリとともにジャーナリストとして活動していたが、1977年にアメリカに移住した。
アメリカに渡ってから、ワイリとの共著という形で矢継ぎ早にロシア文学の評論や文化論に関する著作を発表した。『現代ロシア小説』(1982)、『失われた楽園』(1983)、『亡命ロシア料理』(1987)、『60年代──ソヴィエト人の世界』(1988)、『母語』(1990)、『アメリカーナ』(1991)などの著作がある。
ペレストロイカ以後二人はコンビを解消し、それぞれの道を歩み始めている。90年代に入ってからは、ロシア国内の文芸誌も彼らの評論を掲載するようになった。
なお、1996年には東京大学で開かれた国際シンポジウム「ロシアはどこへ行く?」出席のために来日、「カオスを生きる──ポスト・ソビエト期の散文」と題して講演した。
2.作品について
「赤いパン──ソビエト権力の料理史」
この論文は、ロシアが社会主義政権下にあったソビエト時代をソビエト文明としてとらえ、その文化の構造を食事や食料の表象からとらえかえそうとする試みであると言える。
出発点にあるのはレヴィ=ストロースの構造人類学の考え方であるが、それは以下のことばに集約できるだろう──「それぞれの社会において調理法は一種の言語であり、それはその文化の構造を無意識のうちに露呈している。ひとが食べる食物はそのひとそのものとなる。われわれとはわれわれが食するものであって、それゆえ供される食物の総体,その加工法は自分自身にかかわる個人の表象、コスモスや社会におけるおのれの位置にかかわる表象と密接に結びついている」。
*食料配給
ソビエト史において食料配給の問題は重要な一角を占める。ソルジェニーツィンは、ラー
ゲリにおいてパンを切り分ける係りが生身の権力関係を体現していたことを示したが、一国の規模のなかで生産と消費を媒介し、それを権力の枢要と心得たのが共産党であった。
配給の考え方はフランスの啓蒙思想にさかのぼるが、ソビエト文明はそれを卑俗化し、極限にまで推し進めた。1923年のパンフレット「私的台所を廃止せよ!」では、「人間は生きた機械であり、食物のはその燃料である」と機械論的な人間観を前面に押し出し、事務職2400カロリー、レンガ運搬職8900カロリーなどと職種によって1日のカロリー摂取量を厳密に定めている。
興味深いことにこの食料配給を根本から疑問視する声はあがらなかった。配給量の見直し、改訂を求める声はあっても、その廃絶を求める声は主流とはならなかった。
職種によって最適食事量を定めようという考えの行き着く先にあるのは、カロリーを単位とする一種の「社会の周期律表」を作ろうという夢想だ。その根底あるのは、労働者は交換可能な社会のネジであるという考え方で、機械は食事をしない、餌を与えればよいという思想である。
この配給制度は戦争を契機に国家規模で推進されるようになった。戦争勃発から4日目に配給券が導入され、6200万人が影響を受けた。
配給制度の導入によって国民は有用性によって分類されることになった。そして配給の基準は職種によるのではなく、産業によって定められた。繊維産業を100とすれば、工作機械産業は150というぐあいに。
こうしたヒエラルヒーの導入は学問の分野にもおよび、V.グロスマンの記述によれば、モスクワ物理学研究所の食堂には戦時中に博士や各部門の主任、副主任、上級研究員、一般研究員、職員別の6つのメニューがあった。
このように、配給制度のもとに社会のヒエラルヒーが形作られた。配給は社会主義体制の根幹を成した。
*台所との戦い
ボリシェヴィキ政権は革命の当初から台所の廃絶をめざした。ルナチャルスキーがいうように、革命は「兄弟的結びつき(bratstovo)」をめざすものであり、労働者は共同住宅のなかで共同生活を送るべきであるとされた。家庭は古いブルジョア社会の残滓であり、廃絶されるべきものであった。そうした考えの背景には、当時の革命家たちのなかに広く見られる、女性的なるもの、生活における肉体的なるものにたいする不信を見逃すわけにはいかない。台所は肉体的・物質的に下層なものでしかなかった。
それがために当時の建物には台所がないケースが多い。建築家イオファンが設計した政府公舎の住居の多くには台所がない。
労働者が暮らす共同住宅は共同の炊事場を基本とし、各戸には炊事場が設けられなかった。旧来の賃貸住宅や金持ちの離れが共同住宅に転用され、21年に556棟であった共同住宅の数は23年には1000棟、共同住宅に生活する人間の数は10万人にのぼった。
1923年にはじまった「人民食堂(Narodnoe pitanie)」の設立も台所の追放の一環であった。そこには大規模な工場のような調理場が設けられた。ロストフの人民食堂は一度に3000人分、100ガロンのシチューを賄った。モスクワだけでも23年に10カ所にのぼる同種の施設が設立され、1万2000人分の食事を提供した。それだけでなく、工場にも大規模な食堂が設置された。強大な食堂に設けられた巨大なテーブル、そこで食事をする労働者の群、それは「プロレタリア的ミサ」と称しうるものだ。
「プロレタリア的ミサ」は家庭から独立した新たな階級的な結びつき、連帯を生み出した。工場付属の食堂はソビエト社会の生活の中心を家庭から工場に移行させ、家庭の「代用」の位置に上りつめたのである。
*ユートピア的メニュー
ソビエト型ユートピアは食事に関して冷淡であることをその特色としていた。これはソビエト型社会主義がトマス・モアやカンパネッラらの都市型ユートピアを理想としていたことと無関係ではない。農村に冷たく、農村のイディオチズムに不信を募らせていた。ソビエト型ユートピアにグルメのモチーフが欠けているのもそのためだ。
ボグダーノフのSF小説『赤い星』で食事のことが言及されるのはたった一度にすぎないし、美食家であったA.トルストイが『アエリータ』のなかでは殆ど食事のテーマを扱っていないのも特徴的だ。
唯一の例外はチャヤーノフの『農民ユートピア国旅行記』で、ここでは勝利した農民党が都市を破壊し、国を一個の巨大な農村に変貌させている。これにともなって料理の記述は詳細をきわめる。
ユニークなのは未来派の立場だ。文学運動のなかで調理場の改造を真剣に考え、料理本の出版を真面目に考えたのは未来派だけだ。マリネッティを指導者にいただくイタリアの未来派はウルバニストらしい趣向をこらした料理を考案し、1930年には未来派の一大ディナー・パーティを挙行した。
これにたいしてロシアの未来派の料理革命は殆ど紙の上だけの夢想に終わった。湖をまるごと煮立たせてシチューを作るフレーブニコフの構想や、セヴェリャーニンの百合から作るシャンパン、ザボロツキーの分子のシチュー、アレクサンドル・グリーンが掲げる奇妙なメニュー、パステルナークの勧める未来派風カクテルなどの例。
ソビエト時代の食事のユートピアを体現したのは何版も版を重ねた料理本『美味で健康的な食事』だろう。これはソビエトのライフ・スタイルの百科事典と称しうるもので、そこでは調理法がレピシに従った世界改造の比喩とみごとに符合している。同書は料理本である性質上、徹底して教訓的なスタイルに貫かれ、つねに読者にたいして命令法で書かれている。それは一見ゴスプランの計画を思わせるものだ。
同書の隠された主人公はソ連邦そのものであるといってよい。図版のなかで目立つように配置されているのは各種の製品の製造工場をあらわすラベルだ。すべての食料は国家に属すことを、暗に告げているのである。400ページにのぼるこの本のなかで一度も私的市場に言及がないのも意味深長である。
*ソビエト型静物
料理に冷淡な反面、広く普及したのは食べられない、すなわち張りぼての料理だ。静物(ナチュール・モルト)の絵画、写真、彫刻、建築は社会主義文化を構成する重要な要素だ。
ソビエト式静物の原型は革命前の絵看板にさかのぼる。肉屋の入り口には巨大な牛を模した看板が掲げられ、魚屋の店先にはイクラの入った樽が吊してあった。移動派の画家たちはこの絵看板の意義を掴みそこなった。都市の景観の重要な要素として絵看板を再評価したのは未来派だった。マヤコフスキーの初期の叙情詩には看板に表示された料理につながるモチーフが多く見られるし、ダヴィド・ブルリュークは絵看板の保護を訴えた。しかし、この訴えは聞き届けられず、多くの古い絵看板は撤去され、それに代わって登場したのが「肉」「牛乳」「野菜」と表示されるだけの文字看板となった。ロシアの都市景観の言語化(verbalization)はここにはじまる。
だが絵看板の文化はこれで潰えたわけではない。それはスターリン芸術の基底を形作る豊饒のイメージとして甦った。ソビエト農業の成果を謳歌するように市場や駅や公共機関の建物を飾った数々の静物やフレスコ、モザイクがそれだ。絵画のなかでは独特な「バンケット・ジャンル」が成立した。映画においても『クバンのコサック』に見られるように、豊饒性が謳歌された。
こうした関連で見逃せないのは、文化のベジタリアン的嗜好だ。一種独特なベジタリアン的社会主義というものが成立していた。エデンの園、天国としての庭園、反都市としての庭園というモチーフがマヤコフスキーにも見られる。
成熟した社会主義のイコノグラフィーとしてはクリスタルの器に盛られた溢れんばかりの果物が、写真や映画や絵画に繰り返しあらわれる。しかしそれらは決して食用のものではない。こうした食用ではない、張りぼての果物を盛った器こそ、ソビエトの豊かさと幸せを象徴する図像となったのである。
3.コメント
ワイリとゲニスの共著を紹介するなら、まず浩瀚な『60年代論』を取り上げるべきだろうが、今回は比較的近年に書かれたもののなかからゲニスのものを選んだ。共著の時代から二人がどのように書き分けていたのかは不明であったが、二人が別れて書くようになってからのそれぞれの論文を読んでみると、才気煥発な部分、意表を衝いた論の展開などの多くはゲニスに負うのではないかと推測される。
ここに紹介した「赤いパン」を見ても、そのブリリアントな才能を垣間見ることができるだろう。わずか数ページに満たない論文だが、料理や調理、食事のあり方といった側面からソビエト文明が有した特異な性質が浮き彫りにされているばかりか、今後ソビエト文明というものを考えていく上での貴重なヒントがひそめられているように思える。たとえば、ほんの駆け足でふれられているにすぎないソビエト社会主義はベジタリアン的志向を持っていたのではないかという指摘などもその一つだろう。
「ロシア的なるもの」というイデオロギーに深く染まった考えを解きほぐしてくれる彼の柔軟な思考は、同じく亡命者でユニークなソビエト文化論を展開するウラジーミル・パペルヌイらと同様、新たなロシア文化論のさきがけとなっている。