●エプシュテイン, ミハイル Epshtein, Mikhail
『新興宗教』あとがき「思想のコメディ」Komediia idei iz <NOVOE SEKTANSTVO>. 1994.
解説 井桁貞義
1.作家について
ミハイル・エプシュテイン:モスクワ在住、文学研究者、エッセイスト、哲学者。
『新奇なるもののパラドクス. 19世紀20世紀文学の発達について』(1988)
『自然、世界、宇宙の隠れ家. ロシア詩における風景イメージのシステム』(1990)
『全体主義的思考における相関的モデル. ソヴィエト・イデオロギーの言語の研究』(英語、1991)
『父性. 小説エッセイ』(ドイツ語、1990、ロシア語、1992)
『偉大なるソーフィ. 哲学的神話学的ルポルタージュ』(1994)
『信仰とイメージ. 20世紀ロシア文化における宗教的無意識』(1994)
2.作品について
ミハイル・エプシュテイン 『新興宗教』
モスクワで刊行されたこの本の主要部分は、1985年、かつてのソ連無神論研究所の内部資料として刊行されたハンドブックである。
無神論研究所は1975年、79年、83年にソ連内部に存在する諸セクトに関するフィールドワークをおこなっている。ハンドブックはセクトの教祖の理論を多くは引用(教典の筆者はここではイニシャルのみで表記されている)によって紹介しながら、「科学の世紀であるはずの20世紀にソ連に生まれ、育ってしまったこれらの教義に対してマルクス主義宗教学は有効な反撃を加えることができるだろうか」と懐疑的に語る。それへの処方を考える前に、いまは実態の知られていないこの現象について、事実をまとめておこう、として、6派、計17のセクトを概観している(その内容については「読売新聞1995年6月13日付「FOREIGN BOOKS」欄などを参照)。
エプシュテインの「あとがき、思想のコメディ」はこの資料に付けられたもの。資料が百科事典ふうに配列されていることから、これは新しい文学形式の萌芽ではないか、と問いかけている。
「あとがき」の構成は
1. 思想の世紀
2. Pars pro toto
3. いくつのイデオロギーが可能か?
4. イデオソフィア(神学的な、非完結のイデオロギー、の意)
5. 第3のコメディ
6. ジャンルとしての百科事典
このうちここに訳出したのは5および6節、分量では全体の約3分の1ほどになる。(文中「この書物」とあるのは資料を指したものである。)
これは文学作品ではないが、(1)ソ連型社会主義社会におけるイデオロギーの位置についての興味深い観察が見られて、重点領域研究の目的に合致する。(2)大きな視野を持った透徹した現代文学論として評価できる。(3)現在もっとも活躍しているロシアの文芸評論家の一人であるエプシュテインの仕事を追う出発点となる、という三つの考えから選んでみた。
3.あとがき抄訳
* * *
ポール・ヴァレリイはダンテの『神曲(神の喜劇)』とバルザックの『人間喜劇』に触れながら、第3の知的な喜劇の書かれるべき時代が来たと言っている。そこでは人間の思考の冒険や変化が描かれることになるだろうと。
ダンテやバルザックを考えるとき、喜劇があらゆるジャンルのうちでいちばんモニュメンタルなものだということが分かる。それが書かれるのは作者の意図というよりは社会の状況によってなのだ。社会は作者に書き取らせる。作者は社会の文学的書記のようになってしまう。どんな社会であるかによってどんな喜劇が書かれるかが決まるのだ。
ヴァレリイはついに第3の喜劇を書くことができなかった。彼はまだバルザック型の社会に生きていたから。そこではあらゆる出来事の原動力は人間たちであり、社会のなかでの彼らの性格や情熱、利害が問題の中心になる。同じように、ダンテが生きたのはキリスト教の信仰によって人々が固く結び合っている社会であり、そこで原動力となっていたのは神の啓示であり、地上の罪深い生活から輝く水晶のような天国の空までの道が示されていたのだった。
『神の喜劇』は中世封建制の必然的な表現であり、『人間喜劇』は個人的な利害がうごめくブルジョア社会の表現であった。そして書かれたのはこうした点にもっともよく対応した社会的精神的な意味で好例となる社会においてである。すなわちルネサンス直前のイタリアと、革命直後のフランス。 社会の第3のタイプ、いわゆる社会主義的なもののモデルとなるのは10月革命後のロシアだろう。ここでこそ社会の基礎を形成する新たな原動力の活動が顕在化したのである。それは思想の活動だ。思想は革命を成し遂げ、国内戦を導き、工場を建設した。しかしそれは物質的な生産物のためではなく、思想そのものの生産性を確認するためのものだった。社会主義とは、前もって作られた計画、それも思想に合致した計画によって生み出された唯一の社会である。それらの思想は思想家たち、基礎を作った人々の考えのなかで生まれたものである。これはかつて地上に存在した社会のうちもっとも思弁的で頭でこしらえあげられた社会である。社会主義、それは神のいない、物のない社会であり、宗教的にも物質的にも貧しい。そのかわり強烈にイデオロギッシュであり、ただ思想のうえにだけ建っている。最高の思想の王国でありそれらの思想は自分を統治する、自身の名において統治する。指導者はただ思想が人格化したものに過ぎない。
封建社会やブルジョア社会の根幹となっていたものがここでは権威や現実性を失っている。神との緊張した意識的な闘いが行われる。神というよりは神についての思想との闘いというほうがあたっているだろう。神の存在そのものは否定されているのだから。充足との闘いも同様。物質的な贅沢、その必要性さえ消え失せている。いずれにせよ、人々の上に君臨している現実レアリテは、ただ思想だけだ。思想以外のものはすべてリアリティを喪失する。思想は来世の生活を救ってはくれないし、現世で空腹を満たしてはくれない。しかし正しく生きた生、無駄にならなかった死という感覚は与えてくれるのである。
そこで第3の喜劇はどうしても社会主義社会の意識から生まれでなければならない。この社会の内的な原動力は神の意志でも個人の利害でもなく、思想である。思想にこそ巨大な人間集団の信仰も情熱も集中している。社会主義社会の生活のすべては「神的なるもの」のまわりにでも「人間的なるもの」のまわりにでもなく、何か第3のまわりを巡っているといっていい。これをどう呼ぶかはまだわからない。しかし何か「思想的なるもの」であり、思想に依った生だ。
神から失墜し、ただ人間の法にのみ従って生きる罪の生活は笑うべきもの、恐ろしいもの、最高の意味で喜劇的だ。同様に物への情熱にとらわれ、人間的なものすべてから外れてしまい、物質的世界の法に従って生きる生も喜劇的である。ダンテの、またバルザックの世界の人々がこれだ。ボントゥーロ、ウゴリノ、グランデ、ヴォートラン、ラスティニャック……第3の喜劇の登場人物たちはあるいはまったく固有名詞をもたないかもしれない。思想が具体的な人間から抽象されるようにイニシャルでよいかもしれない。神からの失墜、人間からの失墜がどれほど喜劇的であろうと、思想はもっと喜劇的かもしれない。そのなかでは人間は本質的なものすべてから、自分自身からも失墜してしまうのだから。
思想はすべてを約束し、すべてを奪う。これほどに喜劇的なものはない。
この意味でコメディアは内容そのもののジャンル規定であり、このジャンルはまったく多様な、時代に条件づけられたそれぞれのジャンル形式において実現される。『神のコメディ』は叙事詩のジャンルで実現された。描かれるものそれ自体、魂の上昇、神への接近、融合、がこのジャンルを要求したのだった。『人間喜劇』は基本的に長編小説のシリーズとして実現している。このジャンルの定義は個人の運命に集中する、ということであるから。個人はここで至高の意志との統一ではなく、外的状況との闘争の中で描かれる。
それでは第3の喜劇はいかなる形式が適しているのだろうか?
叙事詩が神の高みを描き、長編小説が人間の深みを描くように、百科事典は思想の世界の多様性の広さを描くことができるだろう。ダンテの叙事詩は永遠の時間において3つの空間を描いている。バルザックの長編は歴史的な時間のなかで人の行為や事件の時間的契機に従うプロット構成のなかに描かれている。では第3の喜劇はどうか。これは時間外の、空間外の連続体においてのみ展開されうる。そこに存在するのは共存し、互いにコミュニケーションし合う思想である。いかなる空間的な配置ももたず、時間的な順次性もなく、ただ参照と引用、思想的な近親性と相互否定性という手段でのみ交換し合う。一度に存在し互いに接触し合う思想たちの知的な連続体、もはや百科事典である。
収集し保存し、一般に認められた知識と解釈を展示するジャンルとして、これは社会主義社会ではたいへん好まれたジャンルである。この社会の超歴史性に答えるものだった。思想の王国に時間は存在せず、王国は独りで存在し、ボックスやカタログに配置されている。そこでは社会が存在してよいと判断した思想たちが互いに引用し合っている。誰が書いたかは意味をもたず、百科事典が権威の高いものであればあるほど、書き手の名前は省略される。個人が思想の責任を負うのではなく、思想が個人たちの指導を請け負うのだから。
認められ歓迎されるものの領域ばかりでなく、敵対的な思想についても引用という方法はうまく働いている。小さな抜粋に切り詰め、それを権威ある正しいコメンタリイで覆ってしまうというふうに。テクストを好きなだけの断片にバラバラにし、それぞれの意味の上に君臨する。批判的、無神論的、宣伝的書物の全体から読者が受けるのは屑篭のなかの引用ゴミの印象だけだ。書き手の名前も無意味なものとなる。とりあえずの符合、正しくない見解の人格化した記号にすぎない。無神論の書物のあるものでは、著名な信者の名前がイニシャルにまで切り詰められている。
そこでこの書物の著者も、百科事典の編者の役割を演じているわけだが、選定したテクストを引用まで縮めて、同時に推測される書き手の名前をイニシャルにしてしまっている。イニシャルとは名前の引用だ。このことによって全体が思想と概念の代数的遊戯の印象に包まれる。誰によって、いつ、どこで書かれて、なぜそう言われたのか、といった具体性は霧散してしまう。文化の殺菌消毒された宇宙が作られる。あらゆる歴史や伝記の枠を超えたアルファベットのように明らかでしかも謎めいた宇宙だ。
社会主義社会での百科事典の理想は、事実の記録と展示といった狭い意味のものではない。記憶の機能はもはやコンピュータに分与される。写真が出現することで絵画が写実から解放され、印象主義やヒュビズムが可能になったと同様、コンピュータと電子記憶の時代には百科事典は情報記憶者としての役割から解放される。多様な知的スタイルの自由な変容、変換というかつてなかった可能性が現れた。どんなファンタスティックなものであるにせよ思想や事実を、なんらかの形で結合するという本質的な機能のみが要求されるのである。同じ項目を、対立的な手法で示す複数の百科事典が可能である。印象主義的な、抽象絵画的な、シュールレアリズム的な、実存主義的な、構造主義的な。コンセプチュアリズムのスタイルで、グロテスクな社会主義的世界観の形式でも。
社会主義社会において思考のタイプが深く引用的で、匿名的なものであるから、思想のコメディに対して百科事典のジャンル形式を取ることは完全に自然だ。しかしこうした方法を取ることは情報を伝えるため、狭い意味で百科事典的なものを作るためではない。目的は、このジャンルの手法を利用して思想のコメディを創造することである。このコメディはユーラシアの広大な舞台で演じられているものであり、いまのところオフィシャルなイデオロギーの舞台裏に隠されている。このオフィシャルなイデオロギーには社会主義的多数主義の精神のもと、もはやマルクス主義ばかりでなく、「リベラリズム」「テクノクラチズム」「デモクラチズム」「エコロギズム」「コンセルバチズム」「土壌主義」「西欧派」などを含めることができる。これらの不器用に表現された公認政治イデオロギーの蔭で、もっと繊細な、定着しがたい、奇妙な、集合的無意識の底から浮かび上がってくる思想たちのコメディが演じられているのだ。いや私たちの頭の中では、あるいは胸の中かもしれないが、いまだ黙している数百、数千のイデオロギーが存在しているに違いない。
読者の前には狂気の思想の集積がある。誰もがそれらのどれにも自分に近しいものを、極端なかたちではあれ、見いだすだろう。
モスクワ 1984〜1988