●チュラキ, ミハイル Chulaki, Mikhail
「カローン」(『ネヴァ』1997.1-2) Kharon. Neva, No. 1-2, 1997.
解説 望月哲男
1.作家について
Mikhail Mikhailovich Chulaki:1941年生まれ。医者・作家。ペテルブルグ在住。
主な作品
Tenor. Roman. Neva, No. 10, 11, 1979.
Chetyre portreta. Povest'. Neva, No. 5, 1981.
Proshchai, zelenaia Priazhka. Povest'. Neva, No. 6, 7, 1987.
Prazdnik pokhoron. Povest'. Neva, No. 2, 1990.
Anabasis. Povest'. Neva, No. 4, 1992.
Troim Dement'evich i drugie tovarishchi. Istorii, zapisannye so slov Trofima Dement'evicha Seliavenka. Neva, No. 5-6, 1994.
Kremlevskii amur, ili Ne obychainoe prikliuchenie vtorogo prezidenta Rosii. Neva, No. 1, 1995.
Sed'maia Tetrad'/ Kto skazat' 《mat'》?. Neva, No. 9, 1991.
Vechnaia Tema/ Bog est'? Boga net!. Neva, No. 7, 1993.
Kamo griadeshi/ Deviataia dolia. Neva, No. 6, 1995.
2.作品について
Kharon(peterburgskii roman). Neva, No. 1-2, 1997.
1)構成
30章からなる長編小説。物語の主舞台は現代ペテルブルグ。主人公は腫瘍学を専門とする医師で、外国の支援によりペテルブルグにホスピスを開いている。
作品世界はおおむね3つの層に分かれている。すなわちホスピスを中心とした主人公の社会生活、共同住宅での私生活、そして現実の代償となっているような彼の空想裡の生活である。最後のものは第 1〜第 11 のラプソディと題されて、作品に挿入されている。
物語の時間は、主人公の休暇をはさんだ夏の数カ月間である。
2)物語
a)ホスピスの医師
主人公エゴール・ウラジーミロヴィチ・サヴィッチは腫瘍学から死の科学(タナトロジー)へというコースをたどった医者で、末期の癌患者の苦痛をやわらげるホスピスの活動に使命感を持っている。その根本思想は「死を難しいものにしなければ、死ぬことは難しくない」「病気は人生の伴侶であり、妻を選ぶように慎重に選ぶべきである」「死の恐怖とは恐怖の喪失の恐怖だ」といった逆説的なアフォリズムによって表現される。彼によれば、ホスピスは死との和解を教え、限られた時間における充実した生を実現するべき場所である。
彼の病院経営は、理念においてきわめてリベラルな、患者本位のものである。すなわち彼は死んでいく患者たちが最後の時間を十全に生きることができるように、病室を自由な個室の雰囲気にし、患者に病状を伝え、飲食や家族の訪問を自由化し、患者同士の交際や患者と看護婦の恋愛といったものにも、最大限に寛容であろうとする(このリベラリズムは一部の保守的なスタッフの疑念を誘っている)。一方で彼は患者を苦しめるだけの治療や手術、新薬の開発といったことに懐疑的であり、また魂の永世や来世のイメージによって死ぬ者を慰めようとする宗教にも敵対的である(このこともまた同僚との論争の種になっている)。彼は自分の患者と密に接し、その死にできる限り立ち会い、また希望する同僚患者をともに立ち会わせるといった態度によって、患者たちの間で大きな信頼を得ている。日中の彼は、こうした個別的「医療」行為と、病院の経営とに忙殺される、一人の誠実な医者である。
b)コムナリナヤな日常生活
しかし「ロシアの良心」の代表者の一人として世間的に有名なこの人物の素顔は、人生の瑣事に翻弄される小心な俗物である。
彼は例えば自分の容姿や運動神経に劣等感を抱き、とりわけ弱視のために運転免許がとれないことを、男性としての致命的欠陥と感じている。
彼は、その地位や名声とはアンバランスなペテルブルグのコムナリナヤ・クヴァルティーラ(一軒の区画に数世帯が同居するアパート)に妻と飼い猫とともに暮らしているが、その私生活は卑俗なスキャンダルの連続である。すなわち隣室の女所帯の長女が、アルコール性のせんもう症でたえず妹を追いかけて騒ぎを起こしたり、電話やトイレにプライヴァシーがなかったりといった事柄である。
だが彼の悩みの中心は妻のクララである。彼女は区の戸籍課を退職した女性だが、若い頃からアマチュア劇団の女優をしていて、いまだに20歳代の体型を維持している。彼女は医師との凡庸な生活に本来の自分の可能性を圧殺されてしまったと感じているらしく、その根元的な不満が彼女の言動の全てに、屈折した夫いびりのニュアンスをつけ加えている。例えば彼女は帰宅した夫に、夕食はもうほとんど用意できているという。夫はテーブルを整えて待つ。しかし実際に夕食が出るのは1時間後である。この間彼女は台所と食卓を往復して、自分がいかに手早く、安価で栄養価の高い夕食を(自分には食欲もないのに)夫に提供しているかを説明する。夫はその間、下品で罪深い食欲を抱えて、ひたすら待っていなければならない。最後にフライパンの料理を台所に取りに行かされて戻った夫は、生野菜も同時に持ってくるほど気が利かない、と非難される。
あるいは日々の買い物の金を夫が渡そうとすると、彼女はいつも拒否する。自分にはなにもいらないし、持っていれば使ってしまうからといった理由である。夫はいずれにせよ必要な金を、妻が要求しているからではないということを確認した上で、無理矢理渡さなければならない。
妻の意識では、彼女は夫に嫌がらせをしているわけではない。ただ自らがいかに無私無欲な自己犠牲の主体であるか、そしてその努力が気の利かない凡人の夫によっていかに無視されているかということを、繰り返し確認しているのである。
C)帝国の夢
サヴィッチのアンバランスな日常生活の代償となっているのが、彼が入眠前に継続的に体験する幻想である。
この幻想世界では、彼は太古の原大陸ゴンドワナの名前を冠した帝国の皇帝である。彼は画期的な熱核燃料装置の開発によって一挙に世界のエネルギー市場を支配した大富豪・皇帝として、世界の政治に影響力を及ぼしている。その帝国の本拠地は大西洋の島だが、ポセイドンと名づけられた巨大帆船と最新の交通・通信手段によって、帝国は事実上世界に遍在しているのである。
この代償夢の論理は、近代の科学技術的ユートピア志向の定型と、幼児的な願望充足志向をつなぎ合わせたようなものとなっている。すなわち一方にテクノロジーやスピードの崇拝、合理主義、自然超克の志向といったイデオロギー素が、他方に単純な支配欲、名声欲、自己の判断の絶対化、メガロマニア、自ら傷つくことのない暴力志向、のぞき見志向、胎内回帰的閉所志向といった心理学的「症状」が散見される。夢の主人公はクリントン、エリツィン、メージャー、サプチャクなどと会見して政策談議をしながら、閉ざされた島や船の中で、世界に広がる自らの名声を楽しんでいる。彼は提言・相談する者ではなく、決定し、宣言する暴君である。
この夢想は、コスミズム的な宇宙改造論と神聖政治のイデーを結合した、ユートピア的物語に発展していく。自らを神の如き立場に置いたサヴィッチ皇帝は、テクノロジーによる悪の物理的なせん滅と人口の調節という事業にとりかかる。すなわち彼は全世界に邪悪な意志を察知するセンサー網を張り巡らし、邪心を抱いた人間の脳を衝撃波によって破壊するという挙に出る。一方で彼は、人類の将来を脅かす人口増の問題を解決するために、すでに子を生んだ女性、堕胎や悪性の病気を経験した女性が不妊となるウイルスを世界にばらまく。こうした「ヘラクレス的功業」によって、やがて地球は完全に「浄化」される。
この夢の結末は神話的である。すなわち地上でなすべきことを成し遂げた皇帝は、快適な居住性をもつ巨大宇宙船ヘリオス号に愛猫とともに乗り込み、11兆年の時空の彼方にある別の星雲に地球の生命を伝えるために飛び立つのである。
D)主人公の試練
以上の夢物語と並行して展開する主人公の日常生活は、総じて死との和解による主体性や平静さの獲得という彼の理念の抽象性、非現実性が、体験的レベルで暴かれてゆくプロセスとなっている。その試練は、様々な死や暴力という形で現れる。
最大の事件のひとつは、主人公が学生時代から憧れ、生涯プラトニックな愛の対象としてきた女医のレーナが、末期の癌におかされていることが明らかになることである。おまけに主人公は、彼女がすでに10年前から自分の症状を自覚していて、薬草と自らの意志力で病気の進行を押さえながら、医者として働いてきたのだということを知らされる。自らの秘かな生き甲斐となってきた存在の死の予感にショックを受けた主人公は、彼女の夫の依頼もあって、彼女に手術を勧めることになる。これは彼の信条の自己否定である。そうした彼に対して、彼女は彼のホスピスの理念を正面から批判してみせる。すなわち死と和解するだけの受動的なホスピスではなく、彼女自身のように自らの意志で癌と闘う人々を激励するホスピスが必要だというのである。彼女は結局治療を受けるいとまもなく死んでゆく。
同時期に彼はもう一つ愛する者の喪失を経験する。世界でもっとも親しい存在であった飼い猫のタラカーシャが、休暇でカフカスへ出かけている間に預けた動物保護施設から失踪してしまったのである。主人公はこの事件にうろたえ、捜しまくり、様々な可能性を推測し、寄る辺なきものを見捨てた自分を責める(保護所に預けるのはもともと妻の発案だったにも関わらず、妻はいつもの伝で夫の不明を批判するのみである)。
この間に彼は夫婦関係の破局をも経験する。カフカスの山中で道に迷った彼を非難する妻の言動に、彼は根本的な精神の卑しさを見出し、帰途にほとんど妻を殺害する寸前までゆく。そしてその後、相手に精神的離婚を宣言するのである。
こうした身辺の事件に加えて、物語はにわかにやるせない、殺伐とした事件に満たされてゆく。隣人のアルコール中毒の女性は、ついにせんもう状態で妹を殺害してしまう。同僚の信頼を集めていたホスピスの患者の一人は、自らを誤診した町医者の目に酸をかけて復讐する。若い女性患者は自らの運命を呪って死んでゆく。看護婦の一人が患者と同衾しているところを見つけられ、これがきっかけとなって二人の看護婦がホスピスを辞めてゆく。
空想中の神の如き皇帝とは違って、死や喪失に取り囲まれた現実の主人公は、何一つ予測することも解決することもできない。彼はチェーホフの主人公のように、後悔とも失望ともつかぬ、出口のない憂鬱に浸り込んでゆく。
e)結末
物語の結末は、とってつけたような冒険談となっている。ある日曜の朝、主人公は死んだ患者が秘かに残したパスポートを持って駅に向かい、最初の汽車に乗る。これは過去も未来もない生活への旅、シンボリックな自殺行、自分からの逃避の旅である。だがクリミアの保養地に着いた彼は、その日のうちに水浴中にパスポートも着衣も失ってしまい、あやしげなカフカスの山地人の一団におかかえ医師として保護される。こうして「カフカスの虜囚」となった彼は、やがてグループの若い娘との結婚を強要され、その晩、麻酔薬を打って自殺する。
3.コメント
作中には一連の悪趣味な語呂合わせが遍在している。
例えばラーク(癌)という語根を苗字に持つホスピスの医局員ラーコワは、面接時に「こんな苗字を持っていたら、癌の患者を助けるか、それとも自分が癌で死ぬしかありませんわ。選ぶとしたら最初の方ですからね」と言う。
またあるとき主人公は地下鉄の中で急に<constipation>という英語の単語を思い浮かべ、なんとなくそれが「コンスティトゥーツィヤ(憲法)」と関係しているように感じる。家で辞書を引いた彼は、その単語が「便秘」を意味していると知る。そしてその晩、隣人のアル中女性の母親との対話中に、彼は相手の論理が「思考の便秘」を体現しているという感想を抱く。
こうした駄洒落的、スキゾフレニー的な言葉の展開は、作品の論理をひとつの方向に深めてゆくよりも、ある浅いレベルで拡散させてしまう効果を持つ。
この一方で、作中には一種のパラノイア的言説が存在している。自らの生理的兆候を全て癌の兆候と見てしまう癌ノイローゼの看護婦の言葉、何事に際しても自らの無私無欲と夫の不明・罪を証明してしまう主人公の妻の言説などがそれである。
こうした言説の二重構造は、主人公の内にも存在する。彼は一方であらゆる事件に際してしつこく自分を責める(もしもレーナと強引に結婚していたら、もしも別の形のホスピスを作っていたら、彼女は死ななかったかも知れない。もしも猫を別人に預けていたら、もしも旅行に行かなかったら、もしも怪我をせずに予定どおり帰っていたら、猫は死ななかったかも知れない…)。しかしこうした反省は、未来に指針を与えるものではなく、むしろ因果を設定すること自体に慰安を求める自己治療行為である。従って責任の主体はやすやすと他者にも転嫁される。すなわち雑居アパートが彼の人生を歪めたのであり、弱視が正常な男性としての能力を奪ったのであり、そもそも世間が彼の人生を邪魔したのである(「世界の全体が、ひとつの巨大な雑居アパートではないか」)。
このような思考の堂々巡り(いわば思考の便秘と思考の下痢)の中に、ロシア文学に関連する様々なモチーフが散りばめられている。癒すことのできぬ医者や成熟できない大人に関するチェーホフ的テーマ、罪の主体と罰の主体に関するドストエフスキー的テーマ、夫婦の論理の食い違いに関するトルストイ的テーマ、合理主義的社会改造に関するチェルヌイシェフスキー的テーマなど。こうしたロシア文学的主題が、この分裂した言説空間において換骨奪胎・卑俗化をこうむり、それが結果として世紀末的な論理の喪失、自己喪失、軽薄さの表現となっていることが感じられる。
患者アヴェーリンと主人公の間の次のような対話は、憂鬱な世紀末の雰囲気を伝えている。
「やがて4つの数字が一度に変わりますよ」
「なんですって」
「例えば94年が95年になっても、変わるのは下の1桁だけでしょう。十年期で下2桁、世紀の変わり目で3桁ですが、最初の千の位は千年間も変化しない。ところが1999年が2000年になると、4桁全部変わるのです…」
「私たちはどうもシンボルに意味を与えすぎますな。おっしゃるように4桁全部が変わったところで、われわれは失望するだけでしょう。『新世紀だって? 新しい千年期だって? 何もかも前と同じじゃないか』ってね」
「おっしゃるとおりです! 私も経験で分かります。自分の過去を見ればね。人生とはこれ失望の連続です。なんでも全て無駄のようなものですからね」