●ブイダ, ユーリー Buida, Iurii
「ドン・ドミノ」 Don Domino. Oktiabr', No. 2, 1993.
解説 浦 雅春
1. 作家について
ブイダという名が知られるようになったのは、94年のロシア・ブッカー賞にその作品がノミネートされたのがきっかけだろう。オクジャワやスラポフスキーらの作品にまじって彼の『ドン・ドミノ』は最終選考の6作品のなかに残った。惜しくも受賞には至らなかったが、その名は一躍注目されるようになった。
詳しい経歴はよくわからない。生まれは1954(?) 年。20歳台で作品を書き始めたが、作品を発表してくれる雑誌や出版社はなかった。こうして売れない下積みの生活が15年以上にもわたってつづいた。その間、「農業新聞」の記者をして生活を支えたといわれる。当時の生活を伝える興味深いエピソードが残されている。それによると、29歳の頃、彼はすでに数編の長編小説を完成させていて、ある出版社と出版の約束まで取り交わしていた。この計画は最終段階まで行きながら実現には至らず、原稿は暖炉にくべられ燃却された。「燃え尽きる原稿」──殆ど創作ではないかと思われるこの逸話によってブイダは、ロシア文学の伝統に巧妙につながっているといえようか。
本格的デビューは1991年。この年、アレクサンドル・ミハイロフ、アンドレイ・ビートフ、エヴゲーニー・ポポフらが主宰する文芸誌「ソロ」に彼の作品が初めて掲載された(作品については下記を参照)。37歳のときであった。その後、彼の作品は雑誌「オクチャーブリ」を中心に、最近では「ズナーミャ」にも掲載されるようになった。本人の言い方によれば、ブイダという作家が受け入れられるようになったのは、「卑猥な言葉を駆使しない作家で、ただ<自分のこと>を書いて、それに関心が寄せられるようになった」ためだろうという。
主な作品(確認できた作品のみ):
Liudi na ostrove. Solo, No. 4, 1991.
Tretii. Solo, No. 4, 1991.
NSTsDTChNDSI. Solo, No. 4, 1991.
Eva Eva. Oktiabr', No. 2, 1993.
Rita Shmidt Kto Ugodno. Oktiabr', No. 2, 1993.
Don Domino. Oktiabr', No. 9, 1993.
Ataliia. Volga, No. 11, 1993.
Appendektomiia. Volga, No. 11, 1993.
Kak liudi. Volga, No. 11, 1993.
Chert i aptekar'. Volga, No. 11, 1993.
Vilinut iz Viliputii. Oktiabr', No. 1, 1994.
Veselaia Gerdruda. Znamia, No. 3, 1994.
Odnazhdy i bol'she ni razu. Oktiabr', No. 5, 1994.
Po imeni Lev. Oktiabr', No. 5, 1994.
Iastoboi. Znamia, No. 5, 1995.
2. 作品について
その所在もはっきりしないとある鉄道の駅。この駅で働いていた作業員たちは、ある者は死に、ある者は去っていくという状態のなかでいまやもぬけの殻である。最後に残った老婆のフィーラもその息子イーゴリとこの駅を後にすることになった。40余年彼女と一緒に苦楽をともにしてきた主人公イワン・アルダビエフ(ドミノ遊びが好きで、ドン・ドミノとあだ名される)ただ一人がこの地に取り残される。いや、これがはたして本当に駅であったかどうかも定かではない。去って行くイーゴリはドン・ドミノに問いかける、「まだゼロ号機は通っているのかい?」「どこにも鉄道なんてないじゃないか」と。
いや、鉄道はあったのだ。そうだ、最初にここに入植した者たちの写真だってある。フィーラ、その夫のミーシャ、イワン・アルダビエフ、彼の義兄弟ワシーリー、その妻のグーシャ、それに作業を手伝った幾人かの兵士たち……。彼らは何もないこの地に鉄橋をかけ、レールを敷設し、バラックを建設したのだ。
ここを通過するのはゼロ号機と呼ばれる貨車。100の貨車を連ね、先頭と後尾に2台ずつの機関車がついている。その長大な貨車がどこからやってきてどこに向かうのかは杳として知れない。はたして積荷が何であるかもわからない。内務省の大佐が最初に言ったのは、おまえたちの任務はここを通過する貨車が時間どおりに支障なく運行されるよう務めることだ、とただそれだけだった。
大佐はドン・ドミノにはことさら厳しく訓戒を垂れた:おまえの両親は「人民の敵」だ。だが、おまえには責任はない。自分自身に責任をもてばよい。そして祖国に、おまえを育ててくれた祖国に忠誠を誓うことだ。
そう、チェキストの父が母のこめかみを撃ち抜き、自分もピストル自殺を図ったのはドン・ドミノが10歳のときのことだった。彼はショックのあまり言葉を失った。それが回復したのは半年後のことだ。彼は父を恨んだ。彼を寄る辺ない境遇におとしいれ、得体の知れない「祖国」というものに彼を委ねたのは父なのだ。「祖国」は彼にとっては疎遠なものだった。それゆえ恐ろしい。彼が育った養護院、与えられる食事、支給される制服、時報にあわせて起きること、知は力なりという標語、命令、不服従による銃殺 ── それら一切合切が彼にとって「祖国」と呼ばれるものだった。
大佐はまたこうも言った:祖国はおまえを信じている。ことさらおまえに信頼をおいているのだ。おまえには過去はない。現在もない。おまえはゼロだ。おまえは未来なのだ…
…
それにしてもこの駅は不吉な場所だった。まずアウグスタが死産した。フィーラの娘も死産だった。フィーラの夫、ミーシャ・ランダウの気がちがったのはあれがきっかけではなかったろうか、とドン・ドミノは思う。「ここは死せる地だ」とミーシャは言って、この駅の不可解さにとりつかれていった。「この地もあの汽車もわけがわからない。一日に一度の運行。それもこれもみんな<あの男>のためなんだ。いったい、どこへ何を運んでゆくのだろう」と問いかけるミーシャ。だがドン・ドミノは務めて疑念を差し挟まないように身を持した。風来坊のようにこの地に流れ着いたアリョーナはあるとき、貨車には人間が載っているといったが……
この駅の謎、貨車の謎にとりつかれたミーシャがあるときこつ然と姿を消す。彼の妻のフィーラは言うのだった、「わたしにはわかっている。あの人はゼロ号機に乗ってむこうへ行ったのよ。果てまで行って、そこに何があって、こうした一切合切が何のためなのか見定めに出かけたにちがいない」と。これにたいしてドン・ドミノは、「たしかにきみの言う通りかもしれない。だが、そこにはまた何もないかもしれない。それでもこの線路は存在する。ゼロ号機は走り、おれたちは生きているんだ。そこに意味があるんだ。どんな意味か?それはわからない。ちょうど人生と同じように」としか答えられない。それはあたかも「神」について語るような語り口だった。
大佐もフィーラと同じ判断を下した。ミーシャはこの鉄路の先に何があるのか、その答えを見いだそうと出奔したのだ、と。「おまえだって」と彼はドン・ドミノに問いかける。「おまえだって何かを待ち望んでいるのではないか?この線路、ゼロ号機は何なんだ、その先には何があるのか、何のためなのか、この結末はどうつくのか、と疑問に思わないのか?」だが、大佐はその疑問をみずから封じてしまう。もし、終点までいってそこに何があるかが判明しても、貨車の積荷が何であるかが判明しても、きっとおまえはそれで納得することはできないだろう。疑念はさらに疑念を呼ぶにちがいない、だからおまえにはその結論はわかっているはずだ、と大佐は言うのだった。
こうしたやり取りがあってしばらくたったある秋のこと、鉄道の脱線事故が起きる。事故に見舞われてまた一人アリョーナが身重の身で死亡する。事故の原因をめぐって大佐はフィーラを訊問する。生涯に唯一自分が愛した女性であったフィーラを窮地から救うべく、ドン・ドミノは大佐を呼び出し、彼を河原で殺害する。こめかみに撃ち込まれた銃弾。「おまえは存在しない。おれも存在しない。誰も存在しないんだ。おれたちはみんなこの鉄道の影、まぼろしにすぎない。未来の影にすぎないんだ」という思いがドン・ドミノの意識をよぎるのだった……
3.コメント
作中<あの男>と称されているのがスターリンを指していることは言うまでもない。そこからこの作品がスターリン時代を描いた数ある作品の一つと見なされるのは仕方がないことかもしれない。だが、これがスターリン時代を批判的に描いた告発的な作品かというと、そうではない。スターリン時代を断罪したルイバコフの『アルバート街の子どもたち』との決定的なちがいは、作者の想像力の向かうベクトルにある。ブイダの狙いは歴史的なスターリン時代の再現、いわんやその批判にあるわけではない。たんにスターリン時代の悪夢を描くのであれば、この駅を通過する得体の知れない貨車が100両という途方もない幻想的な編成を持っている必要はない。
おそらくブイダが描こうとしたのは、スターリンという固有名によって象徴される、ロシア人にとってクリシェとなった30年代ではない。スターリンという固有名による代行をも許容しながら、それを包括するより普遍化したシステムとでもいうべきものだ。あるシステムのなかでしか生きられない人存在、そのシステムのなかでしか意味づけられない存在、その存在の不確かさ、不安をブイダは浮かび上がらせていくのである。
一見写実的に見えながら、なんら確定的な事実をあらわすことのない文体、個々のレベルではいささかの幻想もはらまないのに、全体としてきわめて幻想的な虚構を構築する文体、それがあやふやな人間存在の不安と絶妙にマッチしている。
短編『陽気なゲルドルード』にも示されているように、ブイダは何の変哲もなさそうな現実から出発して、巧みにそれを幻想の側にずらしてゆく。そしてそこからある種の哲学的な問題を展開する。現実を幻想にシフトさせることによって、人間のありようを哲学的に深みに降りて浮き彫りにしてゆく、そこにブイダの才能とその作品の魅力があると言えそうだ。