●ブロツキー, ヨシフ(ジョセフ) Brodskii, Iosif
「レス・ザン・ワン」 Less Than One. New York: Farrar, Straus, Giroux, 1986/ Penguin Books, 1987.
解説 沼野充義
1. 作家について
1940年5月24日レニングラード生まれ。
1996年1月28日ニューヨークで心臓病の発作のために没
経歴についてはとりあえず別紙(集英社『世界文学大事典』掲載予定の拙稿)を参照。
Select Bibliography
1) ブロツキーの著作
すでに欧米で本格的な研究所が何冊も出ている状態なので、詳しくはそういった研究書のビブリオグラフィーを参照のこと。最近はロシアでも次々と著作が出ている。ロシアで刊行されたもっともまとまった著作集としては、ペテルブルグの「プーシキンスキー・フォンド」から出た4巻の著作集(1994ー5)がある。
『レス・ザン・ワン』主録のエッセイなどもロシア語訳が(全訳ではないが)出ている。エッセイのロシア語訳を含むロシアでの刊行物としては、上記の4巻著作集以外に、気づいた範囲では、以下のものがある。
Iosif Brodskii. Razmerom podlinnika. 1990.
Iosif Brodskii. Forma vremeni. t. 2. Minsk, 1992.
Iosif Brodskii. Naberezhnaia neistselimykh. Moscow, 1992.
Iosif Brodskii, Poltory komnaty, Novyi mir, No. 2, 1995.
2) ブロツキーに関する研究・批評
ブロツキーに関する研究文献はすでに膨大なものがあるので、詳しくは別の機会に譲るが、全体的な状況について一言だけ言っておけば、英語圏では Polukhina, Bethea などの本格的な研究書が単行本として出ており、オランダで出ている研究誌Russian Literatureも総特集を組んでいるのに、ロシアではまだ本格的なものは少ない。ヴィクトル・エロフェーエフの評論は、ロシア語で書かれた先駆的なもので、ブロツキーの言語観に関する優れた考察を含む。(Viktor Erofeev. V labirinte prokliatykh voprosov. Moscow, 1990.)
3) 日本語文献
ブロツキーの著作の翻訳
・詩六編(川村二郎・小平武訳)集英社版世界の文学37『現代詩集』所載、1979 年。
・「特集ヨシフ・ブロツキー」『中央公論文芸特集』1991年春季号[ノーベル賞 講演の全訳のほか、詩の翻訳を掲載]
・『大理石』[戯曲]沼野充義訳、白水社、1991年。
・『ヴェネツィア──水の迷宮の夢』金関寿夫訳、集英社、1996年。
ブロツキーに関する文献
・「ブロツキー裁判」工藤幸雄訳、『展望』1966年4月号、158-173ページ [ポーランド語からの重訳]
・沼野充義「この地上でいちばん美しい街の詩人」、『モスクワ─ペテルブルグ縦 横記』(岩波書店、1995年)ペテルブルグ2番街、25-48ページ。
2. 作品について
1)概要 1972年にソ連から亡命を余儀なくされた詩人ブロツキーの英語によるエッセイ集。ブロツキーはもともと英語の詩に深い興味を持っており、アメリカ合衆国に亡命後、急速に英語を身につけ、次第にエッセイなど、みずから散文を英語で直接書くようになった。本書にはそういったエッセイを集めた、ブロツキーとしては初めての散文集である。収録されているエッセイの大多数は英語がオリジナルだが、一部、ロシア語オリジナルを英訳したものも含まれている。ブロツキーのこういったエッセイ集としては、他につい最近出たOn Grief and Reason (New York: Farrar, Straus, Giroux, 1996)があるだけである。
2)全体の構成
エッセイ18本を収める。全体としてのテーマ的な統一は特にないが、巻頭と巻末に自伝的な比較的長いエッセイが置かれているのは、意図的なものであろう。以下ごく簡単に主題を示す。18本のうち3本は明らかに、初めロシア語で書かれて、後に英訳されたもの。それ以外はブロツキー自身が直接英語で書いたものと思われる(ただし、そのすべてについて初出を確認できたわけではない)。
"Less Than One" (1976) 自伝的回想
"The Keening Muse" (1982) アフマートヴァ
"Pendulum's Song" (1975) カヴァフィス
"A Guide to a Renamed City" (1979) レニングラード/ペテルブルグをめぐ る文化史的・自伝的エッセイ
"In the Shadow of Dante" (1977) モンターレ、そのダンテとの関係[日本語訳:「ダンテの影のもとで」加藤光也訳、『新潮』1988年1月号、100-111ページ]
"On Tyranny" (1980) 専制をめぐる哲学的エッセイ
"The Child of Civilization" (1977) マンデリシュターム
"Nadezhda Mandelstam (1899-1980): An Obituray" (1981) ナジジェージュダ・マンデリシュターム追悼
"The Power of the Elements" (1980) ドストエフスキー
"The Sound of the Tide" (1983) デレク・ウォルコット[日本語訳:『デレック・ウォルコット詩集』小沢書店、所載]
"A Poet and Prose" (1979) ツヴェターエヴァの散文[原文ロシア語、英訳Barry Rubin]
"Footnote to a Poem" (1981) ツヴェターエヴァの詩[原文ロシア語、英訳Barry Rubin]
"Catastrophes in the Air" (1984) アンドレイ・プラトーノフ
"On "September 1, 1939" by W. H. Auden" (1984) オーデンの詩
"To Please a Shadow" (1983) オーデン
"A Commencement Adress" (1984) Williams Collegeの卒業式での講演(悪をめぐる哲学的エッセイ)
"Flight from Byzantium" (1985) イスタンブール紀行[原文ロシア語、英訳Alan Myersとブロツキーの共訳]
"In a Room and a Half" (1985) 自伝的回想(特に両親のこと)
内容をしいて分類すれば、以下のようになる。ここからもすぐ分かるように、このエッセイ集の主題としては、自伝的にも、文学的にも、ロシア色のほうが非ロシア(欧米)色よりも強いと言えよう(この関係は、第2エッセイ集『悲しみと理性について』では逆転する)。
自伝・紀行 3
哲学的エッセイ 2
ロシア文学・文化 8
ロシア以外のヨーロッパ文学 5
3)いくつかのエッセイについて、内容紹介
・「レス・ザン・ワン」"Less Than One" (1976)
ブロツキーの生い立ちから、レニングラードで過ごした少年時代についての、自伝的回想。ただし、クロノロジカルに事実を並べていく「自伝」のスタイルではなく、自由な詩的連想とブロツキー独自の「哲学的考察」をつないだ散文作品となっている。主題的には、ソ連体制下で自由な思考を求めて体制から離反していくインテリゲンツィアの精神史的な側面が強い。また、このような自伝を英語であえて書くことに関する「こだわり」、記憶と言語の関係についての考察もある(3-4,30-31)。
自伝を直線的なクロノロジーの形で表現できないことについては、ブロツキー自身がこう説明している。「もしもクロノロジーとか、直線的な過程を示唆するような何かに頼ったら、私は嘘をつくことになるだろう。A school is a factory is a poem is a prison is academia is boredom, with flashes of panic.」(17)(ガートルード・スタインの「バラはバラは……」を思わせる文体)そして一人の個人は、生涯に様々な姿をとるけれども、そのどの一つとして人の全体を表すものではないということから、「One is neither of these figures; one is perhaps less than "one".」(17)という、タイトルの由来が説明される。
幼いブロツキーに大きな影響を与えたのは、まず何と言っても、ネヴァ川のほとりに作られたレニングラード(ペテルブルグ)という街そのものだった。この街の比類なき美しさについて、彼は誇らしげにこう回想している。
そして、街があった。この地上でいちばん美しい街。果てしない灰色の空が川 の上におおいかぶさっているのと同様に、果てしない灰色の川が街のはるか彼方までをおおっている。その川に沿って壮麗な大邸宅が立ちならび、美しく装飾された正面を見せていた。もしも、少年が川の右岸に立てば、その左岸は巨大な軟体動物の残した跡のように見えた。もはや絶滅してしまった文明と呼ばれる軟体 動物の跡のように。
ブロツキーはまた、レニングラードのこういった歴史的建築物から「われわれの世界の歴史について、後に本で学んだ以上のことを学びとった」とも述べている。「ギリシャ、ローマ、エジプト。そのすべてがあった……そして、流れに抗して進もうとする引き船を時折真ん中に浮かべ、バルト海に注いで行く灰色に光る川。この川から私は無限と禁欲精神について、数学やゼノンからよりも多くを学んだ。」(5)
体制に対するブロツキーの反逆は、彼が15歳のときに始まった。このとき彼は早くも、ソ連社会の多数派から離反し、定められた道をそれるという「最初の自由な行為」を行ったのである。
私は15歳にして学校を立ち去ったときのことを覚えている。それは意識的な選択というよりは、むしろ本能的な反応だった。私は単に教室の何人かの顔が──その中には同級生も含まれていたが、大部分は教師だった──我慢できなかったのだ。そこである冬の朝、私ははっきりした理由もなしに授業の最中に立ち上が り、校門からメロドラマ風に退場して行った。戻ることは絶対ないだろうと、はっ きり意識しながら。そのときの自分を圧倒していた様々な感情のうち、私が今で も覚えているのは、まだ若すぎて、あまりに多くの物事の支配下に置かれている 自分に対する全面的な嫌悪感である。それから、漠然としたものではあれ、幸福 な感覚もあった。それは逃走の感覚、日の当たる果てしない街路の感覚だった。 (10-11)
こうして学校から「ドロップ・アウト」したブロツキーは、以後正規の教育を一切受けずに独学で詩人への道を歩むことになる。多数派に与せずに、常に「自分だけの個人的なもの」を追求しようとするのは、多かれ少なかれ、どんな詩人にも共通する癒しがたい性癖かも知れないが、ブロツキーの置かれた社会環境でそのような生き方をするのは特に困難なことだった。すべての構成員に画一的なものを押しつけようとする社会にあってブロツキーは、まさにこの画一的なものに対する強烈な反感を植えつけられたのである。彼の反抗は、いたるところに溢れるレーニンの肖像画を無視することから始まった。
私のその後の人生は、人生の最も押しつけがましい側面を次から次へと休むことなく回避していく試みと見なせるだろう。私はこの方向にかなり遠くまで行っ てしまったと言わざるを得ない。いや、ひょっとしたら、遠くに行き過ぎたかも知れない。それとなく反復の兆候が見られるものは何でもけなし、除去するよ うになってしまったからだ。そこには言葉も、木も、ある種の人間のタイプも、 ときには肉体的な苦痛も含まれており、それが私の人間関係の多くに影響を与え た。ある意味では、私はレーニンに感謝している。何でも大量にあるものはある 種のプロパガンダだと、即座に考えるようになったからだ。(6)
ブロツキーが学校を立ち去った翌年、つまり1956年にハンガリー動乱が起きる。この事件はブロツキーの世代に強烈な衝撃を与え、彼自身の言葉によれば、「われわれは各人各様に、この体制の分析を始めた。こうして、われわれの文学が生まれ、その文学の宿命が今度はわれわれの個人的な運命の性格を決めることになった。」
・「改名された街の案内」"A Guide to a Renamed City" (1979)
「ガイド」とは題されているが、もちろん、旅行ガイド的なものとして書かれたわけではない。ロシアの歴史の中にペテルブルグが占める位置についての文化史考察と、自分の生まれ育った街に関する個人的な思い出をないまぜながら進んでいく、日所に美しい詩的エッセイである。もちろん、ここでブロツキーが取り上げているのは、単に建築や自然の景観の美しさだけではない。ピョートル大帝によって作られたこの人工的で幻想的な都市は、海に向かって開かれた「精神の港」として、独自の自由な文学的想像力を育んだのだった。「思考がこれほど喜んで現実から離れていく場所は、ロシアではここ以外にどこにもない。まさにこのペテルブルグの出現とともに、ロシア文学は誕生したのである」といった、この街への美しいオマージュも出てくる(ちなみに、詩人としてのブロツキー自身も、プーシキンに始まりアフマートワやマンデリシュタームなどによって受け継がれてきたペテルブルグ=レニングラード詩派の伝統に連なる存在であり、彼本人がそのことを強く意識していることは言うまでもない。ロシア的な混沌を背景に終末の予兆を響かせながらも、ヨーロッパ文化に対して開かれた自由な感性を保ち、旺盛な実験精神に燃えながらもその反面、常に古典的な調和を追求し続けるブロツキーの詩は、レニングラードの詩的伝統なしに生まれることはなかっただろう)。
しかし、こういったペテルブルグ論は必ずしもブッキシュなものではない。次のような一節を読めば、ブロツキーの「この地上でいちばん美しい街」という主張が、単なる抽象的な知識や文学的な伝統から来たものではなく、何よりもまず自分の足で徹底的に歩いたという、肉体的な感覚に支えられていることがよくわかるはずである。
この街に生まれた者は、少なくとも若いころは、どんなたくましい遊牧民にも負けないくらいたくさん、自分の足で歩き回ることになる。それは自動車が少ないとか、高価すぎるとかいった理由によるのではなく(公共交通ならすぐれたシ ステムが整っている)、また半マイルにも及ぶ食料品店の行列のせいでもない。それは、この地の空の下で、この巨大な灰色の川の、茶色い花崗岩の河岸通りを 歩くこと自体が、生を拡張し、遠くを見ることの訓練になったからだ。絶えず流れ、立ち去っていく水と隣あった花崗岩の舗道。その舗道のざらざらした感触には、歩きたいというほとんど官能的な欲望を人の足裏に注ぎ込む何かがあった。海草の匂いのする海からの向かい風は、嘘や、絶望や、無力感に浸かりすぎた多 くの人々の心をここで癒してくれた。(89)
ブロツキーはロシア固有の現実にはあまり拘泥せずに、普遍的・抽象的な主題を扱うことが多いため、時に「非ロシア的詩人」と見なされることがあるが、彼がいかに故郷の街を重視していたかを考え合わせると、そのような見方は皮相なものと言わざるを得ない。ブロツキーは文学史上脈々と受け継がれていた「ペテルブルグ神話」を、ここで堂々と受け継いでいる。その「受け継ぎ方」はあまりに堂々としていてアイロニーがほとんど感じられず、むしろナイーヴにも感じられるほどだが、これはペテルブルグという街の特権性から来るものであると同時に、非ロシア人の読者を想定して英語で書かれたものであるということからも来ていると言えるかもしれない(ロシアのことを知らない英語読者へのある種のプロパガンダ的要素)。
……ロシア語を母語とするすべての者にとって、この街はロシア語が聞かれる世界中の他のどの場所よりもリアルである。
というのも、もう一つのペテルブルグ、ロシアの小説や詩から作られたペテルブルグがあるからだ。小説は何度も繰り返し読まれ、詩は暗唱されるまでになる。それは一つには、ソ連の学校で子供たちは、もしも卒業したければ、そういった詩を暗唱しなければならないからである。そして、未来に──それこそ、このロシア語という言語が存在し続ける限りの未来に向けて──街の地位と場所を確保するこの暗記という作業を通じ、ソ連の学校の子供たちはロシア人に変身していく。
学年はふつう5月末には終わり、この街に白夜がやってきて、6月いっぱい続くことになる。白夜とは太陽が空からほんの1、2時間しか姿を消さない夜のことで、北国ではごくありふれた現象である。それはこの街でいちばん魔法のような季節。午前2時に電灯もなしに読んだり書いたりできるし、建物たちは影を失い、屋根が金に縁取られ、脆い陶器のセットのように見える。あたりはあまりにも静かな ので、フィンランドで床に落ちたスプーンのチャリンという音がほとんど聞こえ てくるほどだ。空の透明なピンクの色合いはあまりに淡く、川の薄い青の水彩はほとんど空を映し出しそこねてしまう。そして跳ね橋は引き上げられ、ネヴァ河 口の島々はまるで自分の手を開いて、ゆっくりと漂いはじめ、本流の中に入って、バルト海に向かっていくかのようだ。そういった夜には、なかなか寝つけない。あまりにも明るいし、どんな夢もこの現実にはかなわないからだ。水と同じように、人が影を持たないこの現実には。(94)
・「卒業式記念講演」"A Commencement Address" (1984)
アメリカのある大学の卒業式での記念講演。人生で必ず遭遇することになる「悪」にどう対処すればいいかについて。ブロツキー自身の収容所での体験談(ただし、ブロツキー自身とは明確に述べられていないが、24歳のユダヤ系の男が北ロシアの収容所で体験したこととなっているので、ブロツキー自身のことと思われる)。「過剰によって悪をばかげたものにする」(389)という過激な方法が示される。
・「一部屋半で」"In a Room and a Half" (1985)
ソ連で亡くなった両親を偲んで書かれた自伝的エッセイ。両親の姿、両親のアパートで「一部屋半」の空間を確保して暮らしながら、詩の世界にのめり込み始めた当時の自分、そして亡命してアメリカにいる現在の自分、の3つの層が、詩的・哲学的逸脱を大量に巻き込みながら、自由な連想の下に、展開していく。この手法はブロツキーのエッセイ(長いもの)に典型的であり、本書では「一以下」でもイスタンブール紀行でも使われている(また、後にWatermark『ヴェネツィア』でも全く同じ手法が用いられることになる)。
質素に、ソ連体制の枠内で暮らしていたユダヤ系の両親の思い出。写真ジャーナリストだった父、家庭を支えた母。ブロツキーが亡命した後、両親は彼に会いたくて、何度も出国申請をしたが、ソ連当局は結局一度も許可しなかった。そのことに対する個人的な怒りが(決して直接的には書かれていないが)、ブロツキーの文章にしては珍しく滲み出ている箇所がある。
一方、ブロツキー自身の「一部屋半」は、うずたかく積み上げられた本の山で埋まり、それが若き日の詩人の「生活空間」になっていた。もともと非政治的な人間であっただけに、彼は現実の社会を批判するというよりは、文学を通じて知った世界に入り込むことによって、現実から絶縁するという方向に向かった。またブロツキーが住んでいた住居(リテイヌイ大通り24番地、アパート28)については、こんな記述がある。
これは北ヨーロッパで世紀末から今世紀の初頭に流行った、いわゆるムーア式のたいへん贅沢な建物の一つだった。建てられたのは1903年、つまり私の父の生まれた年で、この時期のペテルブルグの建築上のセンセーションだった。アフマートワが私に話してくれたところによれば、彼女は両親に連れられて馬車でこの驚異の建物を見にきたことがあるという。ロシア文学史上もっとも有名な通りの一つであるリテイヌイ大通りに面した、その建物の西側には、アレクサンドル・ブロークが住んでいたこともある。(452)
もっとも、ブロツキー一家がこの壮麗な建物の中で、豪勢に暮らしていたというわけではない。彼らに割り当てられたのは一家3人で40平米(これでもソ連の一般の基準の5割増しで、彼らは運がよかったという)、しかもキッチンやトイレは他の家の人たちと共同という、いわゆる「共同住宅」方式の住まいである。
3.コメント(意義・評価等)
1) バイリンガリズムの問題
なぜ英語で書くのかに関するこだわり。本文中でも何回も言及がある。
・英語で回想することの困難(「一以下」4、31)──思い出すためというより、書くことによって推進力を得る。
・オーデンを偲んで(彼により近づくため)(「影を喜ばせるために」357)
・両親を偲び、彼らに「自由を与える」ため(「一部屋半で」460-1)
【参考】言語の「遠心力」と亡命者の言語について、ブロツキー自身の考え
ブロツキーの逃走は、本質的には、人間の存在を拘束する「空間」から、人間にもっと大きな自由を与える「時間」への逃走という形で表現されるわけだが、それをさらに突き詰めればすべては、果てしなく広がる灰色の時間の彼方から仄見えてくる至高の「言語」の問題に帰結する。なぜならば、ブロツキー自身がノーベル賞講演でも言っているように、言語こそは膨大な遠心力によって思考や世界感覚を加速させる、時間を超えた不滅の存在であり、詩人はその道具に過ぎないからである。
人が詩を書き始めるのには、様々な理由があるでしょう。恋人の心を勝ち得るため。自分を取り巻く現実に対する──それが風景であれ、国家であれ──自分の態度を表現するため。ある瞬間の自分の精神状態を描き出すため。地上に自分の足跡を残すため。[中略]しかし、人間がどのような理由によってペンをとろう とも、そのペンの下から生み出されるものが読者にどんな印象を与えようとも、またその読者がどれほど多くとも少なくとも、詩を書こうとする行為からただちに生ずる結果は、言語と直に接触しているという感覚です。いや、より正確に言えばそれは、言語に対して、そしてその言語で述べられ、書かれ、実現されたことのすべてに対して、ただちに従属関係に陥っていくという感覚でしょう。
この従属関係は絶対的、専制的なものですが、これはまた、人間を解放してくれるものでもあります。なぜならば、言語は書き手よりも常に年上であるにもか かわらず、いまだに膨大な遠心力を持っているからです。この遠心力は、言語の持つ時間的潜在能力、つまり前方に横たわるすべての時間によって与えられるものですが、この潜在能力の大きさを決めるのは、その言語を話す民族の数量的な 構成というよりは──確かにそれもあるのですが──むしろ、その言語で書かれている詩の質なのです。古代ギリシャ・ローマの詩人たちを、あるいはダンテを 思い起こせば充分でしょう。今日、例えば、ロシア語や英語で書かれているもの は、これらの言語が次の千年間にわたって存続することを保証しています。繰り 返しますが、詩人とは言語が存在していくための手段なのです。あるいは、偉大 な詩人オーデンが言ったように、詩人とは言語が生きるために必要な糧なのでしょ う。この文章を書いている私もいずれ死ぬでしょうし、これを読んでいる皆さんもいなくなるでしょう。しかし、この文章を私が書くために使っている言語、そしてこれを皆さんが読むために使っている言語は残ります。それは単に、言語のほうが人間よりも長生きするからという訳ではなくて、言語のほうが変化によりよく適応する能力を持っているためでもあります。
しかし、詩を書く者が詩を書くのは、死後の名声を期待してのことではありません。確かに、詩人はしばしば、自分の死がたとえわずかでも自分の死後も生き延びることを願うものですが。詩を書く者が詩を書くのは、言語が次の行をこっそり耳打ちしたり、あるいは書き取ってしまえと命ずるからです。詩を書き始めるとき、詩人は普通、それがどう終わるか知りません。そして時には、書き上げ られたものを見て非常に驚くことになります。というのも、しばしば自分の予想 よりもいい出来ばえになり、しばしば自分の期待よりも遠くに思考が行ってしまうからです。これこそまさに、言語の未来がその現在に介入してくる瞬間に他なりません。
こういったブロツキーの言語観で特に興味深いのは、言語に「遠心的な力」が備わっているという考え方だろう。普通、異国に投げ出された亡命者は、自己防御の姿勢をとり、その言語も過去や祖国の記憶にしがみついた保守的なものにならざるを得ない(例えば、アメリカで20年間も亡命生活を送りながら、アメリカ生活とは完全に絶縁し、英語を身につけようともしなかったソルジェニーツィンが、その典型だろう)。しかし、ブロツキーは自分に与えられた亡命という経験を、あくまでも「生を拡張し、遠くを見ることの訓練」のために使ってきた。そして、言語とは彼にとってそういった「生の拡張」のための強力な加速器に他ならない。1987年にウィーンで開かれた亡命作家会議で、彼はこんな風に述べている。
我々が亡命と呼ぶ状態についてのもう一つの真実は、それが孤独への、究極的な視界の中への飛翔(これは亡命がなければ、単に職業的なものだが)──あるいは漂流──を、おそろしく加速してくれるということだ。つまり、人間に残されたものは自分自身と自分の言語だけで、その間には誰も、何も介在しないという状態への漂流ということである。亡命は、普通なら一生かけて辿り着くようなところに、一晩のうちに連れていってくれる[中略]。ここではメタファーが役に立つかも知れない。亡命者とは、カプセルに入れられ、外宇宙に発射された犬か、人間のようなものである(もちろん、人間よりは犬に近い。後から決して回収してはもらえないのだから)。このカプセルとなるのが、亡命者の言語である。そして、このメタファーにけりをつけるためには、さらにこうつけ加えなければならない。このカプセルに乗り込んだ者は、それが地球のほうに引かれるのではなく、外側に引かれていくということに、やがて気づくのだ、と。
少なくとも職業柄私にとって、亡命と呼ばれる状態は、何よりもまず、言語的な出来事である。亡命者は自分の母語の中に押しやられ、引きこもっていく。言語はいわば剣であることを止め、亡命者の楯となり、カプセルとなる。言語との個人的で親密な情事として始まったことは亡命後は、それが固定観念や義務となる以前からでさえも、宿命となってしまう。生きた言語とは、その定義から言って、遠心的な性向と、そして推進力を持っているものだ。それはできるだけ多くの陣地と、できるだけ多くの空虚を覆おうとする。だからこそ人口は爆発し、人は自律的に外の世界へ、望遠鏡かあるいは祈りの領域へと向かっていくのだ。
2)エッセイとしての独自の価値
『ヴェネツィア』と同じような手法が見られる。エッセイ(ノンフィクション)とは言っても、独立した文学的価値を持つ作品になっている。
●『ヴェネツィア』は、形式的には散文作品だが、一貫したストーリーのある「小説」というわけではない。しいて分類すれば、ヴェネツィアをめぐる短い詩的エッセイを連ねた断章集というか、連作エッセイ集とでも呼ぶべきものだろう。ヴェネツィアの美にとりつかれたブロツキーは、1972年にソ連から強制的に亡命させられてアメリカ合衆国に住むことになって以来、17年もの間、毎年かかさずに──「悪い夢を見るのと同じ頻度で」──ヴェネツィアを訪れていた。『ヴェネツィア』のかなりの部分は、その体験に基づいて詩人のヴェネツィアとの出会いを描いた「ノンフィクション」的な性格の文章である。しかし、自由な連想だけを頼りに短い断章をつなぎあわせていくという手法は(じつはこれは以前からブロツキーが自伝的エッセイや紀行を書くさいに愛用している手法だが)、小さな作品にじつに様々な要素を盛り込むことを可能にしている。
街の比類なき美しさの描写は、いつの間にか時間と美と「眼」をめぐる詩的形而上学の試みに横滑りし、街への導き手となる「超美女」をめぐるちょっと卑俗で色っぽい逸話は、詩人が亡命する前のソ連での生活の記憶をよみがえらせ、迷宮のようなヴェネツィア彷徨の体験はダンテの『神曲』やギリシャ神話をテクストの中に呼び込む。評論家のスーザン・ソンタグや、エズラ・パウンドの愛人もここには登場するし、私生活のうえでブロツキーの新たな愛の相手となった若いイタリア女性も、こっそり忍び込んでくる。このように、ごく卑近なものが、超越的な美や、形而上学に直結していく世界とは、まさにブロツキーの独壇場だが、それを支えているのは、虚飾を配したむしろ単純な──しばしば口語的な響きの強い──構えのようでいて、凡人にはちょっと真似のできない詩的な飛躍を繰り返しながら進んでいくという、独特の「推進力」を持った文章である。これはロシア語を母語とするブロツキーが、英語という「他者の言語」との出会いを通じて身につけた、非常に独特のスタイルと言えるだろう。
『ヴェネツィア』のこういった特徴は、「一以下」「ビザンチンからの逃走」「人部屋半で」などのエッセイすべてに当てはまる。
3) 他の創作との関係
これらのエッセイで追求されている「哲学的」テーマ(特に時間と空間をめぐる)はもちろん、ブロツキーの詩などの作品中でも展開されている。ほんの一例をあげれば、「一以下」にある「牢獄とは空間の欠如を時間の過剰によって埋め合わせたものだ」という言葉は、戯曲『大理石』にもそのまま出てくる。
4) ロシア文化を欧米に媒介する「啓蒙的」な役割(?)
この点については、別の機会に譲りたいが、ロシア出身のロシア語、英語バイリンガル作家としては、当然、その種の「媒介」の役割を果たさざるを得なくなる。その役割の大きさという点に関して、ブロツキーは、20世紀ではおそらくナボコフと双璧であろう。