●アレシコフスキー, ピョートル Aleshkovskii, Petr
「ホリョーク伝」Zhizneopisanie Khor'ka. Druzhba narodov, No.7, 1993.
解説 貝澤 哉
1.作家について
Petr Aleshkovskii 1957年モスクワ生まれ。考古学を学び、調査や教会修復に従事。架空の地方都市スタルゴロド(Stargorod)を舞台にした連作的短編を書く。1992,93(?)「ユーノスチ」編集委員。ユズ・アレシコフスキイはおじにあたる。ナターリヤ・イワーノワは彼を、ロシア散文における「高位」のジャンルと「低位」のジャンルの融合という最近の傾向を代表する作家の一人と見ている(彼女が同傾向の作家としているのはペレーヴィン、A・ボロドィニ、カバコフなど)。しかしどちらかというと日常的な田舎町の人物の俗悪な生活を細部から描写してゆく文体や、そこに隠されている宗教的モチーフからいって、アレシコフスキイの作品は、イワーノワが言うほど大衆的ジャンルを意識しているとは思えない。実際彼の作品には、ペレーヴィンやカバコフのような派手なジェスチュアはないし、取り上げられ方も地味である。
主な作品:
Rasskazy. Druzhba narodov, No. 3, 1991.
Chaiki. Povest'. Druzhba narodov, No. 4, 1992.
Rasskazy. Iunost', No. 9, 1992.
Zhineopisanie Khor'ka. Druzhba narodov, No. 7, 1993.
トレジアコフスキイの伝記小説が近日発表される予定。「オクチャーブリ」にも短編が発表されている。
2.作品について
題名の通り、ホリョークとあだ名された主人公の誕生からの半生を描く。ホリョーク(??黶jとは、毛長イタチのこと。この小説の舞台もスタルゴロドという地方都市である。この町の食料品店につとめる女ゾイカ・ホリョヴァは、例によって他の店員とともに倉庫で飲んだくれているうちに産気づく。彼女は妊娠8ヶ月だった。1月14日未明、父親もわからずに産まれた子供は、ダニール・イワーノヴィチと名付けられる。アルコールが手放せない乱暴な母親は母乳の出が悪く、ダニールには親指を吸う癖がとれず、唇が歪んでしまった。ゾイカの母(ダニールの祖母)は孫のことを心配していたが、ある時ゾイカが酔ってダニールを抱こうとして床に取り落としたのを見かねて、彼を自分の家に連れ帰ってしまう。この打撲の後遺症で、ダニールの足は発育不良になる。
祖母は孫をよく教会につれていった。教会近くの河原には、その場所に最初の修道院を創設した聖者「ローマのアンドロニク」が乗ってきたという「奇跡の石」があった。祖母はダニールによくその話を聞かせた。ある時彼が帰ってくると、祖母は転んで頭を強打し死亡していた。彼は死んだ祖母のかたわらでぼんやりと一晩を過ごす。
ダニールは母と暮らすことになったが、彼は人間よりも獣と親しく遊んだ。ただよく家に来ていた運転手のコーリャだけは、彼を鳥射ち猟に連れていった。彼は学校の成績は悪かったが、触覚、視覚や聴覚などの記憶力は獣のように鋭く、自然の中ではそれは力を発揮した。ある夜彼はアンドロニクの奇跡の石が宙に浮いているのを見て、何ともいえない軽やかさを感じた。また彼は母が連れ込む相手の男から金を盗むようになる。そのころ彼は同級生の女生徒ジェンカを知る。彼女には職業専門学校の不良グループリダーという交際相手がいた。ジェンカに思いを寄せたダニール・ホリョークは、ソハートィというこのリダーをビルから突き落として殺してしまう。しかしジェンカは田舎の祖母の元に行ってしまい、彼の思いは実らなかった。
ダニールはたまたま母の情婦からもらった外国製のジャンパーを売って得た金を懐に、旅に出る。北方の森の奥にある湖の畔にやってきた彼は、人の気配のない小屋を見つけ、そこにあった漁網や猟銃を手に、自給自足の生活をはじめた。それは彼にとって、自由を与えてくれる夢のような場所であった。そこには直感的で直接的な生があり、何の混ざり物も、余計な飾りもない。そこでは夢さえも、昼の森と湖の続きなのだった。彼はしゃべるカマスに案内され、水底に向かう夢を見る。カマスにすすめられた杯をのぞき込むと、そこには母やジェンカ、ソハートィたちが映り、グロテスクな光景が繰り広げられる。その杯を飲み干したホリョークは、魚の王となる。時は止まり、至福が訪れる。やがてこの地方にも冬がやってくる。
孤独のなかで暮らすホリョークは、ある日老いた漁師ヴィターリイと知り合う。越冬のすべを知らなかったホリョークは、ヴィターリイと暮らし、彼を手伝いながら越冬の知恵を身につける。しかし師匠然と振る舞う老人に反発した彼は、自由を得るために、もとの小屋に戻ってしまう。孤独の中で病におかされた彼は、回復すると、再び町に戻る決心をするのだった。
母の店で仕事をもらったホリョークはジェンカに再会するが、彼女は彼に友人のヴァリューシャを紹介する。ヴァリューシャは孤独や自由にこだわるホリョークとは正反対の女性であり、つきあっていた彼らの仲はすぐに険悪な物となった。ヴァリューシャに男がいることがわかった彼は、自分に金がないのが原因と思いこみ、対独戦勝記念日に墓地で待ち伏せし、祈祷のお布施を盗んでしまう。その金で復縁を迫るホリョークにたいして、ヴァリューシャはヒステリックに「出ていって」と繰り返すだけだった。無意識に教会の方にふらついていくホリョークは、娘が残酷な仕方で彼を捨てたことを知ったヴァリューシャの母ヴェーラに導かれ、教会で一晩を過ごす。そこでは最後の審判のイコンの修復が行われていたが、聖像画が修復され輝きが増すのに見とれていた彼に、不思議な体験が起こる。目の前に海がひらけ、背後からはだれかが迫ってくる。彼は海に飲み込まれるが、大きな石にしがみついて救済の感覚を味わう。
その朝、神父たちが現れたのを見た彼は、衝動的に彼らの前に跪き、憑かれたように自らの罪を告白しはじめる。驚いた神父の一人が「民警を呼べ」と叫んだのを聞いた彼は、とっさに教会を抜け出した。家に戻るのは危険だと感じた彼は、神父の一人ボリスのあとをつけ、千枚通しと盗んだお布施の金を手に神父の家に入り込む。ボリスは彼が金を盗んだときに墓地で祈祷を行っていたあの神父であった。彼の飾らない態度に殺意を失ったホリョークは、ちょうどそのとき現れた若いイコン修復家とボリスが論争するのを聞いた。ボリスはカトリックと正教の合同を夢見、ローマに修行に行こうとしていたのだ。彼のイデーに直感的な気味悪さを感じたホリョークは、神父が止めるのも聞かず、家に戻ってしまう。そこで母の相手をしていたやくざを殴り倒し瀕死の傷を負わせたホリョークは、再び北方へと向かうのだった。
途中列車のなかで金を盗まれた男に、自分が盗んだ教会の布施の金を与えたホリョークは再び自分が自由になったように感じる。しかし以前暮らしたあの森に近づくにつれ、悪い予感にとらえられた。森には火の手が広がり、逃げ道は沼しかなかった。自分と同じように炎から逃げている一匹の大鹿の姿を彼は何度も目にする。そしてこの大鹿を追って沼を進むうちに体力を失った彼は、死を覚悟するまでに衰弱してしまう。そこに現れたのが、インノケンチイという老神父であった。助けられた彼は、人里離れた森のなかで彼と共同生活を営むようになる。ボリスと違って自然に振る舞い、なにも強制しないインノケンチイにホリョークは次第に惹かれていった。あるとき久しぶりに彼とともに人の住む町にでたホリョークは、そこでインノケンチイが、涙ながらに話すのを聞く ── ある強盗が修道士を殺し、そのままその村の聖職者となった。そのことを知ったシノードでは、強盗に洗礼を受けた者を再洗礼するかどうか議論された。ある賢い修道士がこう言った。「もし神がそのご意志で強盗を民に仕えるためにお送りになったのなら、その人殺しにはそのようにして罪をあがなえと言う神の慈悲が下ったのではありませんか」──
いつかは人のなかに出て行くのだといっていたインノケンチイは、ある日人知れず消えてしまい、ホリョークもまた自分の町に帰った。そこで彼が知ったのは、母が例のやくざに殺されたという知らせだった。再びジェンカと再会した彼は、人妻になっていた彼女が母と同じように酒好きなのを知って、母の家で二人でウォッカを飲み、肉体関係を持つ。彼女が立ち去ったあと、ホリョークは悪寒にとらわれ、気分が悪くなった。その彼がふらふらと向かっていったのは、あの奇跡の石の方であった。彼は石の上に横たわった。すると体は重みを失い、時間はどんどんと流れて、ついには消滅してしまうのだった。
翌朝聖なる石を拝みに来た老婆たちは、石の上に人が乗って飛んでいるのを見る。驚いた老婆たちが、神父たちを連れて再びこの場所に戻ってきたとき、ホリョークの姿はどこにもなかった。
エピローグで判明するのだが、実はホリョークは発作がおさまってまた北方に行き、今度は木材加工場で働きだしたのだった。そこで彼はある若い女と結婚し、アナスタシエフと改姓した。しかし妻ソーニャの男ということでソーニェチキンと呼ばれていた。彼は夕方になると丸太の上に腰掛け、女たちが井戸端会議で、修道院に現れたすばらしい聴罪司祭やアンドロニクの奇跡の石のうわさをするのを聞いた。ソーニェチキンはほとんど酒を飲まなかったが、飲むと暴れだし、妻は近所に逃げ込んだ。二日酔いになると彼は森に出かけ、戻ってきたときには飲む前のようになっているのだった。
3.コメント
文体は三人称の安定した客観描写で、語りの仕掛けや工夫はなく、平板ともいえるリアリズム的描写が全体を貫く。俗語も登場するが常識的な範囲といえる。従って読みやすい。全体は三つの部(chast')とエピローグからなり、各部は一ページ分前後の細かい節に分かれていて番号で区切られている。(povest')と銘打たれているが、一貫した求心的プロットはなく、むしろ細かいエピソードがそれぞれに面白味を持って並べられている。アレシコフスキイはたぶん短編に向いた作家なのだろう。小説の全体を統一するのは、zhizneopisanieという概念であって、主人公ホリョークの半生、その罪と救済の段階が数珠繋ぎのような場所の交代(町と森)のなかで表現されている。これは聖者伝的な、あるいは冒険小説的なジャンル構造を思わせるが、数多くの神秘的モチーフや宗教的テーマにもかかわらず、幻想小説的な派手さはなく、大変慎ましく日常的にそれは展開されている。ある書評は、エピローグは蛇足ではないかと指摘している。そうかもしれない。ただこんなエピローグをわざわざ付けることによって、作者は幻想・冒険・聖者伝的ジャンルとして読まれることに抵抗しようとしているのかもしれない。
モチーフについて。宗教、自由、自然、犯罪、暴力、そしてその背後に抑圧されてひそむ女性の影。この小説のエロスは奇妙なかたちで与えられている。不良や淫乱な母、情婦が出てくるにもかかわらず、直接的な性描写がこの小説にはない。ホリョークは小説の結末を除けば、ジェンカにも、ヴァリューシャにも肉体関係を拒否されている。しかし小説のあらゆる出来事は、すべて女性を発端にしている。主人公の犯罪は母の性生活と関係がある。彼を教会に導くのは祖母、そしてヴァリューシャの母である。最初の殺人の動機はジェンカだったし、布施を盗んだのはヴァリューシャとの関係に原因がある。主人公は正常なエロスの関係から排除されている(彼の身体的奇形は母親へのコンプレックスを物質化したものだ)。この日常的社会的なエロスの関係に失敗すると、彼はより直接的感覚的な自然(沼、湖、動物)へと逃げ込む。それが自由である。これは少し古めかしい図式のように思える。またロシアの伝統的なエロス観(ガチェフ参照)にはまってしまっている。そしてこれがロシア正教のモチーフと結びついている。石との合一あるいは飛翔はやはり、現実において失敗したエロス的関係への代償である。しかもこの宗教は、ソロヴィヨフ的教会合同のような理念的な問題とは無縁な、感覚に直接与えられるような素朴なものだ。彼には父親はいない。父のような支配的男性(ソハートィ、ヴィターリイ、ボリス、やくざの男)に対しては彼は「自由」を対置する。そしてこの自由は、教会合同などしなくても、奇跡の石がローマから直接届けてくれるものなのである。主人公は現代ロシアの「ロビンソン」であり(実際ヴィターリイは彼をそう呼んでいる)、遍歴のなかで感覚的に生を身につける。共同生活するのは男とであり、彼は孤独である。彼は自己と対話する。最後に彼がジェンカと関係したとき、彼女はすでに飲んだくれの母親だった。このような近親相姦的あるいは自慰的なエロスがこの小説の原動力でもあり、弱点でもある。父親の不在と母親的なるものとのあからさまな関係は、まったく関連はないが、むかしオルローフの『ダニーロフ』を読んだときにも感じたものだ。夢つまり無意識が大変さりげなく現実描写にとけ込んでいるのも特徴である。「夢と自然は一続き」なのだから。