●アイトマートフ、 チンギス Aitmatov, Chingiz
「カッサンドラの刻印(20世紀末の邪教より)」Tavro Kassandry(Iz eresei XX veka). Znamia, No. 12, 1994.
解説 望月哲男
1.作品について
1)背景
『断頭台』以来のこの作者の長編。発表作品としては、『チンギスハンの白い雲(長編のための物語)』(『ズナーミャ』90年8号)以来とみられる。
80年代のアイトマートフの話題作を特徴づけていた一連の要素が、本作にも継承されている。それは、1)善と悪、個と集団、倫理と科学といった大きな概念同士の対立を、小説に持ち込む実験的な態度、2)現代的なトピック(環境問題、宗教セクト、先端テクノロジーなど)をテーマにとりあげる現実志向性、3)テーマ展開のために、日常世界のほかに、動物界、神話や歴史的世界、SF的な仮想世界といった異空間を組み合る仕掛け、4)それと関連して、複数の視点(人間の視点、カメラの視点、動物の視点、高みからの視点)を対比的に使用する態度、5)以上のことからくる寓話性や図式性、といったものである。
この作品では、生命倫理と進化の方向選択という大きなテーマが、人工衛星上の生命工学者、地上の未来学者、政治家、大衆、マスコミ、さらには鯨やフクロウまでをも含む、多角的な視野から描かれている。
2)内容紹介
a. 発端
中心舞台は90年代のアメリカ。人工衛星に単身で残ったロシア人の生命工学者が、「宇宙修道士フィロフェイ」と自称して、米紙『トリビューン』に送ったローマ法王宛の公開書簡が、事件の発端となる。
フィロフェイによれば、発生直後の胎児は自らの将来を予測して生誕の適否を判断する能力を備えている。生まれることを望まない胎児(カッサンドラ胎児)は、妊娠初期の数週間にわたり、母親の額の小さなシミ(カッサンドラの刻印)としてその意志を表現する。通常これは無視されているが、生命工学の副産物として胎児の思考を知る能力を得たこの学者は、誕生拒否胎児が年々増加していることを発見し、それを人類の蓄積してきた悪が飽和に達しようとしていることへの警告と受け取る。彼によれば誕生拒否児は将来の犯罪者候補であるため、この警告の無視は、さらなる悪の蓄積につながる。
こうした判断に立って、彼は衛星軌道上から地上に実験電波を送り、カッサンドラの刻印が、母親の額で明滅し脈動する明白な印となる措置をとった。彼は人類の精神的な価値観を代表するローマ法王に向かって、胎児の警告を受け止め、「進化を正しい方向に向ける」こと、そしてそれに不可欠な堕胎の許可を与えることを要請している。
b. 展開−1
物語の第2幕は、この科学者の行為がアメリカを始め世界の世論に、そして一人の未来学者の運命に与えた影響を描いている。
カッサンドラの刻印を妊婦たちの額に見た大衆は、宇宙修道士の行為を人権の侵犯として、また子孫を生み増やせという神の教えの冒涜として、さらには悪しき優生学として、世界各地で抗議行動を開始する。ただ一人フィロフェイのメッセージを真剣に受けとめるのは、アメリカの未来学者ロバート・ボークである。生物が人知を越えたレベルで世界秩序を体感する能力を持つと信じるボークは、胎児の予知能力も自然な現象だと考える。彼によればカッサンドラの刻印は、人類の自己意識がフィロフェイの技術を介して開示して見せた現実であり、人類の新しい自己認識の契機となるべきものである。
ボークは、たまたま米大統領選挙に出馬していた知人のオリバー・オルドック(ハンガリー語の「悪魔」の意味であることがエピソードで紹介される)の裏切りによって、一挙に複雑な立場に追い込まれる。選挙対策のためにこの問題に関するボークのアドヴァイスを乞うたオルドックは、ボーク的解釈を立会演説の中に盛り込もうとする。しかし選挙民の激しい批判に圧倒された彼は、その場で立場を翻し、悪しき優生学の手先としてボークの名前を挙げることによって、彼に批判の矛先を向けさせてしまう。
その翌日、ボークの家は興奮した群衆に取り囲まれる。一方オルドックの選対本部の一員として彼の裏切りを目撃したアンソニー・ユンガーとそのチームは、事態の打開のために、宇宙修道士と未来学者のテレビ対談を企画する。しかしそれが実現する前に、ボークは群衆の手で殺害されてしまう。そしてこれと時を同じくして、大洋の鯨の集団自殺、赤の広場に住むフクロウの自殺が発生する。
c. 展開−2
ボークの死の直後、宇宙と地球を結ぶTVコンフェレンスが行われる。宇宙から参加したフィロフェイは、ボークの死を悼み、発見した真実が単純に受け入れられると信じた自らの甘さを悔いる。しかし同時に彼は、人類が来るべき破局を回避するために、新しい進化への道を選ぶべきだという自説を明言する。一方会場では、世界各地での反フィロフェイ・キャンペーンの模様が中継される。
フィロフェイは自らの行為が時期尚早であったことを確認し、衛星の外に飛び出して自殺する。
d. エピローグ
物語の終わりに、衛星のコンピュータに残されたフィロフェイの自伝が紹介される。
彼はドイツ軍占領下の町の捨子であり、自らの帰属の曖昧さを感じて育った。成長して一種の名誉欲と権力欲に駆られ、生命工学に打ち込んでその権威となる。彼の専門は、イノロードと呼ばれる人工受精児(自分と同じ帰属のない人間)を生み出すことであった。
彼の技術はソ連の党機関の注目するところとなるが、それは家族や民族のつながりを持たない人間は、インターナショナルなコミュニストとして最適だと判断されたからである。彼は国家プロジェクトの一員として、女囚を出産の母胎とした人工受精児量産を指揮することとなる。
ある時母胎提供志願者の女囚が、生命を賭してこのプロジェクトを批判するという挙に出るが、それ以来彼はロボット人間の量産という仕事に懐疑的になる。ペレストロイカの時代にこのプロジェクトが中止されたのを機に、彼は宇宙衛星での実験者に転身し、そこで生命の置かれた状況を認識して、宇宙修道士として目覚めたのである。
2.コメント
アイトマートフ特有の遠方や高みからの視点は、たとえば次のような様子をしている。
「月は夜の胎内の、万古不易の道程を、寸時寸分の狂いもなく駆けてゆく。この夜にはらまれた胎児も、月の引力に導かれ、宇宙の本質へ、生死の永遠の輪廻の中へと入ってゆく。そしてすでに一つ一つの胚種のうちには、未来の人格の印が刻まれているのだった......しかしこの世に発生した胎児の中には、すでにこの永遠の法に逆らって、生の呼び声から身を遠ざけようとする、生命界の否定者たち、カッサンドラ胎児たちが混じっているのだ。」
このような超人間的な視野の中に、人間界の出来事だけでなく、深夜の赤の広場で政治家たちの亡霊の会話に立ち会うフクロウや、大洋の鯨の群などまでもがとらえられる。
こうした視点は、小説を文明論の場にしようという作者の姿勢を反映している。彼のいわゆる生命工学や出産の選択の問題は、それ自体としては遺伝子工学をめぐる現実の議論のレベルに追いついていないようにも感じられるが、すくなくともテーマの規模と叙述の視点の規模とは、対応しているといえるだろう。しかしこのような超個人的な視点が、個人の視点と直に並列されるとき、いわゆるアイトマートフ的文学の問題が発生するように思える。
たとえば人々が人類の運命への警鐘を受け入れないのは、個人が類的な視野に立って判断することができないからである。もしも個が類の視野に目覚めるプロセスが描かれるならば、それはアイトマートフ的な方向における「物語性」に結びつくであろう。しかしこの作品の語り手は、最初から類さえも越えてあらゆる生命の現状を見渡す視点に立ってしまっている。従って彼にはそうした視点自体の構造や成り立ちを説明する必要がない。彼はこうした視野の中で、覚醒した義人の死を描き、無知な大衆を置き去りにする(主人公を死なせるのは彼の常套である)。これはこの作者の寓話趣味や図式性として指摘されていることの一部だが、おそらく問題は図式や寓話性自体にあるのではなく、そうしたものの背後にある論理が、説明も展開もされないまま、悲劇的に絶対化されていることにあるだろう。