村上さんがとうとう逝ってしまった。昨年12月初めに、あと1年以内という事もあり得ると、医者から言われた事を知った時、順調に治療が進行してい ると 思っていたので、それには驚き、そしてやり切れない気持ちにおそわれた。彼にどう語りかけて良いのか迷いに迷った。私が丁度そうして悩んでいた時に、ご本 人から電話を頂戴した。私は慌てたが、彼は深刻な病状をさらっと説明した後、自分は病気と闘い、研究成果を本にまとめ、学者としての仕事をやり遂げたい、 さらに我々の共同プロジェクトの論文も書くんだと言ってくれたので、その前向きな心構えに、ホッとしたのを覚えている。こころなしか声に元気がないように 思ったが、彼は心の動揺を感じさせなかった。
2000
年8月、センターでおこなわれた国連大学グローバルセミナーにて。向かって右が村上氏、左がヒンケル国連大学学長
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村上さんは気丈な人だ。その時からほとんど入院先の病室で、つらい病状に耐えながら、原稿を書き下ろし、推敲し、自ら校正も行い、半年後には400頁を超 える大著『北樺太石油コンセッション1925-1944』(北海道大学図書刊行会)をまとめ上げ、出版にまで漕ぎ着けたのである。6月13日の出版記念会 の時には、論文の方も書くからと約束してくれていたのだが、きっと熾烈な闘いの疲れがでたのであろう。医者の言った1年までにはまだ5ヵ月近くも余りある というのに、ちょうどひと月後の7月13日に亡くなってしまった。この事は残念でならない。しかしその顔は、何かいい夢を見て笑みを浮かべ、心安らかに 眠っている様に思えた。心からご苦労さんといって労をねぎらい、冥福を祈りたいと思う。
この著書は、北樺太石油会社の成立から終焉までを詳細に分析したものであるが、それは単なる会社史では全くなく、その分析を通じて、ソ連社会主義や日ソ関 係の特徴の一端を新たな視覚から浮き彫りにした労作である。村上さんが本書で博士号を取得したのは当然といえよう。またそこでは、この会社の運命に関わる 出来事や人々が活き活きと描かれており、読み進むうちに何か臨場感が感じられてくる。村上さんのこの様な研究と記述の方法は、村上さん独特のものである が、それはもしかすると、ロシア・東欧貿易会に勤務していた頃に、自然と身につけたものではないか、最近ではそんな気がしている。
村上さんがスラブ研究センターに移られたのは、10年前の事、52歳の時である。それまでは、ロシア・東欧貿易会調査部長として、お役所や企業の委託調 査・研究をやったり、ビジネス界の人々をロシアに連れて行って現地調査をしたり、大活躍であった。将来はロシア・東欧貿易会経済研究所の所長と目されてい たほどである。このように村上さんの場合、ビジネス界とはいっても調査畑から学者の仲間入りしたわけだから、転職は簡単だったと思われるかもしれない。し かし実際には、ビジネス界の調査研究と学問としての研究とは似て非なるもので、お役所や企業の関心に従ってその代わりに調査研究を行うのと自分の関心に基 づいて学問体系を構築するのとでは大いに異なる。ところがこの2つの間では、調査したり研究したりという作業面で似ているところがあるために、かえって頭 を切り替えるのが難しいのである。だから新天地での研究は、村上さんにとって、いわば五十の手習いのような難しい面があったはずである。しかし、この様な 大著を出版できた事は、村上さんがこの転換を見事にやってのけた事を示している。これには、スラブ研究センターという、学問的には厳しく人間的には豊か な、一流の学者集団の中で、研究できたという恵まれた環境のお陰もあると思う。しかし、私には、村上さん自身の学問研究に対する真摯な心、これこそが、大 著の出版と、博士号の取得にまで漕ぎ着けた最大の原動力だと思われるのである。ビジネスの世界から学問の世界に移って来られる方は多いが、職業としての学 問に、村上さんほど真剣に取り組む人は、希有である。
村上さんがロシア東欧貿易会におられた頃、役所関係の研究会でご一緒する事が多く、私が村上さんを他の委員の方に紹介したり、村上さんが私を紹介したり という事が度々あった。そういう時、私は村上さんを、ソ連・ロシア経済の「生き字引」と紹介したものである。それは、よく精通していて、聞けば直ぐに教え てもらえるという意味であるが、実はもう一つのニュアンスが込められていた。「生き字引」は、英語に直すと“Walking Dictionary”である事から連想して、村上さんの知識は「自分の足で歩いて獲得したものなのだ」という点を付け加えたかったのである。1990年 代前半にそうした確かな知識を持つ人は少なく貴重な存在であったからだ。この本を読んでみて思う事であるが、村上さんはビジネス界に身を置いて、日ソ両国 の官庁や企業の中で人々が行う発言や交渉を現場でつぶさに観察し、それを客観的な目で分析して理解する機会に恵まれ、その過程で獲得した思考様式がスラブ 研究センターに移ってからの研究にも役立ったのではないだろうか。そうだとすれば、村上さんはビジネス界の調査研究で得た経験を学問研究に創造的に役立て た貴重な事例であるといえよう。
村上さんはいわば旅が仕事で、旅の小道具も好きであった。またその分野では新しい物好きであった。私は、どこの国のコンセントにも使える旅行用プラグも、 彼に教えられて買った。私がフロッピー・ディスクを持ち歩いていると、USBメモリーがあると教えてくれたのも彼であった。村上さんが札幌に移ってから は、東京に住んでいる私にとって、彼の存在を確認するのは、何か彼を思い出すきっかけのある時だけだったから、今も普段は村上さんが亡くなったという気が しない。折に触れて気がつくだけである。先日も、USBメモリーを買う事になって、村上さんが、こんなに小さくて便利だよ、と言った言葉まで思い出した次 第である。旅を共にし、酒を酌み交わす事も多く、思い出が沢山ある村上さんの事、彼はこのような仕方で、私の心の中でいつまでも生き続けるのだと思う。
昨年12月2日、午後1時過ぎだったと思います。村上さんが奥さんと一緒に私の研究室に来られて、その日午前中に担当の医師から告げられた検査結果 につい て話し始めました。何か普段とは様子が違っていて、話が始まる前から緊張感を覚えました。癌が広がってしまったために、1年持たないと告げられたと言われ ました。この1年ほど前から、村上さんはすい臓癌の疑いがあるということで、検査を繰り返し受けていましたが、それまでは何も発見されず、最後にこんな結 果が待っているとは思いもしませんでした。実際、村上さんはこの前月の11月後半から奥さんを連れて東欧に出張される予定で、同僚の林さんがプラハでの宿 の手配をしていたくらいでした。この衝撃的な話を聞いた後、私は言葉が見つからなかったのですが、村上さんは、今後は部分的な治療を受けながら、残された 仕事をしたいと淡々と言われました。
私が村上さんに初めてお会いしたのは、1979年頃でした。当時のソ東貿(ソ連東欧貿易会)の小川和男さんが駒場で授業をされていて、小川さんに勧められ てソ東貿に資料を探しに行った折に紹介されました。その後、一橋の大学院に通った5年間を含めて、私は計6年間ソ東貿でアルバイトをさせてもらい、その間 に村上さんには公私ともに大変お世話になりました。ソ連の統計集の数字がどうして食い違っているのかと何時間もあるいは何日間も苦悶したり、ソ連の新聞や 雑誌の小さな記事に至るまで丹念にスクラップしたり、どこかに求めていた資料があると聞くと時間や手間を厭わず取りに行ったり、村上さんの調査・研究の姿 勢からいろいろなことを学んだ気がします。時間に正確であったり、仕事の時間とそれ以外の時間を厳格に区別したり、そうした面でも感化されました。昼休み にはいつも話の輪の中心になり、同僚の引越しの際には軽トラックの運転手として仕切るなど、まわりの人から本当に慕われていました。
2000
年8月、当時センター長だった村上氏が、鈴川基金奨学生と非常勤研究員の計6名をご自宅に招いて開かれた、手巻き寿司パーティでの1コマ。向かって右から
3人目が村上氏
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丁度10年前の1994年10月、村上さんがセンターに赴任しました。センターにとって日ソ関係・日ロ関係の研究は常に特別な意義をもっているわけです が、それを担当していた教員が相次いで転出・退職となり、白羽の矢を立てたのが村上さんでした。村上さんは、1980年代後半からのペレストロイカ、ソ連 崩壊、体制転換のなかで、研究面だけでなく、日本政府の対ソ支援・対ロ支援においても大活躍されていたのでした。奥さんが小樽出身ということもあって、村 上さんが北海道に愛着を持っていてくれたこともセンターにとって幸いでした。
センターでの10年間の研究生活のなかで、村上さんはとくに次の2つの大きな研究を成し遂げました。第1は、1998~2000年度科学研究費補助金国際 学術研究「サハリン大陸棚石油・天然ガスの『開発と環境』に関する学際的研究」の研究代表者として推進した研究で、北大の文系と理系の研究者によるまさに 文理融合型の研究が実現されました。このなかで、とくに、サハリン大陸棚の石油・ガス開発が環境にどのような影響を及ぼすかについて研究がなされました。 これは、サハリン大陸棚開発により発生が危惧されたオホーツク海汚染事故に関連して、極めて現実的な意義を有するものでした。実際、村上さんは、この研究 成果を地域社会に還元することに熱意をもっていて、1999~2002年に紋別市、網走市、稚内市などで公開セミナーや市民講座などを組織し、オホーツク 海汚染対策の遅れに対して警鐘をならしました。社会貢献を強く意識したこの研究は、民間から来られた村上さんならではのものだったと思います。この研究 は、村上さんを編著者とする『サハリン大陸棚石油・ガス開発と環境保全』(北海道大学図書刊行会、2003年)にまとめられました。
第2は、北樺太石油コンセッションに関する歴史・経済研究です。この研究の大きな契機となったのは、一橋大学経済研究所の西村可明教授を中心に始められた モスクワの国立経済文書館の史料利用に関する共同プロジェクトでした。村上さんは、退職数年前という時期から、歴史研究という新しい分野に挑戦したのでし た。昨年12月の時点で、「残された仕事」と言っていたのが、この研究のことでした。その時点では、この研究をまとめた『北樺太石油コンセッション 1925-1944』は、来年の2月頃、北海道大学図書刊行会から出版される予定でした。しかし、村上さんは何が何でもこの本を完成させると言われて病床 でこの本の仕上げに取り組み、6月13日に見事に上梓したのでした。ニュース前号でお伝えしたように、6月30日にこの研究により北海道大学から博士号 (学術)を授与されました。
センターに対する村上さんの貢献は、こうした研究面だけに留まりませんでした。村上さんは、2000年4月にセンター長に就任し、2年間務めました。セン ターは2002年4月に部門の全面的な改組と客員教授などの定員増加を実現したのですが、これを中心となって準備したのは、村上さんでした。
私が村上さんと最後に言葉を交わしたのは、7月12日、月曜日の午前中でした。センター長室に、病院から電話がかかってきました。少し声がかすれていまし たが、「14日の挨拶だけど、もう準備ができないから岩下さんと荒井さんにお願いします」というのがその内容でした。14日の挨拶とは、センターの夏期国 際シンポジウムの冒頭における組織委員長としての挨拶のことでした。今年の夏期国際シンポジウムのテーマはシベリアとロシア極東でしたが、この準備が始め られた昨年夏に村上さんが組織委員長に指名されていたのでした。実際には、病状の進行により準備は他の者が行ったのですが、冒頭挨拶の責任だけは果たすつ もりだったのでした。村上さんが亡くなられたのは、翌7月13日の夜、国際シンポジウム開始の前日でした。 私は、今までのいろいろな面での恩返しの気持ちを込めて、センター長として来年3月に村上さんの退職記念パーティを開くことを楽しみにしていたのですが、 それができなくなってしまったことが何よりも残念でなりません。心からご冥福をお祈り申し上げます。