著 者(向かって右)とアイヌ儀礼の主催者 |
車輪の下から次々と剥ぎ取られる道路に、果てしない平野を濡らす小雨がし ぶきとなって舞い散っていた。空は次第に明るくなり、前方にはその空に似て、私たちヨーロッパ人の目には珍しい紺碧の色をした日本家屋の屋根が見えてき た。私たちは、アイヌたちのもとへと車を走らせていたのだった。たとえ儀式の開始は見逃しても、なんとかそのクライマックスまでには間に合うことを願いな がら。すべては、とてもドラマチックに始まったのである…。
北海道に来て、妻と私が心に抱いていた最大の関心は、生きた伝統文化の何をどのようにすれば知ることができるかということだった。旅行代理店の可憐 なお嬢 さん方が教えてくれた、インターネット上の札幌市のサイトを見ると、北海道の各地で近日中に行われる催し物のお知らせがのっていた。その中で何よりも私た ちの目にとまったのが、アイヌのチプサンケ ― すなわち、新しい船を初めて水に浮かべる進水の儀式だった。私はこれまでに一度もアイヌについての研究に取り組んだことはなかったし2)、 今回の札幌滞在 においても、それが予定に入っているわけではなかった。しかし、私には北海道を訪れた物見高い外国人が、いったいアイヌについて何を知ることができるだろ うということが、興味深く思えてきたのである。言い換えれば、それはアイヌとアイヌ文化のイメージについて、そのエキゾチシズムやステレオタイプ化の問題 だった。
1997年5月、日本政府はアイヌ文化の独自性を認め、それを一般的に広めるための制度を整備する法律を採択した。それ以来、アイヌの博物館には補助金が 出されるようになり、日本人にアイヌ文化を紹介するための展覧会が各地を巡回して行われ、日本全国でアイヌたちが講演会に呼ばれるようになった。たとえ ば、私は2000年12月に大阪の民族学博物館で、当時アイヌ出身の国会議員として活躍していた萱野茂さんの行うアイヌ式の新年の儀式に、参加させてもら う機会があった。
ア イヌ式住所 |
かくして、今回私たちはアイヌの二風谷に出向くこととなったわけだが、出かける前からすでに村の長老に迎えられ、儀式に参加し、古の踊りに酔いし れる場 面を想像していたのだった。ところが…実際は私たちが思い描くようには進まなかった。出かける前日の8月19日、北海道に向けて南から巨大な台風が進んで いるとの知らせが入った。予報では、台風はまさに私たちの行かんとする地域を直撃するという。何かと世話を焼いてくれるガイドさんが二風谷に電話して、儀 式が行われるかどうか問い合わせてくれた。返事は、「長老たちが思案中」とのこと。結局、日が暮れても明快な返事は得られず、どうやら計画はおじゃんにな りそうだった。予定変更もやむなしとは思ったが、それでも翌日は朝から二風谷に何度も電話して、状況を確かめてみた。しかし、はっきりしたことは依然とし て分からず、長老たちは審議を続行していた。そして、ついに11時ごろになってようやく、私たちは色好い返事を受け取った。儀式が開かれる! …ただし、 予定通り11時半に。そのとき、私たちの喜びは当惑によって中断された ― 二風谷へは、車で二時間近くかかる。台風が消えたわけではないのだから、危険を冒して今から出かける値打ちがあるだろうか? じっくり考え込んでいるひま はない。私たちは腹を決めた、ここは是が非でも行かなければ。身支度にそれほど手間取らなかったものの、いかなる不慮の事態にも備えておかねばならなかっ た。札幌は前日土砂降りの雨で、それが今朝になってもまだ降り続いているのは、きっと台風が近づいている証だろうと踏んでいたからである。
札幌を後にしてからも、悪天候は私たちにつきまとった。道はさすがにがらんとして、車一台見かけない。おそらく、誰も台風の目の中に飛び込む ようなまね を、あえてやろうとする者などいないのだ。ところが、なんと驚くべきことだろう! 私たちが意を決して出かけた目的地に近づくにつれ、道はだんだんと乾 き、空は見る間に晴れ渡っていったのだ。もはや、それは札幌で見たような陰気な空ではない。暗雲はにわかに遠くどこかへ追いやられ、後には太古の空の青さ が広がった…。まるでアイヌの神々が慈悲を垂れ、自分たちに捧げられる贈り物を楽しみにして、あれほど避けがたく思われた暴風雨を止めたかのようだった。
そうして私たちは、二風谷にたどり着いた。なんと驚いたことに、ここでは台風はおろか、雨すら降っていた形跡がない。もっとも、儀式が行われている気配 もないのだが、博物館の敷地内に点在するアイヌの葦葺きの家は、美しい情景で見る人の目を和ませてくれる。中でも背の高い杭の打ち方が、とても懐かしく感 じられる。それは、私がカムチャッカのイテリメンのところで見た「バラガン」[バラック、小屋]にそっくりだ。そうこうするうちに、ようやく事態がのみこ めてきて、チプサンケの儀式はすでに始まっているということ、そしてそこに行くには、それほど大きくはないが流れの急な沙流川に沿って、なだらかな岸辺を さらに車で行かなくてはならないということが分かった。急ごう、儀式の始まりと最初の船の進水には遅れてしまったが、すべて見逃したというわけではない。 まだ二隻の船が進水されるということだ。
ア イヌ式貯蔵庫 |
そこに着いてみると、川岸に沿った駐車場には、すでにほかの車が停めてある ― ということは、ここに来ているのは、どうやら私たちだけではないようだ。なるほど、狭い川原に4、50人の人がすでに集まっていた。その中の多くが救命用 のベストを着て、足にはゴム長靴といういでたちである。ここでは、長靴を履くのはまったく当を得ている。雨の後で粘土質の岸辺は膨れ上がり、足がぬかるみ に取られてあちこちへ滑る。ピカピカのよそ行き靴を履いていた私たちは、まったく見当がはずれてしまった。でも、そんなことを考えている暇はない。まさに 水際のところにイナウが見える。くるりと巻いた削り掛けで見事に飾られた木の棒が、何本か岸辺に突き立てられている。これらはご進物を神に送り届ける鳥た ちをかたどったもので、伝統的なアイヌの祭壇を成す崇拝の対象であり、どんな儀式にも欠かせないものである。イナウの横には日本酒の瓶と、神へのご進物と して捧げられる木製の平らなさじをのせた、漆塗りの茶碗が見える。儀式を執り行う者は、茶碗の中のさじを酒で浸し、イナウに3回酒を振りかけて、それから 自分の頭と両肩に振り掛ける。そうして神にご進物を捧げ、代わりに神の恩寵を授かるのだ。
そうやって私たちが儀式の細部にとらわれている間に、船がトラックで運ばれてきて、現代的なクレーンを使って難なく岸に下ろされた。すべてが手っ取り早く 平然とやってのけられた。儀礼的な衣装を身に着けたアイヌも、儀式を統率する長老の姿も、どこにも見あたらない3)。だが、船は木の幹をくり抜いて作られ た、正真正銘のアイヌの船である。男たちがそれをあっさりと水の中に押し出すと、そこにたちまち、それに乗って急流を下りたいと所望する観客の長い列がで きた。若い観光客の多くは、私たちのようにアイヌの儀式を見物し、あわよくばそれに参加するために来ていたのだ。なんでも、その船に乗ることのできた者 は、それから1年間僥倖に恵まれるということである。
それにしても、いったい伝統的な衣装を身に着けたアイヌはどこにいるのだろう? 私たちを岸で出迎えてくれた数少ないアイヌのうちの一人が、ガイドさん の古い知り合いであることが分かった。その彼が、まさに今回の儀式の主催者だという。彼は、刺繍の入ったシャツに黒のズボンという、祭式の服装をしてい た。しかしよく見ると、シャツは明らかにヨーロッパ製のものだと分かった。彼の説明によると、同郷の者で自らの文化を復活させようと思い立ったとき、チプ サンケ以外に何も思い出せなかったという。もともとアイヌたちは、数年に一度くらい新しい船を作り、春に進水させていた。しかし、この儀式が新たに行われ たのが、たまたま1972年8月20日だったため、まったく何の根拠もないまま、毎年この日に儀式が行われるようになった。現在では、アイヌはもう船を 作っておらず、儀式のたびに郷土の博物館から賃貸料を払って借りてくるのだそうだ。
10人から12人くらいまで乗れると思われる船に、人々はにぎやかに乗り込んだ。不慮の事態から乗客を守るべく、どの船の船尾にも必ずイナウが立ってい た。船頭を務めるのはアイヌの男衆で、長い竿を使って巧みに船を操っている。離岸するや、船はたちまちカーブを曲がって見えなくなった。
イ ナウの近くで。向かって左は井上紘一氏 |
希望者が船に乗っている間に、外来の民族誌家である私たちは、イナウのそばで儀式を行うという栄誉を得た。男たちは、頭にかぶる伝統的な装身具こそ つけな かったものの ― それはその場になかった ― 決められたとおりイナウを扱った。私たちの中で唯一の女性は、イナウのそばで川を崇めるための儀式を行った。このことは、男は硬くて熱いもの、女は湿った 冷たいものに携わるという、多くの伝統的な社会で見受けられる対立的な図式の正当性を裏付けている。
やがて2台の観光バスが、船に乗って行った人たちを連れて戻ってきた。そこで希望者は、全員博物館へと向かった。館内にある一つの建物では、儀式の締めく くりとしてイナウが燃やされた。その場所にはたくさんの観光客がいて、建物の真ん中にある灰の詰まった神聖な竈の一方に群がっていた。竈には、なおもイナ ウの燃えさしが、辺りに柳の木の心地よい香りを漂わせながらくすぶっていて、その頭上に掲げられた長い棒の先には、アイヌの伝統的な家屋にはつきものの、 巨大な鮭の燻製がいくつか硬くなっていた。壁の側面は、悪い霊から建物を守るという削り掛けの束が埋め尽くしている。アイヌの住居にはたいてい、ロシア人 百姓家の「上段の間」(красный угон)と同様の、神聖な一角がしつらえられている。そこには漆塗りの大きな器が置かれていて、家の精が住むと考えられてい る。
家の奥の壁面は、伝統的な家屋の例に漏れず、神聖なものとされている(私は同様のものを、アラスカのトリンギットやブリティッシュコロンビアのクワキウト ル、カムチャッカのコリヤーク、カザフスタンのカザフ人のところでも見かけた)。壁には、彩色を施された茣蓙が内側から張られていた。ただし、ここの茣蓙 は儀式の間にだけ掛けられ、それが終わると入念に片付けられる。このことがまたしても、私たちはすべてのものが登録され、絶えず厳重な管理の下におかれて いる博物館にいるのだということを思い出させる。だがそれと同時に、ここはロシアでよく見かけるような、生気のない記念物が陳列された博物館というわけで もない。アイヌは日本人と協力して、博物館を生命感があって成長する有機体になし得ていた。ここでは、決して過去は越えることのできない垣根で現在と隔て られているのではない。伝統的な文化は、アイヌたち自身が定期的に行う儀式の中で常に再現され、訪れる人たちにそれをさまざまな分野から紹介するビデオの 中に息づいている。アイヌ模様や編み細工の教室などもあり、希望者は学びながらアイヌ文化を知ることができるようになっている。また、ここではアイヌの歴 史やアイヌ語の授業を受けることだってできるのだ。
私たちがアイヌ集落の中央にある建物に入ったとき、竈のそばで厳かに茣蓙の上に座っている3人のアイヌたちに気がついた。そのうちの一人は、さっき私たち と知り合った人らしい。どうやら今日の日程は、彼にとってうまくことが運んだように見受けられる。今、彼はうまそうにタバコをふかし、ただ時折日本人にこ よなく愛されている缶ビールをすするときにだけ、タバコを持つ手を休めている。皆まったく普段の格好で、アイヌの特別な衣装などどこにも見当たらない。観 光客相手の別の出し物で、アイヌの伝統的な上張りの衣装を着て盛んに演出をしていたアイヌがこう言っていたのも、故なきことではなかったのだ ―「今皆さんがご覧になっている私のこの格好は、私の作業服です。仕事のとき以外は、私も皆さんと同じような格好をしています」。要するに、博物館はアイ ヌ文化の表象や解釈を行う場であって、その従業員は自分の役回りを懸命に首尾よく演じている職業者なのだ。
博物館の情景を楽しんだ後、私たちはかつての不安などのんきに忘れてしまって、うかつにも土地の気まぐれな天気を茶化しながら帰路についた。と、またして もその天気に思い知らされたのだった。思いもかけず私たちに豪雨が押し寄せ、つい先ほどまで明るく陽の照らしていた高速道路は、なにやら思いもよらぬ姿に 一変した。すべては暗闇の中に沈んでしまい、地獄に潜ったかのようだった。窓の外を過ぎ去る車のヘッドライトが、まるで山の神々と接することの危険を告げ る冥土の灯明のように閃いていた。どうやら、私たちがアイヌ文化と接して儀式に参加する間だけ、アイヌの神々は小休止を与えてくれていたらしい。それが済 むと、客人に対するどんな義務からも解放されたと思われたのか、あるいは台風に対する私たちの軽薄さにお怒りになったのだろう。いずれにせよ、民族誌家は 気を抜くべきではないということを、あらためて認識させられた。なぜなら、アイヌの神々は私たちのことを、注意深く監視なさっていたらしいのだから…。