スラブ研究センターニュース 季刊 2004年春号 No.97 index

title-e2.gif

レオニード・タイマーソフ

(チュワシ大学、ロシア/センター2003年度21世紀COE外国人研究員として滞在)

 多くのロシア人にとって、日本は遠いところにある神秘的な「日出ずる国」である。この国に関する私の理解は、これまでのところ、小学校の地理の時間に習ったのと、本やその他の情報源から仕入れた知識の枠を超えるものではなかった。オーサカ、トーキョー、キョートなど、その美しく歌うようなリズムを持った都市名は、はるか小学生時代から私の脳裏に焼き付いていた。その当時、ヒロシマやナガサキといった言葉は、罪もなく原子爆弾の犠牲となった人たちへの同情と、戦争への憎悪を幼心に呼び覚ましたものである。一方、札幌で行われた冬季オリンピックは、鮮やかなスポーツのルポルタージュとして記憶に残っている。スキー場や銀盤で繰り広げられる競技を、私たちは興味津々に身守り、ハラハラドキドキしながらソ連の選手を応援していた。そのときの私は、オリンピック開催都市の雪道をゆっくり歩き回ったり、世界的に有名な雪祭りを楽しんだり、札幌市の全貌や雄大な山の尾根続きを見晴らかす藻岩山の頂上に登ったりすることが、それから何年もの後にできるようになろうとは、夢にも思わなかった。

 どうも私には、運命というやつが巡り巡って、私を日本に導いたような気がする。きっかけは、2000年夏にフィンランドで行われた会議で、北大の松里公孝教授と知り合ったことだった。彼のロシア語能力がまず私を驚かせ、そしてさらに、彼のチュワシ民族の歴史に対する関心が私の共感を誘った。その場の出会いは瞬く間に仕事上のパートナーシップへと発展し、友人としての付き合いにまでなった。その後うれしいことに、19世紀後半から20世紀初めにかけてのヴォルガ川中流域における民族や宗教に関する問題について、私の書いた二つの論文が、松里氏の編集によるスラブ研究センター発行の論文集に掲載された。

 今となって不思議に思うのは、日本に滞在中、郷里のチュワシを遠く離れた異郷の地にいるという感じが、ほとんどしなかったということだ。私の心に安らぎを与えたのは、人々の思いやりと好意に満ちた手厚いお世話である。そうしたものを、私は往きの飛行機の中ですでに感じていたし、空港に降り立ってからも、そして滞在期間中もずっと感じていた。空港まで私を迎えに来てくれたのは、旧来の知人である松里氏と、活発で好奇心旺盛にして、何ともかわいらしい彼の子供たちだった。私はまるで、自分の近しい親戚に会いに来たような気がしたものだ。

 札幌の雪景色は、ヨーロッパ随一のヴォルガ川のほとりにあるわが故郷チェボクサルィを髣髴とさせる。しかしながら、人や車、家の形、広告の漢字や間近に迫る山々を見ると、いや、ここは日本なのだと現実にゆり戻される。冬の札幌を自転車で駆け抜ける人がいる。これなどはもう完全に北海道的な風景だ。

photo03.jpg

 私が日本に来た目的は、スラブ研究センターで行われる冬のシンポジウムに出席し、また大学図書館で資料を収集するためであった。ここでの仕事および生活条件は、ただ理想的というほかない。規模が大きく、整備の行き届いた北大のキャンパスは、とても印象的である。いわば小さな街を成すほどの大学は、豊かな伝統と優れた気風に満ちており、教員や研究者、学生たちにとって、研究活動に打ち込み余暇を得るのに最適な条件を作り出している。己の学業と仕事の場を愛し、高く評価していることが感じられるこの街の「市民」たちは、その規律と文化的な所業で目を見張るものがある。センターの研究者たちの勤勉で献身的な仕事振りも、おそらくその所以であろう。ロシアには勤務時間という概念があり、それは、基本的には守られている。ところが、北海道大学では、夜遅くまで残って働いている人が結構いる。日本人の勤勉さは印象深く、どこに行っても目に付いた。過去数十年間の科学技術面での日本の快挙は、おそらくこの勤勉と愛国心によるものだろう。

 学問的な関心の性質上、私は図書館に詰めることが多かった。これほど豊かな蔵書量と、細かい点まで行き届き熟練度の高いサービスには、そうめったに出くわすものではない。センターの図書館に勤務する兎内さんの案内で、私は図書の検索の仕方を覚え、必要な図書をすばやく見つけることができた。私は、まさかはるかかなたの札幌で、自分の研究テーマに沿った資料をこんなにも見出すことができるとは、思ってもみなかった。この点で、やはりセンター滞在研究員のA.ズナメンスキー氏が、北大の図書館で興味深い本をすべて調べようと思ったら、それこそ何年かけても足りないと言ったことは、まったくもって正しい。郷里に戻った私は、仲間たちに冗談でこう言うのだ。「沿ヴォルガ・ウラル地域に関する図書を見つけたいと思うなら、ウファでもカザンでもなく、サマーラ、ウリヤノフスク、イジェフスク、ヨシュカル・オラでもなく、直ちにサッポロに行くべきだ。あそこの大学図書館には、膨大な図書の選択肢がある」と。この冗談には、真実が含まれている。ここでは、ヴォルガ・ウラル地域を始め、ロシアおよび世界のさまざまな研究機関から集められた面白い出版物が見つかるのだから。

 冬のシンポジウムについても触れておこう。ロシア式の評価基準で言うなら、その組織と内容において、客観的にみて十分「優秀」(オトリーチナ)と評価できる。主催者側の運営には、経験の豊かさが感じられた。すべてよく準備され、計画されており、参加者や報告テーマの選定には、学術的体裁を備えた中域圏構想がうまくあてはまっている。シンポジウムは、よく調整された日本式システムのように進行した。報告の数々は、聴衆の積極的な関心を引き、興味深い討論を巻き起こした。私自身、このシンポジウムから多くのことを学んだ。家田修教授の報告された中域圏に関する理論的アプローチは興味深く、また松里公孝氏や宇山智彦氏、その他の報告もそれに劣らず意義深く思えた。また、若手研究者による報告も、とても印象的だった。ポーランド、バルト海沿岸諸国、ベラルーシ、ウクライナ、プリドニエストル、カフカスなどにおける歴史的に過去の事柄と、現在の民族・政治的、社会・経済的プロセスに関する新しいアプローチを、これらの地域から来た人たちによる報告によって認識することは、興味深いことだった。また、ヴォルガ川沿いのチュワシにおける、民族・宗教の歴史的経緯についての私の報告も、それなりの反応が得られたことは、うれしいことである。今回のシンポジウムは、学問的な知識だけでなく、ユーラシア大陸とアメリカ大陸のさまざまな地域における研究者の間に個人的な面識を与えるという点で、間違いなくその参加者の利益となった。たとえば、アブハジアのスタニスラフ・ラコバ氏や、ウクライナのタマーラ・フンドロヴァ氏を始め、日本やアメリカ、その他の国々の多くの学者たちと知り合うことができたことは、私にとって大きな喜びだった。普段は国際会議に出席する機会に恵まれないロシアや旧ソ連構成諸国の研究者にとって、今回のシンポは外国の同僚たちと意見を交換するための、格好の場となったのである。

 私の日本行きによって、チュワシ大学と北海道大学の間で相互関係が深まった。チュワシにおける指導陣や同僚たちのあいだでも日本に対する関心が高まり、教育と研究の分野で、将来日本側と共同研究を行いたいという意見も出ている。

 最後に、スラブ研究センター長である(2001-2003年度)家田修教授と選考委員の方々に、心より感謝申し上げたい。日本におけるさまざまな出会いを通して、独自の伝統に満ちた国と、そこで暮らすすばらしい人々の、決してついえることのない印象が、私の心に刻まれた。
(ロシア語より後藤正憲翻訳)


[page top]
スラブ研究センターニュース 季刊 2004年春号 No.97 index