昨年11月の始めから今年1月末までのおよそ3ヵ月間、私は国際交流基金の派遣フェローシップを受けて、ハーヴァード大学の
Davis Center for Russian and Eurasian Studies で研究・調査にあたる機会を得た。アメリカにこれだけまとまった期間滞在したのは初めてのことであり、この間アメリカにおける中央ユーラシア研究、とりわけ中央アジア研究の一端をうかがうことができた。ここではそれを思いつくままに記してみよう。
私を受け入れてくれたのは、このセンターで中央アジア・カフカース研究プログラムを主宰する John Schoeberlein 助教授である、中央アジアの社会人類学を専門とする氏は、スラブ研究センターのシンポジウムにも参加されたことがあるが、アメリカのみならず世界各地の中央ユーラシア研究者を結ぶ
Central Eurasian Studies Society (CESS) の組織者として広く知られている。2000年に発足したこの協会は、現在世界の60ヵ国以上に2000名を超える会員をもち、昨年
Davis Center で第4回となる年次大会を開いたが、それは参加者800名、報告者の約4割が海外からの参加者という画期的な大会となった。それは現代中央ユーラシアの国際関係、政治、経済、社会変容、環境などへの強い関心の証左にほかならない。センターを埋め尽くした参加者の熱気は、私も鮮明に覚えている。これよりもはるかに歴史のある北米中東学会の大会よりも盛況だったという話も聞いた。ともかく、この大会の成功は、Schoeberlein
氏の培ってきた幅広いネットワークと尽力に負うところが少なくない。それにたいして大会から1ヵ月後に再訪したセンターは、閑静そのものであり、その最奥に位置する中央アジア・カフカース研究プログラムの事務局も秘書のモニカ1人が黙々と仕事をこなすばかりであった。あたかも何もなかったかのようである。
ハーヴァード大学での私の研究テーマは、「フェルガナ地方の変容:社会・民族・イスラーム」であり、帝政ロシアによる征服から現代に至るまで、つねに中央アジアの政治・社会変容を先進的に体現してきた20世紀フェルガナ地方の動態について史料調査と研究を行った。大学図書館群の中核をなすワイドナー図書館はさすがに立派なものであり、とくにソ連期に刊行された中央ユーラシア関係の文献はかなりよく収集されていたし、中東イスラーム関係のコレクションも充実している。ここしばらく大学の法人化などの仕事に追われ、図書館で本や雑誌の頁をめくることすらなかった私には、まさしく憩いのひとときであった。日本の図書館であれば、貴重書扱いにして厳重に保管するような本もしばしば開架で読めるのはうれしいことである。また、本の見返しに張られた貸出カードを見ていると、その本がどれほどの読者を得たのかがわかって興味深い。ハーヴァードでも中央アジアへの関心はペレストロイカ期から1990年代に急速に高まり、今はやや落ち着いているようにみえる。
中央ユーラシアに関する大学教育の実際に触れる機会はなかったが、一般にウズベク語やカザフ語など中央アジアの諸言語については語学の授業が常に開講されており、こうした面では遅れている日本とは対照的である。もう一つの特徴は、内外の研究者を迎えての公開講演会やセミナーが頻繁に開かれており、やる気のある学生ならばいくらでもこうした機会を利用できることだろう。たとえば、Davis
Center では、Russia and Eastern Europe Historians' Workshop や Central Asia
and Caucasus Working Group などがよく開かれており、私が出た中では、前者での Niccol Pianciola,"Famine
in the Steppe: The Collectivization of Agriculture and the Kazak Herdsmen,
1928-1934" (November 13, 2003) や Catherine Osgood,"Documentary Film:
Victims of the Russo-Chechen Conflict
: Some notes and materials for the discussion" (December 2, 2003) などが印象に残るものだった。また、東アジア・内陸アジア研究で名高い燕京研究所でも内陸アジア関係の公開セミナーが開かれている。ただ、従来のスラブ研究や内陸アジア史研究とは別に、どうすれば中央アジアやカフカース地域の若手研究者を育成することができるか、というのはアメリカでも共通の課題であり、CESS
の創立目的の一つもここにあった。
アメリカ滞在中、知人の誘いで中東部のウィスコンシン大学とインディアナ大学を訪問し、1898年フェルガナ地方の東部で起こったアンディジャン蜂起について講演する機会を与えられた。ウィスコンシン大学ではオスマン帝国およびトルコ史研究で知られる
Kemal Karpat 教授やテュルク学・キプチャク・ハン国史を専門とする Uli Schamiloglu 教授らのイニシアティヴで中央ユーラシア研究が進められており、学生は少ないもののカザフ語やウズベク語の授業も現地出身の教員を迎えて行われている。Central
Asian Studies Program と Center for Russia, East Europe, and Central Asia
がその拠点である。期せずしてテュルク系研究者の集まったマディソンでの歓待は忘れられない。ちなみに、中央アジアのジャディーディズム研究で知られる
Adeeb Khalid 助教授は、ここで博士号を取得している。
中央ユーラシア研究をスラブあるいはロシア・東欧研究の一部門ないしその延長上に位置づけるところが多いなか、中央ユーラシアを直接の研究対象とする組織を有する数少ない大学の一つがインディアナ大学である。ここには
Inner Asian & Uralic National Resource Center、 Department of Central
Eurasian Studies、Research Institute for Inner Asian Studies などの教育・研究組織があり、これらは
Department of Near Eastern Languages and Cultures や Russian & East
European Institute などとも連携している。インディアナ大学は、内陸アジア研究叢書や Papers on Inner Asia
などの刊行などで広く世界に知られているが、現在も中央アジア・中東の人類学を専門とする Nazif Shahrani、ガスプリンスキーの研究で知られる
Edward Razzerini、中央アジアのスーフィズムを研究する Devin DeWeese、現代ウズベキスタンを中心に研究する William
Fierman らの多彩な教授陣に恵まれている。ロシア出身で前近代中央アジア史の大家 Yuri Bregel 教授は先年退職されたが、教授が中心となって収集したペルシア語・チャガタイ語の一大コレクション(おもにソ連から将来されたマイクロフィルム)は、インディアナ大学の貴重な資産である。もっとも現役の学生の多くは現代の中央アジアに関心を持っており、この宝の山を活用する学生は少ないようである。現代研究はたしかに重要だが、これはまたもったいないと思わずにはいられなかった。学生も利用する学科図書室に入ると、バルトリド(1869-1930)やペリオ(1878-1945)ら東洋学の碩学たちの写真が飾られており、アメリカにしては珍しい「東洋史学科」の雰囲気を感じた。CESS
の今年の年次大会はここで開かれることになっており、ハーヴァードとは異なった伝統をもつインディアナ大学の味わいがどのように出てくるのか楽しみである。
最後に日本との比較で気づいたことを記しておこう。日本では今もやはり歴史研究が厚いのに対して、アメリカでは現代研究が主流であり、これとも関連して現代中央ユーラシアの諸言語の教育ははるかに充実している。日本ではロシア語やペルシア語を除くと、こうした点が未整備といわざるをえない。その一方、日本では中央ユーラシアに関する概説書や事典(現在『中央ユーラシアを知る事典』が準備中)、論文集の編集あるいは研究プロジェクトの実施などで、専門や所属機関の別を超えた共同作業が活発に行われているが、アメリカではこのような横の連携はあまり見られないようである。アメリカ国内の研究者を結んでいるのは、国際的な
CESS ということになる。しかし、個人研究ではどうだろうか。日本では優れた論文が発表されても、単著の数はきわめて少ないのに対して、アメリカでは博士論文を基にしたモノグラフが確実に蓄積されている。日本で中央ユーラシア研究の意義と存在を示すには、これが大きな課題ではないだろうか。アメリカ滞在中も仕上げの作業に追われていた
Research Trends in Modern Central Eurasian Studies の原稿を読みながら、私はそう考えた。しかし、もう一つの事実にも目を向けなければならない。今の日本の研究機関は、本来の研究以外で忙しすぎるのである。