「科学研究費補助金・基盤研究B「ロシアのイスラム」(北川誠一代表)を推進するために、酷暑のマハチカラ空港に降り立ったのは、8月19日、火曜日のことだった。知り合いのダゲスタン大学の助教授でクムィク人(チュルク系の低地民族)のマゴメド-ラスール・イブラギーモフ(以下、ラスールと呼ぶ)が、次女のアヌーリャちゃんと一緒に出迎えてくれる。ラスールとは、1999年にセントルイスで開催されたAAASSの年次総会で知り合って以来だから、はや4年近く経ってしまった。いつものことながら、研究というやつは、思いついてから着手するまで(惚れてから口説き始めるまで?)時間がかかるものだ。
当時、バーミンガム大学のヒラリー・ピンキントン(もともとはソ連の青年問題の専門家で、日本では東大の森美矢子さんがよく知っているのではないだろうか)が組織者となって、ヴォルガ中流域と北コーカサスのイスラムを比較研究する、非常に面白いプロジェクトが進行しており、ラスールはその一環としてセントルイスに派遣されたのである。その後、資金面で何か問題が起こった上に、サラフィー主義者(いわゆるワッハーブ主義者、イスラム原理主義者)がシャリーア・ゾーンなる「独立国家」を建設したカラマヒ村での紛争の展開にピンキントン自身が怯えてしまったので(彼女をはじめプロジェクト参加者のイギリス人は、ついに一度もダゲスタンを訪問しなかったそうである)、プロジェクトは立ち消えになってしまった。
空港から首都のマハチカラに行く脇道にカスピースク市がある。50人以上の犠牲者を出した昨年5月9日の爆弾テロ現場(戦勝記念日のパレードの予定行路に爆弾が仕掛けられていたが、爆発のタイミングが外れて将校ではなく楽隊員を大量殺害してしまった事件)を見学する。道路の修復はまだ終わっていないが、慰霊碑はすでに立っている。その現場からさらに数百メートル行くと、1996年の爆弾テロで国境警備隊の集合住宅がまるごと崩れ落ちた跡地に着く。国境警備機構が集中するカスピースクは、テロに苦しめられてきたまちである。
翌日から早速、ダゲスタンのイスラム指導者や、政府で宗教問題を担当している役人と面談する。ダゲスタンは、イスラムへの帰依が著しい点では世界でも有数の地域である。現地の宗教指導者の一人であるイリヤス・ハッジ(ハッジとは「メッカ巡礼を済ませた者」という意味の敬称だが、一時は毎年1万5千人近い巡礼者を出していたダゲスタンでは、あまりに「ハッジ」が多いため、この敬称は、事実上、指導的なムスリムにしか使われないようである)が豪語するところでは、「ダゲスタンはアラブ諸国よりも篤くイスラムを信じている」。その理由としてイリヤス・ハッジがあげるのは、情熱的な北コーカサス人の性格、スーフィズムが信仰を深める媒体となっていること、(シーア派が多い南部のアゼルバイジャン人、ハナフィー学派を信奉するノガイ人を除けば)ダゲスタンの諸民族は、スンナ派四大法学派の中でも最も厳格なシャフィー学派に属しているという諸事情である <注1> 。
実際、キリスト教やユダヤ教との共存のため政教分離を強いられる南部を除けば、ダゲスタン中がイスラム復興で煮えたぎっている。私はマハチカラのジュマ・メチェーチ(金曜礼拝がおこなわれる、当該市町村の最大モスク)から半キロメートルくらいのところに住んでいたが、毎朝4時には、朝のナマーズ(礼拝)を指揮する祈りのマイク放送の大音響で起こされる。私にとってはエキゾチックで楽しい体験だが、現地のロシア人はこれでは確かに逃げ出すだろう。
宗教色が強いインテリだけではなく、民族政策省の幹部職員もアラビア語が読め、東洋学の素養がある場合が多い。そうでなければ、いわゆるワッハーブ派との論争に耐えられないのである。至るところにアラビア語の看板や道路標識が見られ、村レベルのイマームでもカイロやダマスカスの大学に数年留学したなどというのはザラである。社会主義期は、さすがに村レベルのイマームにそこまで贅沢はさせられなかったので、アラブ諸国、中央アジア、モスクワなどでの数ヶ月間の講習でイマームの資質を維持していたが、長期留学を経た若いイマームたちのイスラムやアラビア語に関する知識の深さ、視野の広さはこれとは比べ物にならないそうだ。ただし、一部地域ではイマームの労働市場が飽和状態にあり、アラブ諸国で優れた教育を受けたことが就職の保障とはならず、若い世代の宗教家にとっては不満の種となっている。ただし、年配の宗教家から見れば、ハイカラなイスラムの知識はあってもダゲスタンの伝統イスラムを知らないのでは困るし、また、長期留学帰りは潜在的にワッハーブ派の影響を受けているのではないかと疑うことにもなる。こんにちでは、どの若者を海外留学させるかについて、ムスリム宗務局は管理を強化しようとしている。
いずれにせよ、熱狂的なムスリムが多いのは驚くほどで、宗教活動家にインタビューすると、先方の立場・派閥を問わず、たいがい、先方のこちらに対するオルグとなってしまう。「イスラムを真剣に学びなさい。そしてやがて受け容れなさい」。「43歳にもなって、まだイスラムを受け容れていないのか。それは人生の無駄遣い」。「さあ、いまここでイスラムを受け容れなさい。さあ、いまここで切ってあげるから。痛くも怖くもないよ」。「さあ、イスラムを受け容れなさい。すぐに2番目の奥さんを見つけてあげるから」。私に住宅と足を提供してくれる同僚のラスールまで、「おれはお前にアジる気はないよ」などと言いながら、遠まわしにそれっぽいことを言ってくる。イスラム大学に調査に行けば、若い幹部たちから、日本でイスラムに関心がある若者を何人か送ってくれと頼まれる。断っておくが、これらは冗談ではない。概してムスリムはキリスト教徒よりも人間的で魅力的だが、私がダゲスタンで知り合ったムスリムたちもすばらしい人たちであった。そのような人たちにオルグされながら、いなさなければならないのは辛かった。
10日近くダゲスタンに滞在したが、世俗化が進んだ南部のデルベント市を除けば、まちでミニスカートやズボンをはいている若い女性を見ることはほとんどなかったし(マハチカラでさえそうである。もちろん、怪しげな若い女性があちこちに現れる夜は別)、郡部に行けばほぼ100パーセントの女性が伝統衣装を着ている。私が訪問した、シャミール(コーカサス戦争の反乱指導者)の生村であるギムルィ村では、3年ほど前まで、酔っ払いを見つけるとモスクに連れてきて笞刑を科していたそうである。「3年ほど前まで」というのは、おそらく、当時の反ワッハーブ派・キャンペーンの中で、過激行動とみなされかねない行動は、少しは慎もうということになったためであろう。それでも、酒類販売をするような売店は、それが公式の警告を聞き入れない場合には、何者かによって放火されてしまうそうである。このような事件が2件起こった結果、村での酒類販売はおろか、ソヴェト時代に病的なアルコール依存症になってしまった人たちを除けば、飲酒習慣そのものを根絶することができた。マハチカラにおいてさえ、若い世代はほとんど呑まなくなってしまった。バーと看板が掲げられている店に入っても、バルチカ7番しか置いてないのには本当に腹が立つ。
近代的な政教分離の考え方からは問題があるが、イスラムが私事ではなく、司法機能や社会秩序維持機能を果たしていることは必ずしも悪くない。極端な例を挙げれば、ダゲスタンには、いまだに慣習法(アーダ)としての「血の復讐」が機能している村もあるのであり、殺人事件が起こった場合に遺族を宥めて「血の復讐」に走らないように説得するのはイマームや学者(アーリム)の重要な役割なのである。
社会主義政権の末期に、官製の北コーカサス・ムスリム宗務局からダゲスタン・ムスリム宗務局が分離独立した。最初の宗務局長(ムフティー)はクムィク人だったが、数限りない権謀術数を経て、1990年代中盤までにはダゲスタン・ムスリム宗務局はアヴァール人の支配下に入った。私の面倒を見てくれたラスールがクムィク人であるため、やや誇張があるかもしれないが、クムィク人やアゼルバイジャン人のようなチュルク系低地民族にとっては、社会主義革命以後のダゲスタン史は、しだいにアヴァール、ダルギン、レズギンのようなコーカサス語系の山岳民族の低地移住と政治権力の独占によって、かつての社会的なステータスを失ってきた屈辱の歴史であった。1940年代から60年代にかけて共和国党第一書記であったアブドゥラフマン・ダニヤーロフ(アヴァール人)は、山岳諸民族に向かって「天国に昇りたいなら、低地に下れ」と公言したそうである。こんにちでも、クムィク人やアゼルバイジャン人は、山岳系の諸民族を、文化的に劣る、エチケットを知らない連中として見下す傾向にある(例によって、差別的なアネクドートが山ほどある)。クムィク人にとっては、世俗権力をマゴメド-アリ・マゴメードフ国家会議議長を頭目とするダルギン人に握られ、宗教権力をアヴァール人に握られている社会主義体制崩壊後のダゲスタンの状況は耐え難いものだろう。
宗教界の状況をさらに複雑にするのは、スーフィー教団の機能である。スーフィズムの影響が非常に強いダゲスタンにおいては、ダゲスタンに十数人いる高僧(シェイフ)を指導者とする教団が、事実上、自民党の派閥のような機能を果たしている。こんにちダゲスタンで最有力なのはサイド-アファンディ・チェルケイスキーの教団であり、この教団がムスリム宗務局と、新設校でありながらすでにエリート大学である北コーカサス・イスラム大学を排他的に支配している。逆に言えば、クムィク人やダルギン人であっても、サイド-アファンヂの弟子であれば宗務局で要職に就けるということである。もちろんこれは、同民族の宗教家から見れば裏切り行為に見える。なお、シェイフは弟子や来訪者の前で定期的に奇跡を起こさなければならないので、手品の修行を怠らないそうである。狭い密閉された部屋から忽然と消え、しばらくしてまた出現して、「いま自分はカーバ聖殿に行って来た」とのたまうだとか、予告した場所に太古の刀が突然現れ、また消えるだとか...。シェイフの手品はアネクドートのネタにまでなっている。いわゆるワッハーブ派が攻撃したのは、こうした伝統イスラムの迷信性なのである。
こんにち、アヴァール人以外の宗教指導者の多くは宗務局の正統性を認めておらず、学者(アーリム)会議も宗務局系と非宗務局系とに分裂している。宗務局は、息のかかった郡には、郡イマームなるものを任命している。この郡イマームは、村イマームを任命する(宗務局に敵対しているクムィク諸郡と南部諸郡では、これは実現不可能)。これはイスラムが否定する位階制ではないか、と宗務局系の宗教指導者に尋ねると、カトリックなどの位階制とは異なって、この組織は協議原則に基づいて運営されているので位階制とは呼べないとのことだった。聖職者の職業性(これもイスラムの建前は否定している。イマームは自分が指導する信徒共同体の喜捨によって生計を立てるべきなのである)を実現する方便も面白いものだった。まず、共和国政府が、位階制が存在している郡の郡長にかなり高額の給与を払う。郡長は、その給与の大部分を郡イマームに喜捨する。郡イマームは、その金を村イマームに分配するのである。
1990年代においては、このような民族主義とセクト主義とによって混沌とした伝統イスラムが、共産主義崩壊前後から隆盛してきた、サラフィー派(いわゆるワッハーブ派)の攻撃にさらされたのである。預言者の時代のイスラムに回帰し、神と信徒との間の媒介者を否定するサラフィー主義は、スーフィズムの影響が強いダゲスタンの伝統イスラムの神学上の対極に位置するものである。カラマヒ事件の後、ワッハーブ派はダゲスタンでは非合法化されてしまったが、当時は、公開神学論争を執拗に挑むサラフィー派から伝統イスラムの側は逃げ回っていたそうである。当時から厳しい対立関係にあった宗務局派と反宗務局派も、「反ワッハーブ主義」という点では共通していた。といっても統一戦線を組んだわけではなく、サラフィー派に対する仮借なさを競い合い、それをもって、伝統イスラム内での自分たちの優越性の証明としようとしたという感じである <注2> 。
イスラムと青年の関係に関心があったので、マハチカラで2つのイスラム大学を訪問した。イマーム・シャフィー名称ダゲスタン・イスラム大学と、宗務局に付属した北コーカサス・イスラム大学である。この2つの大学は、政治的にも社会的にも対極にある。シャフィー大学は、社会主義時代の末期に設立され、共和国各地のイマームやアーリムが手弁当で運営している。学務長(デカン)でさえ専従ではなく、マハチカラのベッドタウンであるタルキ町のイマームが兼ねている。学生も普通の家庭の子が多いようである。開校以来、一般教育は志向せず、主に宗教教育をおこない、イマームおよびアラビア語教師の資格しか付与することができない学校であった。ところが近年、ロシアの徴兵制が強化され、一般高等教育をおこなわない限り学生の徴兵免除を認めさせることができなくなりそうなので、背に腹は変えられないような形で一般大学への転身を試みている。なお、この大学は、政治的には、宗務局に対して批判的である。
2000年、宗務局は、北コーカサス・イスラム大学を開校した。これはムスリム・エリートを育成することを目的とした大学で、学生もイマーム、アーリムの家系に属する者が多いようである。資金的にも潤沢で、ダゲスタン大学などの協力を取り付けることができるので、一般教育のカリキュラムも最初から充実しており、通常の高等教育の修了証書を出す準備を着々と進めている。大学の事務長ムルタザアリーは何と23歳、以前、宗務局の外事部で活躍し(すでに数十のムスリム国を訪問した経験がある)、アラビア語の能力が卓越していることをムフティーに評価されて現職に抜擢されたのである。私は、ムルタザアリーと彼を囲む若手幹部たちと面談して、後期社会主義のコムソモール幹部(しかも最もエリート的な部分)もおそらくこうであったのでは、という印象を受けた。若者らしいおっちょこちょいなところが全くなく、それぞれに課された役割を自覚し、演じているのである。職業としてのイスラムという感じである。ラスールは、着々と幹部養成を進める宗務局を評して、「ダゲスタンでは、そのうち、ある日突然に無血革命が起こるぜ」などと言っておどけている。ともあれ、北コーカサス・イスラム大学は、すべてが人間くさい先述のシャフィー大学とは好対照である。そのシャフィー大学の指導者は、新参者である北コーカサス大学に宗務局予算と政府の庇護が集中することに憤りを隠さない。
3日間で首都での調査をほぼ終え、ラスールの車で、土曜日からいよいよ郡部を回る。手に汗握る郡部編は、2004年春号に掲載。乞うご期待。