スラブ研究センターニュース 季刊 2002 年秋号 No. 91

 

ロシアの歴史-札幌から眺めて

ヴラジーミル・ブルダコフ (ロシア科学アカデミーロシア史研究所 /
センター 2002 年度外国人研究員として滞在中)

ごく平均的なロシアの歴史家に日本のどういうところに興味があるのかと尋ねたなら、次のような標準的な答えが返ってくるに違いない。 明治維新、戦争、「北方領土問題」、ハイテクノロジーの達成。 異郷趣味という魔法の煙がかかると、驚嘆の思いはさらに強まるものだ。 むろん、私も例外ではない。 しかし私の意識の下にずいぶん前からひっかかっているのは、何か別のことだ。

いつだったか、私はヴァン・ゴッホが北斎の絵にひどく入れ込んでいたと知って驚いた。 その頃の私はこの日本人画家の独特な画才をきちんと評価することができなかったし、西洋の画家の中で私がもっとも愛するゴッホがそんなにも惹かれたという北斎の魅力を感じることもできなかった。 日本人はまわりの世界の中に、西欧の人間が捉えることができない何かを見る。 ゴッホはそれを感じ取っていたのだ。 いま私は、日本が与えてくれるヒントを利用して、これまで自分が研究の大きな部分をささげて来た問題であるロシア革命を、新たに考え直してみようと思っている。

登別温泉にて

簡単な例を挙げて説明しよう。 松里教授の編まれた『ゼムストヴォ現象 (Земский феномен)—政治学的アプローチ』という本を読んで私はショックを受けた。 松里氏自身が書いた終章にはとりたてて強い印象を受けた。 そこには 1) 戦時中のロシアにおける官僚と一般市民の衝突について、ロシアの研究者には絶対に書けないような視点で書いてあり、2) ロシアに革命をもたらした様々な前提条件の意味づけがなされている。 知ってか知らずか、著者は今までの研究の中でもっとも欠けていた部分を埋めているのだ。

この発見はパラドクスではない。 特殊性を理解するためには、そして、これはもっと重要な点だが、とりわけ自国の文明の「遺伝的欠陥」を理解するためには、何も、国のアーカイブをしつこく掘り返さなくてはいけないというわけではなく、ときにはただ単に「自国の」歴史を「他国の」視点で眺めるだけで事足りる場合もあるのだ。 時と共に悲劇に転じてしまうような出来事も、まさにそういう「方法」を取ることによって見極めることができる。 むろん、それは研究者が祖国についての先入観にとらわれすぎていなければだ。 こうした自己認識の手法は、早く身につけるにこしたことはない。 さもなければ、グローバリズムの痙攣が我々を特徴のないのっぺらぼうの存在へと変えてしまわないとも限らない。

今日歴史学が置かれている状況において、クロスカルチャーの分析という問題はとりわけアクチュアルである。 そもそも、最近の「マルクス主義的」なメソッドと「ブルジョア的」メソッドの間の拮抗は、同じ (革命–進化論的) 認識のパラダイムの枠の中で生じたものである。 これはまったく力が同じ二つのチームが綱引きをして戦っているようなものだ。 そうはいっても、どちらかが身を引かねば、勝負は終わらない。 だが、そうやって戦ったところで、理解しようとしている対象により近づけるわけではなく、むしろどんどん遠ざかってしまう。 やがて感情の波が引いてしまえば、幻滅感ばかりがつのり、真理を探究しようという意思はすっかり弱まっている。 物事を眺める新しい視点を探し出せるかどうかが重要なのだ。 もちろんそれでも幻滅は避けられないが、歴史的知識をしっかり癒着させようとする過程は骨折り損にはならない。 だから私は、日本からの視点はロシア学に大きな貢献となるのではないかと思うのだ。 それはアメリカのソ連学に決して劣らないはずだ。

むろん、だからといって、ロシアの歴史について書くには日本人やアメリカ人がより適しているというわけではない。 人類はひとつだといくら唱えてみたところで、幸いなことに、やはり人はそれぞれ違う受け止め方で世界を捉えるものである。 それだからこそ、世界には葛藤も生まれ、最悪の事態には至らないだろうという希望も生まれるのだ。

札幌 芸術の森にて

ロシア革命について言うなら、私は革命を冷静な目で洞察することによって、文化学的に見た将来のロシアの基本的特徴を理解できると考えているのだが、これまでのようなアプローチで研究していても仕方ないということは明白である。 必要なのは、物事を複数の視点から眺めるアプローチだ。 そのアプローチのすばらしさは日本文学の古典的作品『羅生門』 (ロシアでは作品そのものより黒澤明の映画のほうが広く知られている) にも明かされている。 もしも人々が自分の過去—概して悲劇的な過去—の立体的なヴィジョンに関心を抱くことができるなら、人類もそうそう捨てたものではない。 これは理論上だけでなく道義的な意味において、すべての拠り所となるべき前提条件であり、全人類にとって意味のある史学は、これなしには絶対に存在し得ない。

もちろん、ロシア学が現在陥っている行き止まりの状態からの出口は、他にもいろいろあるだろう。 19 世紀ロシア文学には、新たな認識をもたらしてくれる可能性が、まだ誰にも発見されないまま残っていると思う。 しかし、残念なことに、現在の文学研究者と歴史学者は、ほとんど別々の言語で語っていると認めざるを得ない。 また、歴史的な認識を表すための共通の言葉も、やはり存在していない。

現代のロシアの研究者が直面している時代は、最良のときとはいえない。 その中で、ある者はアメリカ人の目で祖国の歴史を見据えようとし、ある者は思想家ではなく権力者を唯一の英雄に祭り上げ、新ロシア人をきどって「凡人ども」を鼻であしらおうとしている。 過去の同じような混乱期には、ロシアではあふれ出すような創造のエネルギーの奔流が見られたものだが、ここ 15 年間の葛藤の中からは、どうやら、それは生まれなかったようである。 周知のように、20 世紀初めに世界を震撼させた出来事は、ロシアでヴェルナーツキーの「人智圏 (ноосфера)」、フロレンスキーの「霊気圏 (пневматосфера)」、チジェフスキーの「心理圏 (психосфера)」、さらにはフレーブニコフの「思想土壌 (мыслезёма)」など様々な思想を生んだ。 これらの思想は、既存の科学的知識が陥ってしまった実証哲学的な袋小路から脱けだそうとするという点ではいずれも同じだった。 ところが、不安定な混乱期が生んだこれらの洞察は、ロシアではなぜか、おどろくほど軽薄な扱いしかされていない。 そんなわけだから、岩のように堅くなってしまった歴史的土壌の上に立った言説ではなく、揺らぎの感覚の上に成り立つ言説を常日頃から用いている人々に、私は大いに期待するのである。 とにかく、飽和状態にまで情報があふれた現代の状況は、新しい世界観の展望をもたらし、さらには社会的な創作行為の本質そのものを変えてくれるものだと信じよう。

山のふもとで安穏と暮らしている人間に、山のスケールの大きさを理解することはできないし、それがただの山ではなく狡猾に息を潜めている火山なのだということもわかりはしない。 また、山を遠くから眺めて悦に入っている人間も、やはりその本質を正確に捉えているとは言えまい。 「間違い」を正そうとするなら、どちらもまず山の頂上に登ってみなくてはならない。 そうして頂上に辿り着いたとき、我々の目の前には、山の景色と同時に、自分たちが暮らしている「広い世界」の展望がひらけるだろう。

(ロシア語から毛利公美訳)


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