私が見たベラルーシ大統領選挙

松里公孝(センター)

同時多発テロのせいで人々の記憶から吹っ飛んでしまったが、9月9日はベラルーシ大統領選挙であった。私は、国際監視員としてベラルーシ中央選管から招かれ、9月4日から11日までミンスクに滞在した。政権の民主的正当性を増すことによって、1998年ごろから続く国際包囲網を打破するチャンスとして政権に位置付けられた今回の選挙には、750人という、約1千万人のベラルーシの人口規模から考えれば異様なほどの国際監視員が立ち会った。しかしそのほとんどは、ベラルーシ中央選管から認証されるとはいえ、OSCEのラインから派遣された人々であり、ベラルーシ中央選管自体から招かれた監視員はさほど多くない。日本からは4人にしか過ぎない(現地の日本大使館員などは、OSCEの系列で監視をした)。OSCEに派遣されれば飛行機でビジネス・クラスに座れるが、我々はエコノミーである。現地でも類似の待遇格差があるかと思っていたら全く逆であった。OSCEの諸君が「ユビレイナヤ」ホテルに泊まるのに対して、我々はワンランク上の「ベラルーシ」ホテルに泊まった。最初は朝夕食、投票日前々日からは3食保障されて、外出には、ベンツ、アウディなどの大統領府の高級車がついた(もちろん、運転手さんにチップは払うけど)。まあ、OSCEの諸君が何をするにつけ外国人料金が要求されるのに対し、我々はベラルーシ人料金なので、実際にはベラルーシ政府にお金はかかっていない。なにしろベラルーシ人は、最高級の「ベラルーシ」ホテルに1日18ドルで泊まれるのである。キエフとは比べものにならない安さである。こうしたところにも、ルカシェンカ体制の特質があらわれている。

昨年の上院選挙の監視にも招聘された参議院議員秘書の玉村氏によれば、昨年の招聘が文字通り監視させるためだったのに対し、今回の招聘は、歓待して友好分子を作ろうとする、ベラルーシ側の感心な意図が見え見えだったそうだ。

ベラルーシ大統領選挙で圧勝したルカシェンカ氏
ソヴェツカヤ・ベロルシア紙(2001.8.2.)より

 

選挙監視を口実にやってきて、ベラルーシの地方制度改革に関する自分の研究をちゃっかりやらせてもらった。といっても調査に使えるのは水曜から金曜までの事実上3日間である。北大院出身で、現地の日本大使館に調査員として勤務している越野氏がアレンジしてくれて、いろいろな人と会うことができた。

ルカシェンカの評判は非常に悪いが、暴力のみによって維持される独裁はむしろ例外である。私は不勉強で、資源のないベラルーシの生活水準はウクライナ並みかと思っていたが、平均月収からいっても、国連の「人間発展指標」からいっても、ベラルーシの生活水準はロシアをやや上回る程度である。給料、年金の遅配はほとんどない。キエフでも、そしてビリニュスでも、物乞いをする年金生活者にしばしば会うが、ミンスクでは1週間の滞在中に私は乞食を一人も見なかった。ベラルーシの市民はロシアやウクライナの惨状を日々テレビで見ているわけで、彼らに「ルカシェンカを支持するな」と説得するのは容易なことではない。

社会主義体制崩壊後10年経つのに、国有セクターが国民総生産の60%を占めている。今後10年間に、これを30%まで漸次引下げるそうである。WTO加盟も、志向はしているが急いではいない。モンゴル、クルグズスタン、モルドヴィヤなどの性急な加盟はこれらの国に打撃を与えたと考えているようである。ルカシェンカはアメリカに罵詈雑言を浴びせ続けてきたので、アメリカの影響力の強いOSCEの支持は得られない。OSCEの支持が得られなければ、ODAの対象国にもなれない。ところが、現時点では、海外からの経済援助を受けていないということを政権はむしろ売り物にしている。「子孫に借金を残すな」というわけである。このスローガンがまた、生真面目なベラルーシ人に受ける。

「市場経済への軟着陸」路線とは、要するに倒産しそうな多数の企業を人工的に支えることであり、胃の痛くなるような作業である。投票日の夜に財務次官が急死したが、これなどは、選挙前に綻びを出さぬよう、数ヶ月間にわたりルカシェンカにぎりぎり詰められたからであると言われている。タタルスタン、ウリヤノフスク州などの、1990年代の前半に「軟着陸」路線を提唱・自画自賛していたエリートは、1995年前後に「軟着陸」を止めてしまった。隣りのリージョンのエリートが私有化で大儲けしているときに、なんで自分だけが胃の痛くなるような思いで働かなければならないかと考えるのは当然である。これと比べれば、7年間にわたって「軟着陸」路線を堅持しているルカシェンカはたいしたものだと言わなければならない(もちろん、バブル崩壊後10年間にわたって「軟着陸」路線をとっている日本には負けるが)。もちろんこれは、ルカシェンカとベラルーシのエリートの間に潜在的な緊張があることを暗示している。私が聞いたところでは、ルカシェンカが登場したときには、彼をブレジネフ型の指導者だと勘違いしてベラルーシのエリートは支持したが、スターリンであることが分かって歯噛みしているそうである。

対立候補・ゴンチャリク氏の
パンフレット

 

社会主義時代以来の街の清潔さといい、勤労を称揚する道端のスローガンといい、ベラルーシは私が見てきた旧社会主義国の中で最も保守的な国である。もちろん、生産労働をテレビで称揚し、旧体制のいいところは残そうと宣伝する点においては、中央アジアやバシコルトスタンも同じである。しかし、かの地で出現したのは、どう見ても全く新しい、旧体制とは異質の政治・社会体制である。もちろん発展独裁であるから第三世界を研究している比較政治学者には見慣れた体制かもしれないが、ソヴェト学者にとっては新しいのである。これに対し、ベラルーシでは、「ソヴェト文明のいいところは残すのだ」という教義が心から信じられ、支持されているように見える。これは、ルカシェンカの政治哲学の中核でもある。7、8年前ウリヤノフスク州にはじめて行ったときにも感じたのだが、政治的な保守性と若い女性のファッション感覚とは相関関係にあるようである。ミンスクの役人やビジネスマンが夏にキエフに出張すると、女性の服装の大胆さに鼻の下を伸ばすのである。

さて、土日はさすがに本来の仕事をしなければならない。土曜日は、農村の選挙監視(「不在者投票」は5日前から大規模に行なわれている)と称して、日本からの監視員全員が、ミンスク州南部のスルツク郡に案内される。私たちを出迎えた郡長は、空位時代の最高会議においてルカシェンカの同志であり、1994年にはルカシェンカ候補を応援したそうだが、いまでも熱烈なルカシェンカ支持者である。57歳なので、もっと出世していて当然のような感じだが、鶏口牛後的な姿勢で生きているのだろう。この郡長によれば、ベラルーシは、社会主義時代の社会保障が残存している唯一の旧社会主義国である。たとえば、幼稚園児一人当たり月33米ドル支出しなければならないのだが、親が負担するのは4ドルにすぎない。郡内の集団農場はフル稼働しているばかりか改称さえせず、播種面積の縮小も、家畜頭数の縮小も許さなかった。エクスカーションの後、郡内の最優良コルホーズ「レーニンの道」を見せられる。これは、食品加工業を経営に組み込んだ(イタリアから機械を輸入してマカロニを作るとか)ことにより市場適応した典型的な例である。ホテル、診療所、ゴージャスな文化宮殿を備えた中心集落、海外にまで公演旅行しているというベラルーシ民謡の「サークル活動」を見せられた後、ある監視員は、「こりゃまさに理想の共産主義だ」と感嘆していた。このコルホーズの長は、「ソ連功労農業者」であり、モスクワ市長ルシコフをもっとユーモラスにしたような感じである。「監視」はさっさと済ませ、郡長も交えた豪勢な宴で日本人は意識を失うまで飲むことになる。

日曜日、投票当日は、投票所が開かれる朝8時から閉じられる夜8時まで、10近い投票所を回って、「キャビンの外で投票用紙に記入した人はいないか」、「不在者投票、在宅投票に使われた(ている)投票箱は、皆から見える場所に置かれているか」などの細かい質問を連ねたアンケート用紙を埋めなければならない。1999年の地方選挙を民主派がボイコットしたこともあり、選管はほとんどが与党派である(地方議会内に議席を持っていれば、選管の形成に影響力を持つことができる)。ただし、ミンスク市内の投票所には、必ず野党系の監視員がおり、傍目からとはいえ投票者数を丁寧に数えている。かなり高い投票率になることは朝のうちから明らかで、選挙管理委員にも、「こんなことはソ連崩壊後初めてだ」と興奮している人がいた。

結果は、投票率が約80%であり、ルカシェンカがおよそ75%とり、対立候補のゴンチャリクは15%しかとれなかった。OSCEは、(1)監視の目が行き届かない「不在者投票」が15%近くに達したこと、(2)マスコミが中立でなく、そのため候補者間の平等が保障されなかったことを問題にした。(1)に対しては、勝利演説の中でルカシェンカが傑作な反論をした。不在者投票が問題だと言うのなら、不在者投票の15%を全て対立候補に加算してみよう。それでも私は60%、対立候補は30%である、と言ったのである。マスコミの中立性について敷衍すると、新聞はじめ印刷メディアの中には野党系のものもあるが、発行部数は少ない。テレビはいまだに国営局しかない。

しかし、民主主義の欠如だけでルカシェンカの圧勝は説明できまい。民主派ゴンチャリクの選挙綱領は、「強い国家が社会的な公正を実現する」といったもので、ルカシェンカの綱領とほとんど見分けがつかない。その意味では、ゴンチャリクは投票日のはるか以前に負けていたのである。私は投票日の前々日にゴンチャリク候補の選対本部を訪問したが、運動員は士気喪失という感じで、ルカシェンカに勝てないまでも、ひと泡吹かせてやろうという気概は見られなかった。じっさい今のベラルーシで「軟着陸路線は誤りだ。市場改革を断行せよ」、「ロシアとの国家連合反対。欧州連合加盟を」などの主張を掲げようものなら、おそらく市民はイスラム過激派を見るような目でその論者を見るだろう。なお、ベラルーシでは、ルカシェンカ憲法採択時に共産党はルカシェンカ反対派と支持派に分裂したが、両者を足しても2万人にも達せず、ロシアやウクライナの共産党の比ではない。タタルスタン、バシコルトスタンと同様、「社会政策にそれなりに目配りをする」大統領は、共産党の潜在的な支持者をいとも簡単に切り崩してしまう。

ルカシェンカが圧勝することは投票前から明らかだったのに、なぜ80%もの市民が投票所に足を運んだのか。これはベラルーシを袋叩きにする国際社会に対する抗議票だと私は思う。田中角栄が最初の有罪判決をくらった直後の彼の選挙民の行動と同じである。西側がベラルーシの野党をあからさまに応援すれば、野党の立場は悪くなるばかりである。


スラブ研究センターニュース No87 目次