スラ研の思い出(第10回)

 

外川継男(上智大学)


 今日、北大のスラヴ関係のめぼしいコレクションとしては、ヴェルナツキー文庫、スヴァーリン文庫、レンセン文庫、エプシュタイン文庫、そしてベルンシュタイン文庫といった名前がすぐにあげることができる。近年文献・資料のCD-ROM化がすすみ、必ずしも現物で所有する必要がなくなってきているが、定期刊行物や百科事典は別としても、やはり著名な研究者の単行本を中心とする蔵書の価値は、今後ますます高まることはあっても、減少することは決してないだろう。
 スラ研が法学部付属の施設から独立のセンターに改組された1978年(昭和53年)という年は、日本政府が「ドル減らし・外貨減らし」を積極的に行なった最初の年であった。この年の9月、政府は経済対策閣僚会議で、ドル減らしのため美術品15億円、洋書5億円の補正予算支出を決定した。これでアンリ・ルソー、マチス、ピカソなど名画が購入されることになったが、洋書の方では東大の「マザラン・コレクション(4050万円)」、一橋大学のフランス重農学派コレクション(1億200万円)、九大のフランス地方史の「シャルル・ベラ文庫(6365万円)」と並んで、北大にロシア史関係の「ヴェルナツキー・コレクション(3200万円)」とロシア革命に関する「ボリス・スヴァーリン・コレクション(500万円)」の2点が入ることになった。
 亡命ロシア史家のイエール大学のヴェルナツキーの名前は、早くから邦訳もあって、よく知られていたが、教授の死後その蔵書はながいこと勤務していたイエール大学には入らず、財産を管理していた妹さんによってロシア語の部分はどこかへ売却され、残った英・独・仏・ポーランド語などの部分(3830冊)が北大の購入するところとなった。したがってこの話は、いわば棚からぼたもちといったものだった。9月はじめにこの話をもってきたのはナウカ書店で、これを聞いたわたしは北大図書館の事務部長に会って、ぜひ購入したいのでご尽力をお願いしたいと頼んだ。このあと9月22日には東京からナウカの営業部長が北大に来て、わたしたちは先頃大阪の民博に転勤になった前北大図書館整理課長が本省の事情につうじているので、かれの意見を聞いて「作戦」をたてようということになった。
 しかし、具体的にわたしがこの件でやったのは10月14日に文部省に行って、以前スラ研の改組のとき担当課長だったT審議官に会って頼んだくらいだった。アポイントメントもとらずに行ったのだったが、担当のT課長(女性)は休みで不在、S局長(元北大事務局長)も出張中で不在で、あとは研究機関課長に会ったくらいで終わった。ところがその2日後の10月16日に、自宅にいたわたしは緊急呼び出しを受けて、タクシーで北大に駆け付け、図書館の教養分館で文部省の大学図書係長のA氏に会うことになった。

カメラを構えるレンセン氏
Faces of Japan (1968)より

 それから十日ほどして、わたしは北大から申請した分は、スラ研からのヴェルナツキー・コレクションのほか、一緒にロシア文学科を通じて出していたスヴァーリン・コレクションにも予算がついたという報せを受けた。これはちょうどセンターが設立されたところであった上に、政府のドル減らしに時期と金額がぴったり合ったという幸運がもたらした果実だった。
 その後このふたつのコレクションは、北大図書館の小西和信氏や大垣雅子さん(スラ研の大垣さんの奥さん)らの手によって、たいへんよくできたカタログが作られた。
 これにたいして2番目の大型コレクションの「レンセン文庫」の方は、まったくスラ研が独自に努力して予算を獲得した成果だった。わたしは旧知のハワイ大学のステファン教授から1980年8月18日に電話をもらって、日露関係の専門家でかつて函館市立図書館を根城に研究をして、その最初の著書であるReport from Hokkaido: The Remains of Russian Culture in Northern Japan (1954)を函館で出版したフロリダ大学のジョージ・レンセン教授が、つい先頃、交通事故で亡くなったということを知った。レンセン教授は近くスラ研に客員研究員として来ることが予定されていて、すでに教授自身の手になる履歴書と業績書がわたしの手元に届いていただけに、この報せはいささかショックだった。このときのステファンさんの話では、日露関係を中心に5千冊くらいの蔵書を未亡人のルミヤさんがまとめて売りたがっているが、いくつかのアメリカの図書館は重複をさけてその中の一部だけ購入したいと言っているので、この際スラ研がまとめて一括購入すると言えば、入手できる可能性があるとのことであった。
アゼルバイジャン・科学アカデミー中・近東研究所のタタール系初級研究員
April in Russia(1970)より
 わたしはレンセン教授の業績を以前から知っていたので、1960年にバークレーにいたときフロリダのテラハシーの教授に手紙を書いて、いつごろ訪問したらよいか知らせてもらいたいと訊いた。そのときレンセン教授は、自分はちょうどこれから1年間、米ソの研究者交換協定でソ連に行くので、あいにくお目にかかれないのがはなはだ残念だと言ってこられた。この人は一風変わった学者で、大学教授をしながらディプロマティック・プレスという出版社をも経営し、そこから日露・日ソ関係史の自分の一連の著作を出版していた。
 この電話のあと、すぐにわたしはフロリダの未亡人のもとに手紙を書いて、北大のスラ研が全部の蔵書を一括購入する意志のあることを告げた。さらにその手紙の着いたころを見はからって、こんどはステファンさんに教えられた電話番号によって未亡人に電話し、あらためて手紙に書いたこちらの気持ちを告げるとともに、まだ蔵書が売却されていないことを確かめた。
ちょうどこのころ、木村汎さんの処女作『ソ連とロシア人』が出版されたところだったので、わたしは前の法学部の会計係長で、本部の主計課長補佐になっていたHさんが折から概算要求の件で文部省に行くので、この著作を16部持って行ってもらって文部省の関係者に渡すよう依頼した。Hさんにもスラ研がセンターに昇格するときに、お世話になっていた。
 このあと、9月に学会で上京したとき、わたしはナウカ書店に行って、社長の荒木さんらに会って、レンセン文庫の購入の件で相談した。荒木さんは20年前、わたしが札幌へ来たころナウカの札幌出張所長をやっていた人で、理科系の出身の誠実な人柄の方だということをわたしは知っていた。その当時、荒木さんは自転車の荷台に風呂敷に包んだロシア語の本を載せて、北大の構内を走っていたものだった。このとき一緒に相談した営業部長のSさんも、先にヴェルナツキー・コレクションの件で「共同作戦」をたてた人だったところから、二人とも熱心に話にのってくれた。
 この年から翌年にかけて、いくつかの新聞にスラ研の記事がよくのるようになった。1980年12月7日には『朝日新聞』の道内版に、スラ研が従来のように歴史や文学を中心にやっていくか、それとももっとソ連政治の研究に力を入れて、北方領土問題などについて発言するようになるか、内部でも意見がふたつに分かれ、岐路に立っていると書かれた。1981年1月のシンポジウムではこの「北方領土問題」のほか、「シベリア開発」、「ロシアの国民性」の三つがテーマになって報告と討論が行なわれ、新聞にも紹介された。またこの年の2月7日は最初の「北方領土の日」と決まり、この件でもいくつかの新聞社やNHKからも取材をうけた。そんななかでほぼ決まりかけていた「レンセン・コレクション」の件が、2月3日の毎日新聞の道内版に大きく掲載された。翌日わたしは法学部の事務長の宮部さんから、まだ契約もすんでいないのに、新聞に発表したことで本部の主計が文句を言っていると注意された。しかし、この記事がどういうルートでもれたのか、さきのスラ研が「岐路」に立っているという記事と同様、わたしにはわからなかった。
 ほかのコレクションが北大の図書館の要求という形で購入されたのに対し、「レンセン・コレクション」はスラ研が独自に概算要求して購入しただけに、つい近年中央図書館の北方資料室に移管されるまでは、スラ研の一室に収められ、ながいことカタログも作られないままであった。この中にはディレッタントのレンセン教授が出版した写真集『日本の顔』と『四月のロシア』と題するアルバムも二冊入っている。前者には雪の降るなかカメラを構えているレンセン教授自身の写真が、そして後者には「アゼルバイジャン・科学アカデミー中・近東研究所のタタール系初級研究員」という題でルミア夫人の写真が収められている。


スラブ研究センターニュース No84 目次