札幌・その後

ジョン・ルドン(ハーヴァード大学ロシア研究センター /センター1992-93年度外国人研究員)

1992年に日本を訪れるにあたって私が自分に言い聞かせていたのは、自分がコロンビア大学の大学院生当時、学ぶにつれて愛するようになっていったあの徳川の日本へ、いよいよ巡礼の旅に出かけるのだ、ということでした。私は努めて当時をしのばせる縁となるものを探し求め、非常にうれしいことに、そうしたものをたくさんみつけることができました。歌舞伎、能、文楽も見物しましたし、京都では古の将軍達の時代さながらに威容を示す金閣寺に圧倒されたものです。
もちろん、日本へ来たのは仕事もするためでもありました。執筆活動をするにあたっては、理想的な環境にいることができました。ある程度隔絶されていて、電話が鳴り響くこともなかったからです。日本の研究者の皆さんは、我々ができるだけ快適な生活を送れるようにと、可能な限りあらゆる配慮を惜しまれませんでしたし、職員の皆さん、なかでも図書の方には非常にお世話になりました。他に二人いらした外国人研究員の方々ともたいそう仲良くなれ、このうちのお一人とは、(家内の)ミロスラヴァと私は、いまだに家族ぐるみで親しくお付き合いしています。
当時、私は帝政期のロシア外交政策について論文を書いておりましたが、その中にはロシアと日本の関係についての部分もあったのです。ロシア人が日本北部に対して抱いていた観点を再構築するためにも、北海道はそれこそ最適の場所でありました。我々は本州の青森まで旅行し、帰り道にはフェリーから、ロシアが最初に領事館を設置した、かの有名な函館湾を眺望する機会を得て感慨にふけりました。稚内へ行ってサハリンの先端部分を目にし、北海道と利尻島の間に横たわる日本海の荒波も見てきました。網走の博物館を訪れては長大なアムール川を描いた地図に感動し、国後島をバスから眺め、1770年にロシア人達が上陸した厚岸へもドライヴしました。七年後、プリンストン大学大学院で、私は別の仕事に取り組んでいますが、あの頃の光景は、今なお鮮明によみがえってきます。こうした事どものおかげで、私の研究は活気に満ちたものとなったのです。書物で読んできた世界を、私は自分自身の目で見てきました。このことから、少なくとも北方アジアに関して私の世界観は全く違ったものになってきました。
すでにおわかりでしょうが、私の札幌滞在は、これまでの自分の人生において、最も重要な経験の一つであり、郷愁とともにしきりと思い出されてくるのです。それから、毎年1月15日になると、若い娘さん達が色とりどりの真新しい着物を身につけ、白雪の上を踏みしめながら、友達と携帯電話でおしゃべりしたていた「成人の日」を思い出すのです。あれこそ、まさに徳川の時代とポストモダンの日本の融合図でありました。
(英語から上田理恵子訳)
 

次へ