チャイニーズ・キャラクターと北海道の虫
孫のドリオン君といっしょに |
スラブ研から採用通知をもらった直後の頃を回想すると、「もう数週間経つと見知らぬ世界へポーンと飛び立つんだなあ」と悟ったあの瞬間がよびさまされます。滞在期間の中ほどをすぎた今思い返すと、我ながら早くスムーズに札幌の生活に適応できたと思います。ただ一つ、町の標識等が読めないことに対する自身の反応は驚くものでした。ニューヨークにいたときから日本語のレッスンは始めていたものの、漢字をおぼえる努力はしていなかったのです。漢字の数の膨大さに比べ、時間はあまりに少ないと思ったものですから。でも札幌に来るとあらゆるものが漢字で書かれているのでうろたえてしまいました。札幌に来て数日後に次のような夢を見ました。私はどこかとてもなじみ深い通りをぶらついています。手にはアパートの鍵を握っているのですが、字が読めないために自分の札幌の住所が見つかりません。そこで持っていた鍵でそこらのアパートのドアを開けてみるのですが、どれもよその家ばかりで自分のアパートの部屋は見つかりません。助けを求めるため言葉をつなげてなんとか文章にしようと奮戦しているときに目が覚めました。この夢は怖くはなくて、不安よりはむしろ満足感を感じました。この夢は同僚のカーチャ・ニコヴァと日中におこなった買い出しからきていると気がついたのです。買い出しでは疑問続出で、カーチャは「あなた、店員にこの生地は水洗いできるか、ってコトバ作って訊いて下さらない?」などと私の方をふりむいて言うんです。その日は午後いっぱいそんなことをしていたので、あきらかに私の心理に影響を与えたようなのです。
何日かして、私は隣部屋の同僚クイリ・リュー氏に、自分の研究対象である1920年代の半文盲のロシア農民に大きな共感を感じていることを打ち明けました。彼らが町に出て文字と付き合わねばならないときどんな気持ちがしたか、身をもって学んだのです。リューさんは漢字の勉強を始めよう、と私を励まし、席に座るとただちに最初の十数個の漢字を教え始めました。最も基本的な標識が読めて過ごしやすくなる程度の漢字を、私が滞在期間中に覚えられるという自信がリューさんにはあるようでした。彼は楽観的すぎると思いますが、リューさんのミニ・レッスンをうけてから書き言葉が前ほど不可解ではなくなりました。以来、漢字の勉強を続けているので、標識を無視しないで読もうと努力できる程度にはなりました。
私が札幌に着いて数週間後に娘と孫息子が訪ねてきました。小さな子供の存在はどんな体験にも新鮮さをもたらします。私の家族は札幌の生活に満足でした。自転車でいろんなところに出かけるのを楽しみ、大好きなお寿司屋さんでお昼に待ち合わせたりしました。3歳のドリオンは外国人宿舎の子供たちとの生活におおいに喜び、札幌に来る前にロンドンで得た英語の達者なふたりのアフリカ人の少年たちとの友情は忘れてしまいました。娘たちはスラブ研の同僚たちとくつろいだおつき合いができました。スラブ研の皆さんは娘たちに自転車で案内してくれたり、ドリオンに虫を捕ってくれたり、いろいろ気づかってくれたのですっかりアットホームな気分で過ごせました。
祇園のまん中での魚捕り |