私が北大の大学院でロシア社会思想史を勉強するために札幌に来たのは1957年の春のことであった。
すでにこのときには日航が一日一便を東京〜千歳間に運航していたが、これで来る40名くらいの人の氏名は新聞の「本日の来道者」という欄に掲載されたもの
だった。航空運賃は大卒の初任給より高かったから、飛行機を使って来るひとは政・財界の主要な人物が多く、それなりに意味もあったのだろうが、汽車で来る
9割9分の「来道者」が無視されているように感じられて、何事によらず東京のご機嫌をうかがっている北海道の政治・経済的風土をあらわしているようだっ
た。
そのころのスラ研は札幌軟石で作られた明治時代の博物学標本室を書庫にして、それについさきごろ加えられたお粗末な事務室、研究室、会議室からなってい
た。研究室より書庫の方が立派で、外からくる人はそのことを指摘してお世辞を言ったが、われわれはこの木造部分を「イズバー」と呼んだ。書庫の屋根にはペ
ンペン草が生えており、それはそれなりに風情があったが、雨が降ると雨漏りがして、なかの本が濡れて困った。数年後に鳥山主任が大学本部にかけあって、ト
タンぶきの屋根をはってもらった。
スラ研の東南の古川講堂のあたりには当時獣医学部があって、実験用の綿羊が横腹に穴をあけられ、それを茶筒の蓋のようなものでふさがれて、草を咬んでい
た。まことにのどかな風景で、「スラ研の牧歌時代」と呼ぶにふさわしかった。しかし、冬になって雪が積もるとそんなにのんきなことばかり言っていられなく
なる。農学校時代からつづいている小さな中央図書館までは、図書館の方で雪掻きをしてくれるが、そこから先の10メートルほどの小道はスラ研だけが使うの
で、その部分の雪掻きはスラ研の仕事だった。当時臨時職員だった芳賀柳二さんが、この仕事をやってくれていたが、雪掻きが終わって、事務室のダルマ・ス
トーブに火を付ける頃には、もう昼飯どきになることもしばしばだった。
1957年当時のスラ研のメンバーは、研究部門の専任には主任の鳥山助教授とロシア経済史の山本敏講師の二人がいるだけで、事務部門には事務官の豊田久馬
彦氏と雇員の更科道子さん、それに臨時職員の芳賀さんの3人がいた。豊田氏はあごひげをはやした60歳すぎの北海道帝国大学出身の農学士で、杉野目学長の
ことを杉野目君と呼んでいた。この人はスラ研にくる前は「北方文化研究室」の事務をとっており、戦時中は北海道のどこかの農業学校の校長をしていたとのこ
とであった。たいてい午後になって桑園の方にある家から自転車でやってきては、大学の付属農場で作られる牛乳を二本受け取って、「では芳賀君、よろしく」
と言って、また自転車で帰って行った。この人は北大でもお荷物として有名な人物だったが、のちに助手になってから私は鳥山主任と一緒に退職願いを出しても
らうために、自宅を一、二度おとずれたことがあった。それまでに何度も「今度、夏の手当てをもらったら退職する」「冬のボーナスをもらたらやめる」と言い
ながら、何年かたってしまっていた。まだ国家公務員に定年がないときで、小使いさんのなかには勤続60年などどいう強者もいた時代であった。
更科道子さんは北海道で有名な詩人の娘さんで、文学部のロシア文学科を卒業してほどない人だった。私はこの女性にはじめてススキノの「小春」という飲み屋
に案内されたが、自分の酒量から「五酌ください」と注文して、あとで外に出てから「いい若いものが五酌だなんて、恥ずかしいったらありゃしない」とたしな
められた。彼女はその後ほどなくして結婚され、松原と姓がかわったが、アルバイトで卒業のおくれたダンナさんはまだ露文科の学生だった。松原道子さんは
1959年から2年間スラ研の助手を勤めたが、仕事は依然として図書の発注と整理をしていた。
芳賀さんは小樽と余市のあいだのフゴッペの漁家の出身で、高校を卒業してから慶応の通信教育を受けながら、スラ研の雑用をなんでもこなしていた。更科さ
んとは同じ歳くらいで、当時24、5歳だった。スラ研は教育機関ではなかったから、教務関係の仕事はなかったが、庶務、会計、図書の仕事があって、それら
を法学部の事務と連絡をとりながら処理していた。本来スラ研の事務は法学部の事務長が最終的責任を負う建前だったが、スラ研の創立のいきさつや、豊田事務
官の人物・経歴、それに法学部から数百メートルも離れていたこともあって、事務の上でも、よく言えば独立的、わるく言えば捨て子のような、見捨てられた存
在だった。
スラ研が大学本部に直属の学内研究室として北大の職員録にはじめて登場するのは1953(昭和28)年度の版からである。これによると当時の学長は農学
部出身の島善鄰氏で、「スラブ研究室」の主任は文学部露文科の木村彰一教授が兼任し、ほかに学内兼任研究員に経済学部の内海庫一郎教授(この人はまもなく
北大を去って東京の私大に移られた)、文学部史学科の鳥山成人助教授、同じ文学部の露文の北垣信行助教授、農学部の山本敏助手の名前があがっている。しか
し、すでにこの段階から学外の研究員として、その後ながくスラ研に関係して、いろいろな面で貢献してくださる4名の名前が見られる。その4名とは、東京大
学教授江口朴郎、東京女子大学教授岩間徹、京都大学教授猪木正道、一橋大学講師金子幸彦の各氏である。
研究室脇で 筆者 更科さん
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*コンスタンチノフ、V.M.(編集、翻訳及び解説)『おろしや国酔夢譚(ロシアの夢)』、東洋人の 文献記録、スモールシリーズ、No.11(モスクワ、 1961);コンスタンチノフ、V.M.「<神昌丸>船員の記録」『東洋学の諸問題』(1959, No. 3)。
今年度の国際シンポの責任者を仰せつかったおかげで、9ヶ月間も国外に出られず、私が推進するプロジェクトがあちこちで火を噴いた。一番深刻なのは、仕
事をやってくれた人にお金を払えないことであった。また、今年度から2年間、文部省から科研費を受けて、ヴォルガ中流域民族共和国の研究をすることになっ
た。そうしたわけで、8月21日から約4週間、ウクライナとロシアを回ってきた。第2シェレメチエヴォ空港に着くと直ちにキエフ行きの切符を買い(すでに
インツーリストは閉まっているので、これ自体結構大変な作業である)、ウクライナに移動した。何と11ヶ月ぶりのウクライナである。キエフでは、とっくの
昔に出していなければならなかったはずの重点領域研究関連の論文集の編集のため缶詰状態であったが、2回だけちょっとした冒険をした。それは、カミヤネ
ツ・ポヂリスィケイ(以下、カミヤネツと略記)市とウーマニ市を、それぞれ1日だけ訪問したことである。
キエフを夜行で発つと、翌朝には、帝政ロシア下のポドリヤ県の県都であったカミヤネツに着く。ここの国家文書館の館長セルゲイ・ボリセーエヴィチは、ポ
ドリヤ県貴族団フォンドの8千単位近い古文書を征服して同県貴族の家系学的研究をおこない、数年前に博士候補資格を取得した。第2次ポーランド反乱以前の
同県の貴族の「99%」はポーランド系であったから、事実上、セルゲイはレーチ・ポスポリタの残照を研究したわけである。私がキエフに住んでいた1997
年にカミヤネツ市を訪問する約束をしていたが、留学末期の異常な忙しさのために果たせず、セルゲイに対して義理を欠いた状況になっていた。残念ながら、カ
ミヤネツに2、3週間滞在して古文書を読むゆとりは当面はないけれども、何があるかだけは知っておかなければならないと痛感していたことも、訪問の理由の
一つである。
朝、駅に出迎えてくれたセルゲイたちと一緒に、文書館がある川中島=旧市街に車で向かう。典型的なソヴェト中規模都市の景観を呈する新市街を通り過ぎる
と、観光客が必ず息をのむ瞬間がやってくる。それは、川中島=旧市街を外界から隔絶する渓谷をわたる橋にさしかかるときである。しかし、私に関して言え
ば、そのときの気分の高揚はわずか数十秒後には裏切られた。旧市街は、第2次世界大戦がその景観に与えた打撃からほとんど回復していないのである。最近、
ポーランドやロシア正教会の援助であちこちで建物の修復が進められているが、おそらくかつての景観が回復することはもはやないだろう。旧宗主国のお金で建
物を修復すること自体、ウクライナにとってあまり名誉なことではないが(実際、批判も強い)、背に腹はかえられないといったところであろうか。まあ、ポー
ランド人は、そもそもこの都市を外国だとはいまでも思っていないが。
川中島を通り過ぎたところに14世紀以来の城がある。渓谷に囲まれた旧市街の地の利もあって、地元の人々は、この城は一度も陥落したことがないと誇って
いる。実際は1672年にオスマントルコに征服されているのだが、「あれは戦って負けたのではない。レーチ・ポスポリタの内部事情から自主的に撤退したの
だ」と言い張るのである。こんにちのカミヤネツは完全にウクライナ人のまちなのだから、当時オスマントルコと同盟し、カミヤネツを攻める側だったヘトマ
ン・ドロシェンコの立場に立って、1672年の出来事を「撤退」ではなく「解放」だと主張する人がいてもよさそうなものだが、やはり地域のアイデンティ
ティーは民族のアイデンティティーよりも上に立つようである。
よく知られているように、27年間に及んだオスマントルコによる占領の名残は、正教教会の横に立っているミナレットである。このため、地元の人は、この
都市をイスタンブールに準える。私が気づいたところでは、この都市がルーマニアやモルダヴィアと隣接していることもあり、(もちろん隣のブコヴィナほどで
はないにせよ)ルーマニア・ファクターを看取することも難しくない。カミヤネツは、ポーランド、トルコ、ルーマニアの三文明が交差する場だったのである。
カミヤネツ・ポヂリスィケイ国家文書館は、レーチ・ポスポリタ時代の県庁舎や市庁舎の一部が残されている「ポーランド広場」に面している。これは、ウク
ライナで唯一、(州都ではなく)郡市にある独立した国家文書館である。別言すれば、フメリヌィツィカ州は、州都フメリヌィツィケイとこの郡市とに二つ国家
文書館を持つウクライナで唯一の州である。その背後には、両市の間の長い闘争の歴史がある。そもそも、独ソ戦前夜の1941年、カミヤネツ・ポヂリスィカ
州の首都は、この市があまりにも国境に近いという理由で、州中央部のプロスクーロフ市(後のフメリヌィツィケイ市)に移された。それでも州名はカミヤネ
ツ・ポヂリスィカ州であり続けたが、1954年、露ウ合同300周年を記念して、州名と州都名の両方がボフダン・フメリヌィツィケイにちなんで改められ、
こんにちに至るのである。こうした経過から、両市は、サンフランシスコとロサンゼルス、サンクトペテルブルクとモスクワのような犬猿の仲となったのであ
る。カミヤネツの文書館は、フメリヌィツィケイ州国家文書館の支部として存続し、「1917年以前の史料はカミヤネツ、革命後の史料はフメリヌィツィケ
イ」という分業が成立していたが、ソヴェト時代の末期、カミヤネツ文書館の建物を教会に返還する必要から、帝政期の史料もフメリヌィツィケイに移す政府決
定が下された。皮肉なことに、これはカミヤネツ文書館の「独立運動」に油を注ぐ結果となり、ついに独立は達成されたのである。
しかし、文書館の建物を(なぜかロシア)正教教会に返還しなければならない事情はいかんともしがたく、文書館は4年前にすぐ近くの旧農業中等学校の建物
に移転した。移転後4年経ったいまもトイレさえ装備されておらず、読者は裏庭の堀立小屋(内にある穴の上)で猛烈なアンモニア臭に咽びながら用を足さなけ
ればならない。しかし、この苦労は報われて余りある。私はこれまで、右岸ウクライナでは、帝政下のヴォルィニ県の首都であったジトーメルの文書館でしか仕
事をしたことがないが、古文書の保存状況が決して悪くないジトーメル文書館と比べても、カミヤネツ文書館の方が勝っている。たとえば、ジトーメルではほと
んど見つけることができない、1840年代の土地台帳改革の台帳の原本が数千単位も保存されている。秋田経済法科大の松村岳志氏が見たら涙(と涎)を流し
て喜ぶだろう。
カミヤネツは、豊かな史料に支えられていることもあり、キエフやリヴィウと並んでウクライナ史学の中心地の一つである。しかし、世界の知的市場へのアク
セスを閉ざされているために、優れた同僚たちと交流していても、どこか弱さを感じざるを得ない。まあ、キエフやリヴィウの歴史家は、いまのところはウクラ
イナ・ディアスポラというバッファーに保護されているため、世界市場に対して往々にして誤ったイメージを持っている(考えが甘い)わけで、そもそもアクセ
スを持たないことと歪んだアクセスを持っていることと、どちらがましかは即座には決められない。とにかく、この構造には風穴をあけなければならない。ウク
ライナ史学がそのポテンシャルを開花したときに我々が得るであろう利益の巨大さは、ほとんど想像を絶するものである。
ウーマニは、キエフからオデッサに向かう幹線道路の途中、キエフからバスで4時間の地点にある。ウーマニは、こんにちではチェルカスィ州の一郡である
が、帝政下ではキエフ県最南端の郡であった。都市の歴史的な格からいって、独立した州を形成する資格は十分あり、実際そのようなプランがソヴェト時代を通
じて何度も浮上しているのだが、州都になるには水資源が足りない(実際、朝と夕方の2、3時間ずつしか水が出ない)ということで見送られてきた。ウーマニ
教育大には、レーチ・ポスポリタ解体後のウーマニ郡の貴族の歴史をテーマとしてカンヂダート論文を書いたイーゴリ・クリヴォシェヤが勤めていることもあっ
て、私が訪問するのはこれが2度目である。前回の訪問は彼の学位論文完成以前であり、また彼の急病のため有名なソフィエフカ公園を見物することもできな
かったので、片道4時間はややつらいのだが、日帰りでまた行くことにした。
ソフィエフカは、レーチ・ポスポリタの崩壊という歴史的激動にもかかわらず(かなり狡猾に立ち回って)マグナートの地位を守ったスタニスラフ・ポトツ
キーが、ギリシア系の絶世の美女で、イスタンブールからパリまでを股にかけて数奇な人生を送った妻ソフィアのために建設した庭園である。彼らが知り合った
ときはいずれも既婚者であり、これは典型的な不倫婚であった。私が予想していたよりも庭園ははるかに大規模であった。ややエキセントリックなソフィアの趣
味に合わせて、幾何学的で西欧風の大花壇があるかと思えば、自然石を積み重ねた、日本庭園を想起させるようなデザインもある。滝の裏側の岩盤をくりぬいて
トンネルにしたり、長大な地下水路を開削して真っ暗な中を舟遊びできるようにしたりといった洒落心が至る所にちりばめられている。これが私的な庭園にすぎ
なかったのだから、広大なウーマニ郡を事実上私領と化していたポトツキー家の財力を思い知らされる(同時に借金だらけではあったが)。スタニスラフとソ
フィアの息子のアレクサンドルが第1次ポーランド反乱に連座してお家お取り潰しとなったため、ソフィエフカも国有財産となってこんにちに至るのである。
既にキエフでは、二日行列に並ばなければ自分の口座からドルを引き出せないような状況であったが、9月4日にモスクワに移動すると、信頼できると定評の
あったモストバンクにおいてさえドルを受け取ることは全く不可能であった。当初、担当の銀行員は、5日間待てばドルが受け取れるかのような口振りであった
ので、モスクワにいても1文の得にもならない私がモスクワで待つことにした(でないと協力してくれたロシア人に対して謝金が払えなくなる)。ところが、翌
週には、中央銀行がルーブリ下落を阻止する目的でルーブリを市中銀行に下ろさないという非常手段に出たため、ドルどころかルーブリでも自分の口座からお金
を引き出せなくなった。事実上の口座の凍結である。食うにも困る状況になったので、出張を切り上げて帰国しようかとも思ったが、どうしても当初の予定通り
イジェフスク(ウドムルチヤ共和国の首都)で調査したかったので、筆舌を絶する苦労をしてルーブリを掻き集め、イジェフスク行きの飛行機に跳び乗った。皮
肉なことだが、こんな芸当ができたのはルーブリ下落のおかげである。
外国人は預金を母国に送り返すことができるが(もっとも、私が送り返した6千ドルは、1ヶ月以上経ってもまだ東京三菱銀行に到着しないけれども)、ロシ
ア人は、凍結された口座を9月1日付の1ドル9ルーブリという笑止千万なレートで預金銀行に移すことしかできない。これは、事実上、国民の外貨預金の半分
以上を国家が没収することを意味している。毎朝、旧ゲルツェン通りのモストバンクの入り口には長蛇の列ができた。ビジネスマンは国家に抵抗しても無駄と
知っているためかほとんどおらず、行列の9割方はいかにも庶民的な人々、なかでも年金生活者である。これら年金生活者は、平均して1000ドル程度の定期
預金を持っていたそうである。これは節約すれば1年近く暮らせる額であるから、彼らが必死になるのも理解できる。モストバンクのような高級銀行のフロアが
年金生活者で埋まる光景は異様であり、ここまでロシア経済はドル化していたのかと今更ながら驚かされる。ガイダール改革のおかげで貯金を没収され、MMM
等の鼠講に騙された国民が辿り着いた最後の拠り所がドルであった。しかしそれも、再び国家に没収された。どうしてここまで強引なことをするのか。
モスクワは力強く改造されている。しかしその建設ブームからは、市場原理の勝利だとか民間活力だとかは感じられず、強力な意志の力を感じるのである。逆
説的ではあるが、モスクワが一個の意志に基づいてここまで改造されるのはスターリン時代以来ではないだろうか。既得権主義とインクレメンタリズムとによっ
て後期社会主義は本来の活力を失った。そこでガイダール改革が一切の既得権をご破算にし、その後の真空にルシコフ市長の計画資本主義体制が登場したと考え
るのは、穿ちすぎだろうか。ルシコフがキリスト救世主寺院を短期間で再建した手法は、よく知られているように、国中の資本を吸収したモスクワの市中銀行に
対して、免税と引き替えに寄付を誘導(強制?)するというものであった。キリスト救世主寺院の再建は宗教復興であるということで一見肯定的な現象、国民の
預金を没収するのは否定的現象であるが、通底するのは、私的所有権をはじめとする人権への尊敬を欠いた独特の資本主義観ではなかろうか。
先の首相任命危機の最中、スヴェルドロフスク州知事エドワルド・ロッセリは、「いったん決めたことを覆すようなら、それはもうボリス・ニコラエヴィチで
はない」と言ったが、これは別にロッセリだけの認識ではなかった。かといって、毎日為替レートが10%ずつ下がり、物価が10%ずつ上がっている状況で、
チェルノムイルジンを支持するわけにはいかない。キリエンコ任命のときのような醜態をこの情勢下でまた曝したら、野党は一巻の終わりである。そうしたわけ
で、国家会議(下院)の廊下は、党派を問わず、解散と選挙準備の進捗状況についての会話で持ちきりだった。チェルノムイルジンの首相任命を再度否決した下
院の討議を、私はトヴェリ通りの近くのある瀟洒なバーで聞いた。生中継のテレビの前にはいかにもクルトイ、恰幅のよいビジネスマンや蝶ネクタイ姿のバーテ
ンダーが集まって、文字通り手に汗握り、息を飲むような風情で、次から次に展開されるド左翼の弾劾演説を聞いている。銀行口座の凍結は、こうした階層の政
治意識にも影響したのであろうか。
私がウドムルチヤ共和国に着眼したのは、著名な1997年1月の連邦憲法裁判所決定ゆえにである。これは、地方自治制を事実上廃止した同共和国の国家権
力機関法(1996)を、連邦憲法裁判所が無効と認めたものである。一見矛盾するようだが、ウドムルチヤは、ロシア連邦で三つしかない、議会主権制を採用
しているリージョンであり(他の二つはダゲスタンとモルドワ)、その点でも注目に値する。ウドムルチヤの悲劇は、そこで起こる諸事件がタタルスタンやバシ
コルトスタンのアナロジーで捉えられることである。私自身、上述の憲法裁判所決定が出されたときには「あーあ、また民族共和国が...」としか思わなかっ
た。意外なことだったが、現地調査してみると、ウドムルチヤの指導者たちの態度は(立場と党派を問わず)、これまで私がつきあってきたリージョンのそれと
の比較で一、二を争うほど民主的なものだった。詳細は将来の拙稿に譲るとして、特に強い印象を受けたのは、フィン・ウゴールの自己認識がもたらす抑制的な
効果である。つまり、ウドムルト人は「穏やかで、思慮深く、自虐的とも言えるほど内向的な民族であり」、「自殺率が高い」。「原始宗教を奉じてきたフィ
ン・ウゴールの政治文化には、トルコ語族を特徴づけるハーンの観念がなく、したがって、フィン・ウゴール系の民族共和国には、タタルスタン、バシコルトス
タン、サハに見られるような独裁者は生まれにくい」といった議論が、ウドムルチヤ人からも、また現地のロシア人からもよく聞かれるのである。現在の「国家
元首」(共和国議会議長)の独裁的傾向を批判する野党指導者でさえも、「我々のところではタタルスタンやバシコルトスタンとは違って」というフレーズを枕
詞のように繰り返す。私にはこうした素人人類学の妥当性を判断する能力はもちろんないが、注目すべきなのは、こうした素人人類学の自縛作用であろう。また
その自縛が良い方向、つまり自制的な政治文化や穏やかな民族間関係に向かっているのであれば、目くじらを立てることもあるまい。知り合いの若い友人(ウド
ムルト人)から、「ウドムルチヤでウドムルト人であることはちょっと恥ずかしいことだ」と言われたときはさすがにショックだったが。
旧体制下のウドムルチヤ経済はスヴェルドロフスク州並みに軍事化しており、しかもスヴェルドロフスクのように第3次産業が発達する条件もないので、イ
ジェフスクは正真正銘の経済危機に苦しんでいる。まちのメインストリートでさえまばらにしか車が通らないのは、北の隣人、キーロフ市におけると同様であ
る。他方、商品搬出規制をはじめとする家父長的な住民保護政策がとられているため、概して物価が高いウラルのリージョンとしては例外的に、ウドムルチヤで
は物価が安い。イシュ川を堰止めて作った貯水湖に臨むイジェフスクの畏怖堂々とした景観はウリヤノフスク市のそれによく似ており、メッシーで賑やかなサ
マーラやエカテリンブルクと対照的である。いつも思うことだが、首都の景観は住民の深層意識に作用し、そのリージョンの政治的な嗜好をも左右するようであ
る。
共和国の最南端のカラクリンスキー郡で調査する必要があったので、(共和国議会に車を出してもらって)カマ川まで足を伸ばした。こんにちのタタルスタン
とバシコルトスタンに挟まれた角のような形をしたこの郡はイワン雷帝時代の戦略要地であり、雷帝はここに、バシキール人よりも先にモスクワ国家に帰順した
マリ人を軍事入植させた。そのため、いまだに、郡の第二の民族集団は(ウドムルト人ではなく)マリ人である。その子供たちは、マリ語の他にロシア語とタ
タール語を自由に使いこなすそうである。それにしても、カマ川を見るのは何年ぶりだろうか。運命の巡り合わせで、カマ川とまた暫くはつきあうことになりそ
うである。「女の夏」(小春日和)の晴天のブルーと川面のブルーとの間で白い水鳥が踊り、モスクワでのいらいらした数日を忘れさせてくれるような思いがし
たのだった。