スティーヴン・コトキン
(プリンストン大学/センター外国人研究員)
アメリカのロシア研究において、1980年代末期から1990年代初頭にかけての劇的な事件を 取り巻くムードは、当初の驚愕から軽薄な多幸症、それに続く深い幻滅、やがて一般的な困惑 へと、上下に激変した。もちろん、似たようなムードの曲線は、ロシア研究で知られる他の国々 でも跡づけられた。しかし、ロシア研究がアメリカほどに深く国の骨組みの一部をなしている ところは多分ほかになかった。アメリカのロシア研究は、他の事柄はさておいて、何万人とい う研究者や、さらに多数の官吏を擁する、その物量によって際だっている。一国(アメリカ) のこれほど多くの人々が他国(ロシア)の研究から生活の糧をえることができたとい うのは、20世紀を理解しようと試みる未来の世代の関心を、疑いもなく惹きつけるだ ろう。
1991年以後、アメリカのロシア研究者のなかで、政治学者ほど批判にさらされた者 はない。政治学者は、共産主義の終焉とソビエト連邦の崩壊を予言できなかったとし て、こっぴどく非難を浴びたのである。しかし、古い世代の政治学者たちがそうした 攻撃に反論したり、職業の「危機」を悲嘆するのに相当の時間を費やしていたとき、 若手の政治学者たちはロシア政治の研究を完全に再活性化させてきた。集中的な フィールドワークと地域研究(しばしば一つの州以上の)は、新しい(他の国々の研究に共通 のものでありながらソ連研究で使われなかったような)方法論の適用とあいまって、データと 分析の水準をかなり引き上げることになった。1980年代末期、AAASSの典型的な年次大会を 特徴づけていたのは、タイトルに「ゴルバチョフ」という単語のついた長々と続くパネルだっ た。やがて、新時代が到来し、ほとんどどのパネルでも「エリツィン」が論じられているよう に見えた。今や、AAASSの政治学のパネルは、選挙キャンペーン、エリートの再編、そして 憲法といったテーマをカバーしている。かつて政治学の最も後進的なサブディシプリンの一つ とみなされがちだったもの(ソビエト政治)が、今やより前途有望なサブディシプリンの一つ とみなされているもの(ロシア政治)にとって代わられた。たしかに、政治を説明するのにし ばしば経済のモデルを援用しているディシプリンでは、私有財産の利害が現にロシア政治にお いて演じている巨大な役割が、皮肉なことにまだ十分認識されていない。さらにいえば、新し い研究のトゥールやテーマの領域とともに、「移行」理論の愚かしさを超えた新しい説明図式が 生まれる可能性も残されている。にもかかわらず、1989-91年以後の傾向は、再活性化に向かっ てきたといって間違いない。それは、年長の研究者たちの反撃と防戦、そしてアメリカのメディ アが嬉しそうに紹介する彼らの概念上の混乱によって見えにくくされている一つの発展である。
アメリカのロシア史学者たちも、最近説明しなければならないことが多かった。今までほぼ 30年間、アメリカの20世紀ロシア史研究における二つの主要な傾向といえば、10月革命を労 働者の自己動員の純粋な現れとして描き、1920年代を悪しきスターリンとその仲間の根無し草 一派によって不必要に中止させられた社会民主主義的な進化の時代として描く努力だったと いっても誇張でない。これら二つのあい矛盾しない傾向に、年長の研究者たちの多くは彼らの キャリアを賭けてきた訳であるが、そのいずれもが、1989-91年以後に生起したことに照らす と、容易には擁護しえなかった。さらに、スターリンの革命を純粋な「下からの」運動を体現するものとして描く、第3の対照的な、過去20年間の傾向がある。この傾向は、職業を占領し 続けていて、しかも悲しいことに、進行中の研究を大いに励まし続けているのだ。これら三つ の傾向、すなわち十月の回復、ネップの賞賛、そして推定される下からの1930年代革命は、す べて社会史と結びついていた。こうして、1989-91年の事件によって惹き起こされた再検討は、 長く優勢だった社会史のサブディシプリンそれ自体が信用を落とすことを意味した。
同時に、若手の歴史家たちは、政治学におけるその対応者と同様、相対的に無視されてきた 研究テーマの所有権を主張してきた。とくに宗教、文化、民族といった問題がそれである。こ れらの歴史家たちが従来アクセスできなかった豊富なアルヒーフ資料の恩恵をうけたのはもち ろんだが、そうした資料の利用可能性が示唆するのは概念上のブレイクスルーの可能性である。 しかし、概念上のブレイクスルーの代わりに、年長の歴史家によるパラダイムの叩きのめし− その結果は、荒っぽくいえば社会史に対する政治史の勝利、そして社会的平等に対する市場の 勝利に帰した−が共産主義とは何であり、革命とは何であるのか、その意味を問うて格闘して いる若手の歴史家のあいだでも、観察される。多少の移り気ののちに、多くの学者が、古手も 若手も、蒸し返しはじめたのは、深く絡み合った解釈の問題、自分の世界観と(意識的または 無意識的に抱いている)歴史理論に関連した問題は、アルヒーフだけでは解決できないという、 在り来たりの事柄であった。そのうえ、メディアにのる紹介とは裏腹に、最も重要なアルヒー フ(クレムリンのアルヒーフがそうである)の多くは基本的に閉ざされたままであり、必ずし もすべての資料が保存されてはいないし、決してすべての事項が記録に残されたのでもない。 要するに、広範囲の(不完全であるならば)アルヒーフ公開によってもたらされたのは、われ われのソビエト時代に対する理解の新たな夜明けではなく、政治史に有利、従来の長く優勢な 社会史には不利という力関係の変化にともなった、むしろ古い議論の否応なしの継続である。 ロシア革命について歴史を書くことは、フランス革命について歴史を書くことと一致してきた。
常により大きな資料アクセス可能性と比較的に高い分析レベルによって特徴づけられる1917 年革命以前の時代のロシア史研究についていえば、1989-91年の事件による影響は、はるかに 小さいものであった。文学の研究者も、政治学者やソビエト時代を研究する歴史家に比べれば、 あの大変動からうけた影響は、はるかに小さい。ロシア語の散文、とくに社会主義リアリズム の再評価は、1989年より前に進行中であった。(たしかに、さまざまな時代を扱う文学研究者 は、たとえ時としてロシアの市民である研究者によって資料が調査されるのを待たねばならな いとしても、以前より広いアルヒーフ利用で恩恵をうけた。)1980年代末のブームを経験した のち、ロシア語トレーニングに登録する学生が減ったのも、少なからぬ意味がある。しかし、 他のスラブ語、とりわけチェコ語は、登録が増えた。果たしてロシア語とロシア研究は、アメ リカのスラブ世界研究における圧倒的で帝国主義的な役割を、もはや維持できないのだろうか。 悲しいかな、多分できないのであろう。
明らかに、1989-91年の状況は、ソビエト時代に関心をもつ者のあいだでより深くその効果 が感じられたにしても、ロシア研究に影響を及ぼさずにはおかなかった。共産主義の終焉とソ ビエト連邦の崩壊が世界の終焉と偉大な新時代の開幕のいずれをももたらさなかったように、 これらの事件とそれに先行する時代の研究は、黙示録と先験的な勝利のいずれをも必要としな い。このことは十分に明確であろう。しかし、より不明確なままに残されているのは、テニュ アを取った学者間の果てしない内戦と、アルヒーフの公開で解釈の問題は解決するといった混 乱した意見は別として、1989-91年以後のロシア研究における大部分の傾向がはっきりとポジ ティブであったかどうかである。
人は、これらのポジティブな傾向(集中的なフィールドワーク、地域研究、新しい方法論、 より広いテーマの幅、大きく広がった資料的基礎)に励まされて、アメリカの学者たちによる、
ロシアを含む外国研究の背後の理由に対するある種の反省を期待しさえするかもしれない。わ れわれアメリカ人は、他国の政治、歴史、そして文化の研究から、何を学ぼうと望んでいるの だろうか。われわれアメリカ人が、自らの経験や教育からそのような研究に持ち込んでいる仮 定とは何であろうか。第三者からみると、ソビエト連邦(および、より少ない度合いにおいて 後継者たるロシア共和国)にとりつかれたアメリカの強迫観念を如実に物語る膨大な記述は、 アメリカ文明の本性と仮想上の優越を明示するための無意識的な衝動を反映しているのかもし れない。この点で、1989-91年は分水界を全然意味しないだろう。われわれは、依然としてわ れわれの時間と空間の所産なのである。
(原題は“Reflections on the Study of Russia in the United States since 1989-91”原暉之訳)