スラブ研究センターニュース 季刊 2009 年春号 No.117 index

旅順ソ連軍烈士陵園参観記

石井明(東京大学名誉教授 2008年度センター客員教授)

 

中国遼寧省の遼東半島の先端に位置する旅順にソ連軍烈士陵園がある。面積48,000平方メートル。中国で最大の外国人墓地だ。筆者が東アジアで見 てきた限りでは、外国兵を祀った陵墓としては、太平洋戦争時、フィリピンで戦没した米国兵を弔ったマニラの墓地と並びたつ広さだ。

実は2年前、2007年2月にも旅順に調査に行ったことがあるのだが、その時はソ連軍烈士陵園は外国人には開放していない、と参観を断られた経緯がある。 この陵園に限らず、当時は参観禁止となっているところが多かった。昨年、旅順の開放が進んだと聞き、今年3月、新学術領域研究「ユーラシア地域大国の比較 研究」の分担金を使って大連・旅順にでかけた。烈士陵園を参観したのは3月15日。入場料は10元だった。

陵園の正門の前にソ連軍烈士記念塔がある(写真1)。1945年、ソ連が日本に宣戦し、中国東北解放のために戦った際、犠牲となったソ連軍将兵を讃えるた め建てたもので、もともとは大連市の中心部、スターリン広場にあった。1951年に建設を始め、1955年完成。石碑に刻まれた追悼文「永恒的光栄」(栄 光はとこしえに)は郭沫若の肉筆だそうだ。10年前、1999年、大連の建市100周年の際、中国当局はこの塔を30キロ以上も離れた陵園正面に移し、つ いでに広場の名も人民広場と変えてしまった。東北各地にソ連軍烈士記念塔はあり、高さはハルビン駅頭の記念塔の方が高いのではないか、という印象を持った が、こちらの記念塔ははるかに横幅がある。移転は難事業だったのではないだろうか。移転前、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどの了解は取ったそうだが、 中国のロシアに対する微妙な感情が窺える。

写真1 ソ連軍烈士記念塔
写真1 ソ連軍烈士記念塔

この記念塔が移転してきたおかげで、陵園の正門(写真2)が小さく見えてしまう。中に入ると、陵園のガイドの詰め所があり、陵園について簡単な説明 をしてくれる。まず正門の左側の一角が「飛行員墓」だ(写真3)。ガイドも、朝鮮戦争で死んだ飛行員の墓だといって、墓石の上部に刻まれた飛行機に注目す るよう促した(墓に飛行機が刻まれているのは一部だけで、むしろない方が多かったが)。

写真2 ソ連軍烈士陵園正門
写真2 ソ連軍烈士陵園正門

写真3 飛行員墓の一角門
写真3 飛行員墓の一角

旧ソ連は公式には朝鮮戦争の参戦国ではない。しかし、空軍を派遣して支援したことは衆知の事実で、内戦以来のソ連赤軍の戦死者の統計集にも、朝鮮に空軍を 派遣して、戦死者299名(内、将校138、下士官・兵161)を出したことが記載されている。不謹慎のそしりを免れないであろうことは承知しているが、 筆者は墓石に亡くなった日付が刻まれていることを期待していた。米空軍との戦闘の状況を考えるうえで参考になるからである。日付が刻まれていたのは 1953年の大部分の戦死者だけで、他の年の戦死者は没年しかわからなかった。墓には氏名と生年と没年が刻まれていたが、朝鮮戦争と関連付けられる文言は ない。但し、写真3のように墓の下部に「友の戦いのために死んだ」と刻まれた墓や、「友と同志の戦いのために死んだ」と刻まれた墓が一部にある。わずかに 「友」や「同志」という表現の中に国際主義的任務を果たす途上、亡くなったことが示唆されているだけだ。

筆者の取ってきたメモを整理すると、「飛行員」のブロックの墓の数は80で、1950年の戦死者が7、51年も7、52年が40、53年が26であった。 この数字からは、ソ連空軍が朝鮮戦争が勃発した1950年から米空軍との戦闘に加わっていたこと、1952年が戦闘が激しかったことをうかがい知ることが できる。

1953年の墓の多くは戦死の日付が入っており、7月27日の休戦協定成立を控えた6,7月も戦死者が出ているのが目立つ。6月24日も1929年生まれ の若い兵士が戦死しているのだが、『当代中国空軍』(中国社会科学出版社 1999年)でも、同日、中国の「志願軍空軍」と「友空軍」(中国東北の防空作 戦支援のためソ連が派遣した航空兵力を中国側はこう呼んだ)が米空軍と戦ったことが記載されている。中朝国境の鴨緑江にかかる大橋を破壊するため、同日、 米空軍100機あまりの編隊が攻撃をかけてきた。志願軍空軍第6師団16連隊、第15師団45連隊、第4師団12連隊は命を受け、32機で飛び立ち、「友 空軍」ととともに反撃した。志願軍空軍は鉄山地区(新義州の南方、海岸沿い)で米空軍の援護飛行機群(爆撃機を援護していたF-86の編隊であろう)と遭 遇し、激烈な空中戦を演じたというのだ。おそらく、この時の戦闘で戦死したのであろう。休戦協定成立の半月前、7月12日死去という軍人もいる。

ソ連空軍機が米空軍機と死闘を繰り広げた北朝鮮の西北部(中朝国境の新義州から新安州にいたる地域)は、西側ではMig Alley(ミグ横丁)と呼ばれた。主としてここでの戦闘でソ連軍将兵299人が戦死し、その内、80人が旅順の烈士陵園に葬られているわけだ。協定成立 後の9月、10月に亡くなった者の墓もある。あるいは戦闘中、負傷して、それが原因で後日、亡くなったのかもしれないが、はっきりした理由はわからない。

ところで、この陵園は朝鮮戦争の戦死者だけが葬られているわけではない。正門から向って「飛行員墓」の右側に「紅軍墓」がある。中華人民共和国建国後、旅 順に駐留していた将兵及びその家族の墓と考えられる。枯れ草や雑木に覆われている墓もあり、また風雪にさらされて判読が難しい墓もあった。そういう墓は指 の感触で没年を確定しようとしたので、やや不正確かもしれないが、小生のメモを整理すると、個人の墓については1950年没が1、51年が2、52年が 56、53年が72、54年が45、55年が4あり、没年不明が12あった。メモに は1957年11月11日没の墓が1つという記述が残っていたが、ソ連軍は1955年5月26日、旅順から撤退を完了しているので、これは写し間違いかも しれない。この他、合葬の墓が7つあり、52年に7人合葬した墓が4つあったが、弔った年も人数も確認できなかった墓が3つあった。結局、墓の数が 200、葬られているのが少なくても227ということになる(葬られている人数が確認できない合葬墓については2人と計算して)。

「飛行員墓」と「紅軍墓」の先に進むと、「ソ軍墓地」があり、1945年の対日戦時及びその後の旅順駐屯時に亡くなった兵士・家族の墓が葬られている。そ のやや先のちょうど陵園の中心にソ連軍烈士塔がある。高さ15メートル。1955年に作られたものだ。参観を終え、帰り際にガイドの詰め所で1元で買った 陵園紹介のパンフによると、1945年以降、亡くなった軍人とその家族2030人(軍人1408人、その家族622人)が1323の墓に眠っている。

しかし、この陵園にはさらに奥がある。日露戦争時、戦死したロシア軍将兵14,873人の遺骸が葬られている。また、この陵園はもともとはロシア人墓地と して作られたもので(ロシアは旅順を1898年に租借地としていた)、ロシア正教徒の墓もあれば、プロテスタントとおぼしきキリスト教徒の墓もあり、小さ な教会として使われていた建物も残っている。

さて、旅順からソ連軍が撤退することが決まったのが、1954年9月末のフルシチョフの訪中時で、翌55年5月31日以前に撤退することを約した。フルシ チョフは北京からの帰途、旅順に立ち寄り、日露戦争の戦跡を視察したが、その際、ロシアの将兵の勇敢さを讃え、ツァー政府の腐敗を攻撃した。その直後、旅 順のソ連軍は旅順の人民政府に、日露戦争記念塔や日露戦争時のロシア海軍の提督マカロフ記念塔などを作りたい、費用はソ連側が負担し、彫刻した像はモスク ワから運んでくると伝えた。周恩来は、我々の領土に日露戦争の人物を記念する建築物を建設することには同意できない、として、レーニンの日露戦争評価を引 き合いに出し、中国の土地で2つの帝国主義が戦った戦争においてどちらかが正しく、記念に値すると考えるわけにはいかない、とソ連大使に通告した。その代 わりに建てたのが、この陵園の真ん中にあるソ連軍烈士塔であり、旅順の新市街のソ連軍勝利塔であり、旅順博物館正面の広場の中ソ友誼塔であった。

ソ連軍勝利塔も中ソ友誼塔も参観できたが、前者は1955年3月、日本帝国主義に戦勝し、反ファッショ戦争に勝利した10周年を記念して建てたもので、高 さは45メートルと記されていた。後者は1955年2月、定礎式を行い、題字は周恩来自ら書いた、と記されている。1956年10月、完成し、1957年 2月、落成式典が行われた、とあったが、大理石をふんだんに使った立派な建造物だ。後にソ共中央は、中国側に、日露戦争に関係する記念物を建設しないとい う決定を下したと伝え、さらに中国がソ連軍烈士塔、ソ連軍勝利塔、中ソ友誼塔を建ててくれたことに感謝した、という。前述の、大連からはるばる運んできた ソ連軍烈士記念塔を含め、旅順の青い空に聳え立つこれらの記念塔をみていると、中ソ友好の時代にすでに双方の間に微妙な感情のずれが生じていたことに思い を致さざるをえない。

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