スラブ研究センターニュース 季刊 2008 年冬号 No.112 index

エストニア、タルトゥ大学訪問記

家田修(センター)

 

筆者は2月4~5日の日程で、エストニアのタルトゥ大学を訪れました。訪問の目的はタ ルトゥ大学と北海道大学の間で学術協定を結ぶための準備です。東欧を長年専門にしてきた 者として恥ずかしい話ですが、バルトを訪れるのは今回が初めてでした。しかもタルトゥ大 学の研究者とはすでに前から付き合いがありましたので、一度はエストニアを訪れてみたい と思っていました。そうした個人的な思い入れもあり、今回のエストニア訪問はきわめて短 かったとはいえ、とても強く印象に残るものでした。

旧市庁舎
旧市庁舎

エストニアの首都タリンは美し い街だと聞いていますが、残念な がら今回は素通りで、何も見る余 裕もありませんでした。訪問地タ ルトゥはエストニア南部の中心地 で、タリンに次ぐエストニア第二 の都市です。タルトゥは新市街に 現代的なショッピング・モールや 構想建築が築かれる一方、旧市街 はいまだお伽の国のような風情を 残す北欧の(東欧の?、あるいは 中欧の)古都です。

ここでエストニアの歴史につい て講釈する準備はありませんが、 タルトゥ大学の歴史はスウェーデン、ドイツ、ポーランド、ロシアの狭間におかれた地域の 複雑さを良く伝えています。大学の基礎は1632 年にスウェーデン国王グスタフ二世が築き、 その後、ドイツなどから教授陣を招くのですが、18 世紀には戦乱のなかで長い空白があり、 大学としての再建はロシア皇帝アレクサンドル一世によってなされました。1802 年のことで す。その後、タルトゥ大学は19 世紀を通じてロシアで唯一のドイツ語大学として発展し、自 然科学や社会科学の分野で多くの人材を育成しました。その意味では帝政ロシアを代表する 大学であったとさえ言えるかもしれません。しかし第一次世界大戦後、エストニアが独立す ると、タルトゥ大学はエストニアにおける学術の中心となります。しかしドイツ語ないしロ シア語で蓄積された学問の伝統を一朝一夕に全てエストニア語に置き換えることは不可能で あり、しばらくの間、ロシア語、ドイツ語、ラテン語、フランス語でも授業がおこなわれた とのことです。

さて、エストニアはソ連崩壊で引き金的な役割を果たしましたが、独立後、多くのロシア 系住民を抱え、とりわけロシア人の多い首都タリンでは民族的な対立がしばしば表面化して います。タルトゥ市はロシア系住民が10%ほどとのことで、今回の滞在では特に目立った動 きはありませんでした。しかし大学関係者との会話の中から、エストニア人が常にロシア人 を意識しながら生活していることがうかがい知れました。

ところでタルトゥ大学については事前にいろいろな話を聞いていましたが、百聞は一見に しかず、素晴らしい大学です。そもそもタルトゥ大学は国の規模に比べ、巨大といえる大学 です。人口150 万ほどの国で1万8000 人の学生と1000 名近い研究者を擁しています。国の 全大学生の四分の一がタルトゥ大学生という計算です。神学、法学、医学、哲学、生物・地 理学、物理・化学、教育学、体育学、 経済・経営学、数学・コンピュー タ学、社会科学の11 学部、工学、 海洋学、物理学の三研究所を始め として多くの付属施設を擁する、 堂々たる総合大学です。大学の様々 な部局が旧市街を中心に配置され る様は中世ドイツの大学町を思わ せます。タルトゥ市の人口が10 万 人、つまり市民の5人に1人がタ ルトゥ大学人ということですから、 大学と市はまさに一体化していま す。イギリスのオックスフォード やケンブリッジがやはり同様な規 模の町ですから、大学町には適当な大きさの空間があるのかもしれません。

タルトゥ大学の本部
タルトゥ大学の本部

タルトゥ大学は昨年、創立375 年を祝いましたが、ロシア時代に作られた大学本部の建物 はローマ様式で、エストニアがたどった歴史を感じさせます(写真参照)。また本部の横に位 置する「カフェ」は、その名前から想像できないほど立派な「福祉厚生施設」です。ハーヴァー ド大学の大学直営クラブに比肩するとまでは言いませんが、日本の旧帝大系の大学が最近開 業し始めている学内レストランを思い起こすと、趣も規模も、タルトゥ大学の方がはるかに 日本の大学を凌駕しています。経営は民営化されているとのことですが、料理の味もまずま ずで、北海道大学もタルトゥ大学との提携ではまずこうしたところを取り入れてみてはどう かと、スラ研出身の某副学長に進言しようかと考えました。

さて事実上、一日しかなかったタルトゥ滞在ではヴェーロ・ペッタイ、エイキ・ベルグの 両歴史家と旧交を温めるとともに、第一の目的である学術交流協定を結ぶ話を研究担当副学 長クリスチアン・ハッレル氏、国際交流室長シルィエ・ユプルス女史、そしてユーロ・カレッ ジ所長ゲルト・リューディゲル・ヴェーゲマルシュハオス氏とおこないました。スラ研が単 独で締結する部局間交流協定なら話は簡単ですが、今回目指したのは大学間の協定であり、 相手側がどのような学問分野を求めているのかを知らなければなりませんでした。いろいろ 話を聞いているうちに、相手側は物質化学、バイオ工学、遺伝子工学などに強い関心をもっ ていることがわかり、北大もその分野では力のある研究者がそろっていると伝えました。実 はこの数年、筆者はCOE 拠点リーダーという立場上、北大の学内COE 審査会などに出席す ることが多く、聞きかじり程度にせよ、北大の理系における研究動向について多少の知識を 持っていました。それが幸いしました。

エストニアは確かに小さな国ではありますが、一つの大学に人的な資源を集中して、対外 的に大きな存在感を作り出していることには感心しました。よく知らなかったのですが、ヨー ロッパの大学もある種の格付けには熱心なようで、タルトゥ大学はバルト三国の中では唯一、 Coimbra という欧州古参大学グループ( オックスフォード、ケンブリッジ、ハイデルベルグ、 ボローニャなど38 大学が加盟しています。東欧ではプラハ大学、クラコウ大学、ヤッシ大学、 ブダペスト大学が加盟) に名を連ねているそうです。またユトレヒト・ネットワークという EU 加盟国の主要大学グループにも入っているとのことです。日本との間でもすでに関西外 国語大学と早稲田大学との間で協定を締結しており、日本でこの大学に目をつけたのはスラ 研が初めてではなかったようです。

さて今回の訪問先の一つとして先にユーロ・カレッジを挙げました。これはタルトゥ大学 がEU と共同で設置した施設で、英語による教育をおこない、その所長は名前からも分かる ようにドイツ人です。このユーロ・カレッジはヨーロッパ中から学生を集めていますが、教 育科目の中には「EU とロシア」という教科が立てられているそうです。大学院のコースと しても「EU とロシア」専攻があり、まだ学生数は多くないようですが、今後はタルトゥ大 学付設のユーロ・カレッジにおける目玉の一つにしたいようです。先に名前を挙げたペッタ イ教授たちもユーロ・カレッジで講義をおこなっています。このコースは学期単位で聴講す ることも可能で、日本人聴講生も歓迎とのことです。また「ロシアとアジア」という視点か ら講義をおこなってくれる日本人の研究者が来てくれるなら、講師陣として受け入れたいと のことです。どなたか手を上げる方はいらっしゃいませんか。

最後に余談ですが、今回、当初の予定ではタルトゥ大学で講義もする予定でした。しかし 結局、実現しませんでした。というのは成田発のKLM 便が落雷事故で欠航となってしまっ たからです。それでも代替にパリ―プラハ経由でタリン行きの便があてがわれ、何とか2月 3日の深夜にタリンにたどり着けるはずでした。しかし代替便もパリ到着が遅れ、結局、プ ラハ泊りになりました。この時点でタルトゥに到着できるのはどんなに早くても、4日の夕 方になってしまうことがわかり、4日午後に予定されていた講義は中止となりました。それ でもプラハに一泊するもの悪くはないかなと、気を取り直したのですが、プラハ空港で待っ ていたのは無責任な係員の対応でした。そもそもプラハ空港に到着したのが23 時過ぎという 事情もありましたが、空港のカウンターはどこも閉まっていました。案内所だけに人がいた ので事情を説明すると、チェコ航空の事務所と電話がつながりました。ところが返ってきた 返事は「あなたのことについては何も連絡を受けていない。ホテルを手配せよという指示も 受けていない。自分の独断でホテルなど予約できない。あなたは自分で近くのホテルに行っ て泊まり、明日の朝、領収書を持って行ってKLM のカウンターに行けばいい」と言うのです。 このような場合、これまでの経験からしても航空会社がホテルを用意するのが常識です。こ ちらがどんなに食い下がっても、我関せずの様子でした。しかたなく、とぼとぼと歩いて空 港近くのホテルを探しました。幸いにも、空き室があり、何とかベッドに横たわることがで きました。しかしお詫びの言葉もなく、深夜に客を一人で空港から放り出すというのは、いっ たいチェコ航空は何を考えているのかと腹立たしいかぎりでした。

翌日、プラハ空港のKLM カウンターに行くと、「申し訳ないが、この件の処理は日本に帰 国後していただくしかありません」との答えでした。少なくとも「申し訳ない」のひと言が 聞けたのは良かったにせよ、なぜホテルの手配がなされていなかったのか、何らの釈明もあ りませんでした。帰国の経由地、アムステルダム・スキポール空港のKLM カウンターでこ の件を訴えると、「全ての記録はオンラインで繋がっているので、提携しているチェコ航空が 知らないわけはない。ちゃんとホテルを手配できたはずだ」とのことでした。結局、チェコ 航空の職員はこうした手順を知らなかったのか、それとも深夜だったので面倒なことはした くなかっただけなのか、それともKLM の連絡ミスなのか、真相はわからずじまいです。

4日朝、プラハからの出国のさい、今年からシェンゲン条約が東欧のEU 加盟国でも概ね 発効しているので、出入国検査はなくなっていると思いましたが、今までどおり国境審査官 によって出国の判が押されました。シェンゲン加盟国間では出入国手続きは省略されるので はないかと審査官に尋ねると、少し間を置いて、「いや空港では判を押すことになっている」と、 とってつけたような返事が返ってきました。あの律儀なチェコ人はどこへ行ってしまったの だろう!

タリンに着くと、入国審査係官は最初、日本人なのでどうしたらよいか分からない様子で した。しかし結局、「あなたはどこから来たのか」という正当な質問を発し、筆者が「プラハ からだ」と答えると、「それなら問題ない」ということで、判など押されることもなく、すん なりと入国できました。(もっとも、旅券をみればそれもわかることですが。)6日朝、タリ ンからの出国のさいも、直接の行き先であるアムステルダムが経由地で、最終目的地が東京 だと分かると、出国審査官はちゃんと出国の判を押しました。本当にそれでよいのかなと、 多少、筆者はいぶかったのですが、アムステルダムでは確かに出国の審査はなく、タリンで の出国手続きは間違っていなかったのだと確認できました。

もちろん、これでチェコとエストニアの比較をしたつもりはありません。念のために。と もあれ、エストニアそしてタルトゥ大学は今後、スラ研が企画している大型プロジェクトが 実現すると、しばしば訪れる地となりそうです。

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