スラブ研究センターニュース 季刊2006年冬号 No.104 index

ジェンダー、記憶、トラウマ的過去

エルザ-バイル・グチノヴァ(ロシア科学アカデミー民族学・人類学研究所/ センター2005年度外国人研究員)

 

ジェンダーという観点は、歴史の復元においてエスニシティや人種、階級と同じくらい重要な分析カテゴリーになりつつある。三十 年前には男性住民の経験が唯一のものと考えられ、女性は歴史の背後に取り残されていた。というのは歴史は男性によって書かれ、《彼の歴史》 (history)であったからである。アカデミックな空間でのジェンダー研究が確立した後で、人類の歴史は《彼女の歴史》(herstory)、女性の 経験を考慮して書かれた歴史によって補完された。

Elza-Bair Guchinova
著 者

ジェンダーのカテゴリーは、現代の学問によってあまり研究されていないが証言者が存命である出来事、例えば、全体主義的スター リン社会の経験とその記憶の分析の際に特に有効である。スターリン時代のソ連邦の抑圧的体制はソ連社会にとってトラウマ的なものを数多くもたらしたけれど も、私の研究の関心は民族単位で行われた14件以上の強制移住に向けられている(ここにはサハリンから日本へのアイヌ人と日本人の強制移住は含まれていな い。この問題はロシアの研究ではあまり知られておらず、研究者が現れることが期待されている)。

大規模な強制移住におけるジェンダーの次元は、女性と男性の生き残りと記憶のストラテジーの違いを明らかにしてくれる。例えば カルムィク人(1943)とチェチェン人(1944)が移住させられた時、どちらも同じような貨車で運ばれた。それは、同一の輸送条件と思われたかもしれ ない。しかし、カルムィク人の社会的秩序は破壊されており(ほとんどすべての成人男性は戦争に行き、伝統的な性役割の社会的構造は時代の要請に答えていな かった)、老人はロシア語を知らないことが多く、軍人たちとうまく付き合っていくことができなかった。だが状況は迅速な反応を必要とし、それを行ったのが 若い女性たちであった。結局、追放生活の最初の二年間に基本的なジェンダー秩序が入れ替わり、カルムィク女性は夫の不在の間に現実の家長となった。多くの 男性が戦場で死に、他の者は障害者となって戻ってきた。無権利の13年の間に、生き残りの戦略は地域社会への急速な同化、すなわち社会的生産と社会生活に おける女性の積極的な役割を目指す方針と結びついた。カルムィクの女性はリーダーとしての技能を獲得し、「正常な」生活に戻った後もそれを放棄することは 困難であった。


チェチェン人はカルムィク人のように、計画的動員の他に二個民族師団を派遣しなければならないような動員の対象にはなっていなかった。チェチェン人 の強制移住の際には大勢の成人男性がいた。それ故にチェチェン人の社会・文化の秩序は以前のまま残り、人々が移送される車両はシャリーア(イスラム法)に 従い性別により分離された。車両の女性用空間では食物が作られ、子供の世話をし、男性用空間では政治的議論が行われ、決定が採択された。チェチェン人の男 性は男性性の伝統的な形態を保持することができたし、一家の稼ぎ手、保護者としてとどまった。それ故に彼らは、伝統的なジェンダー秩序を持ったまま故郷に 戻ったのであった。

人間の振る舞いとトラウマ的事件の受容において、大きな意義を持っていたのは宗教であった。仏教はカルムィク人の男性・女性に 従順さと忍耐を教え、人生の不幸のあらゆる責任が彼ら自身に課せられた。ムスリムとしてチェチェン人は自らの共同体の外に罪の責任を移し、侮辱的な仕打ち を異教徒との戦争の用語で理解した。このようにしてイスラム教は、伝統的なジェンダー役割を支えつつ、体制に対する抵抗へと男性を鼓舞したのであった。
記憶のメカニズムでは人間の身体性が特別の役割を果たす。身体と結びつく全てのものは長いこと記憶される。これは何よりもまず飢え、寒さ、食べ物の味であ る。身体の記憶は知性の記憶より単純である。しかしここでも重要なのは人間の性である。性的暴力の恐怖、妊娠、授乳、乳幼児の世話、そして時には子供の放 棄-これらは全て女性の記憶の領域である。

男性と女性は違った風に記憶する。長期間、記憶から締め出されていたトラウマ的な思い出を打ち明けるのは困難なことだった。そ れが可能になった時でさえも。しかしそれとともに生きていくのもまた難しかった。過去を思い出さずにどうやって生きていけるだろうか?研究が明らかにして いるように、男性はしばしば滑稽な話を思い出し、女性は沈黙することを好んだ。悲しみと笑いという組み合わせ-恐ろしいことを思い出す時、笑いはそれを追 体験し、恐怖を克服するのを助ける-は、おそらく極限状況にある人間の行為の普遍的な現象なのだろう。類似のことが例えばアルメニアのスピタク地震の被災 者に見られることが人類学者によって指摘されている。喜劇的な世界では記憶には為すべきことが何もない。忘れるために笑うのである。あるいは別なことなの かもしれない。つまりシベリアでの移住生活から何かを思い出したい時、「おかしくて、楽しい」出来事だけを物語れば安全であったからだ。
ペレストロイカまで、公共の場でカルムィク人の強制移住に関する意見が-合法的(クレムリンへの手紙)、あるいは非合法的な形式(プライベートな会話)の どちらでも-主に男性によって述べられてきたことは注目に値する。女性は不当な運命についての自分の感情を素人歌謡の中で表現することができたが、作曲者 たちもまた、その咎でラーゲリに送られた。

女性の沈黙を乗り越えるのは困難なことだった。最もドラマティックなエピソードについては女性は意識的に口を閉ざした。これは女性の寡黙さの表れであっ て、それはあらゆる点から見て、普遍的なものだ。同じようにアルメニア人の女性は1915年のジェノサイドとして有名になった出来事について口を閉ざし、 同じように日系アメリカ人の女性は強制収容の悲劇について沈黙を守った。人類学者の竹沢泰子はこの沈黙を、凌辱された女性が自分の受けた暴行について保つ 沈黙と比較した。

トラウマとなる思い出は簡単には打ち明けられなかった。だがこれは、若い世代が「人生を学ぶ」ためのみならず、元特別移住者自身にとっても行うべきこと だった。というのも記憶は、それが書き記された後で初めて、「耐えられる」ものになりうるからである(ただし同時に、記憶を耐え難いものにする局面が取り 除かれ、真実味が薄れる)。

人間は常に自分の人生を同じように思い出すのであろうか?研究が示しているのは、それぞれの話は記憶の再録なのであり、そのメッセージは聴衆と調和させら れ、差し迫った必要性に向けられるということだ。社会生活の民主化の後、多くの人が、40年以上も沈黙を守ってきた事柄を語る必要を感じた。大勢が新聞へ の手紙を、幾人かは強制移住についての回想を書いた。しかし、書き言葉では筆者は、情報の流れを管理し、読み直し、余分だと思われる部分を削除することが できる。例えば、新聞に宛てられた手紙は大抵、フォーマルな構造を持っており、幾つかの紋切り型を使用している。それらの手紙が似通ったものであるのも無 理はない。手紙の大部分は男性によって書かれたが、強制移住に関する女性の手紙は実際には男性のものと変わりなかった。なぜなら男性のテクストが公共の叙 述の標準となっていて、女性の体験はその基準の外にあったからだ。

口頭の、自発的な話というのはもっと個人的なものであり、その中により多くの情報を含んでいる。同時にそれらの語り自体、単なる事実の集積や情報の量なの ではない。これらの強制移住のテクストはその言説としての性格が興味深いのである。まさに事実と評価が重要な記憶の形成過程の史料として、そして修辞的に 組織された空間として。その空間の中で原則となるのは、表現形式の語用論であり、トラウマと記憶の言葉を反映し創造する語彙的、文法的リソースである。語 りは語り手と聞き手の知覚の経験を組み立て、記憶を組織し、分節し、はっきりとした目的を持ってそれぞれの出来事を配列する。
女性と男性は違った風に強制移住を物語る。男性の語りに特徴的なのは、政治的事件の参照と政治的指導者への言及、そして新聞的語彙である。彼らは生産過 程、技術的細部、機器の構造を詳細に描写することを好む。女性は仕事上の友人、隣人、芸能人の名前、服装の細部を思い起こす。彼女たちに重要なのはエモー ショナルな世界であり、それ故に、喜び、恐怖、不安は女性の話には不可欠の特徴である。

男性は自分の話によって世界の中の自己を、女性は自分の周りの世界を確立させるのである。

(ロシア語より佐藤亮太郎訳、宇山智彦監修)


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