スラブ研究センターニュース 季刊 2006 年冬号No.104
2006年 |
|
6月10−11日 |
比較経
済体制学会2006年度全国大会 於一橋大学 詳しい情報はhttp://wwwsoc.nii.ac.jp/jaces/index.html |
7月5−7日 |
スラブ
研究センター夏期国際シンポジウム |
9月28−10月1日 |
中央
ユーラシア学会(CESS) 於ミシガン大学 |
10月20−22日 |
2006
年度日本ロシア文学会全国大会 於京都大学総合人間学部 |
10月28日 |
比較経
済体制学会秋期大会 於神戸大学 |
11月16−19日 |
米国ス
ラブ研究促進学会(AAASS)年次大会 於ワシントンDC |
2010年 |
|
7月23−27日 |
ICCEES
(国際中東欧研究協議会)第8回世界会議 於ストックホルム |
センターのホームページ(裏表紙参照)にはこの他にも多くの海外情報が掲載されています。
ハプスブルク帝国の帝国議会Reichsratは、ハプスブルク家諸領邦の身分制議会にその起源を持つとされる。1848年のオーストリア三月革命
に際して召集された憲法制定帝国議会Reichstagは7月に開会したが、10月にウィーンがヴィンデシュグレーツ将軍の手に落ちると、モラヴィアのク
レムジルに移り、憲法草案の審議を続けた。しかし、政府は翌1849年3月にこれを武力によって解散し、欽定憲法を公布した。さらに、この憲法も発効する
ことなく、1851年末のシルヴェスター勅令によって廃止された。
1859年のイタリア戦争での敗北後、1860年に出された十月勅令は、領邦議会の代表からなる帝国議会Reichsratを設置し、これに限定的な立法
権を付与したが、翌1861年の二月勅令はこれを修正し、皇帝の任命する議員から成る貴族院Herrenhausと領邦議会の代表から成る衆議院
Abgeordnetenhausの二院から構成される、より広範な立法権を持つ議会として、これを規定し直した。この帝国議会は同年5月に開会された
が、ハンガリー、クロアチア、トランシルバニアなどはこれに反対して代表を送らず、また、開会後に、チェコ人、ポーランド人がここから退場するなど、議会
運営は軌道に乗らなかった。
普墺戦争(1866年)の敗戦の翌1867年、帝国はハンガリー王国との和協(アウスグライヒ)によって、オーストリア=ハンガリー二重君主国として再編
成された。帝国の西半分のオーストリア側と、東半分を占めるハンガリー王国は、共通の君主を戴きながら、別個の政府と議会を組織し、共通事項である外交・
軍事・財政以外はそれぞれが別個におこなうこととなった。オーストリア帝国議会は、1867年これを認め、同年末に発布された十二月憲法とよばれる新憲法
の下で再出発した。
新帝国議会においては、皇帝の任命する議員から成る貴族院Herrenhausと領邦議会の代表者から成る衆議院Abgeordnetenhausの二院
の権能は対等とされ、皇帝には依然として議会の解散をはじめとする多くの大権が留保されるなど、絶対主義的な性格が濃厚な体制がとられたが、このオースト
リアで実質的にはじめての立憲君主制は、第一次世界大戦末までのほぼ半世紀にわたって維持された。ただしこの間、衆議院選挙制度は、1873年に領邦議会
議員の互選から直接選挙制に移行し(ただし4つのクーリエから成る制限選挙)、1896年には、これに普通選挙により選出する72議席が追加され、
1907年にはクーリエ制が廃されて選挙制が男子普通選挙に統一されるなどの改正を経たが、ナショナリズムの勃興期における多民族国家を背景にした議会運
営には困難が多く、法案も予算も審議できない機能不全の状態に陥ることも稀ではなかった。
本センター図書室は、ハプスブルク帝国史研究上の基本史料として、Olmus社の製作した上記オーストリア帝国議会議事録
(Stenographische Protokolle über die Sitzungen des Herrenhauses des
Österreichischen ReichsratesおよびStenographische Protokolle über die
Sitzungen des Hauses der Abgeordneten des Österreichischen
Reichsrates)のマイクロフィッシュ版(それぞれ698枚と5229枚)の購入を2004年から進めていたが、昨年秋に完結させることができ
た。これが、東欧史研究に関する北大のポテンシャル向上に資することを期待したい。
なお、本資料は、国内では他に早稲田大学図書館、および慶応大学三田メディアセンターでも所蔵する他、九州大学には原版のかなりの部分が揃っているとの情
報がある。
2005年10月から2005年12月までの3ヵ月間における、センターのホームページへのアクセス数(但し、gif・jpg等の画像形式ファイ ル を除く)を統計しました。
|
全アクセス数 (1日平均) |
うち、 邦語表紙 アクセス数 (1日平均) |
うち、 英語表紙 アクセス数 (1日平均) |
国内からの アクセス数 (%) |
国外からの アクセス数 (%) |
不明 (%) |
---|---|---|---|---|---|---|
10月 | 300,918(9,707) | 14,306(461) | 2,811(91) | 75,005(25%) | 178,363(59%) | 47,550(16%) |
11月 | 330,791(11,026) | 14,473(482) | 2,821(94) | 128,586(38.9%) | 164,050(49.6%) | 38,155(11.5%) |
12月 | 298,063(9,615) | 13,049(421) | 2,846(92) | 95,827(32%) | 177,777(60%) | 24,459(8%) |
『スラヴ研究』第53号は、審査の結果、以下の原稿を掲載することになりました。2006年春の刊行予定で作業を進めています(掲載順は未定)。
レフェリーの皆様のご協力のもと、順調に改稿作業が進みました。今回は重厚な問題提起の論文が多いことが一つの特色です。残念ながら不採用となった方も、
次回以降ぜひ再挑戦して下さい。
次の第54号の原稿締め切りは、2006年8月末の予定です。投稿希望者は、6月末頃までにセンター大須賀までお申し込みください。
『19世紀ロシア文学という現在』が21世紀COE研究報告集No.
10として、11月付けで発行されました。これはスラブ研究センターの21世紀COEプログラムの協力を得て2005年3月に東京でおこなわれた同名のシ
ンポジウム(主催は19世紀ロシア文化研究会:http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slav/19vek.html)
の成果をまとめたものです。21世紀という現在からロシア文学の古典を新しい視点でとらえなおそうとする野心的な試みであり、主に大学院生などの若手研究
者が中心となって企画したことも特徴的でありました。センターからは望月研究員が参加しました。みなさまからご批評いただければ幸いです。
なお本報告集の内容はセンターHPに掲載されております(http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no10/contents.html)。
目次は以下の通り。
19世 紀後半の精神医学とその発想:精神医学者ウラジーミル・チシ(1855-1922?)による文豪の生涯と作品の分析を手掛かりに | |
久野康彦
|
|
日本人の宗教意識とドストエフスキー研究 |
|
小林銀河
|
|
19世 紀ロシア文学におけるイエズス会のイメージ:『カラマーゾフの兄弟』読解への ステップ | |
望月哲男
|
|
19世紀前半のロシア文学とピクチャレスク概念 |
|
鳥山祐介
|
|
『現代 の英雄』:日付の一致をめぐって | |
山路明日太
|
|
トルストイとゴーリキー、『幼年時代』研究:自己と他者のまなざし | |
大川良輔
|
|
19 世紀ロシア文学におけるリアリズムとコロニアリズム:ベストゥージェフ=マルリンスキーのカフカース・テクスト | |
|
乗松 亨平
|
チュッチェフの作品における「不可解さ」をめぐって:19世紀ロシアに見られる、政治思想と抒情詩の「他 者」 | |
坂庭淳史
|
|
19 世紀小説と現代」 | |
番場 俊
|
『日本とロシアの研究者の目から見るサハリン・樺太の歴史(I)』が21世紀COE研究報告集No.11として1月に刊行されました。これは、21世紀 COEプログラム「スラブ・ユーラシア学の構築:中域圏の形成と地球化」およびそのサブプログラム「ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア」の一環をな すとともに、北海道大学から2005年度重点配分経費の支援をも得て実施しつつあるプロジェクト研究「北海道とサハリン州:相互理解に資する歴史記述を求 めて」の中間報告書の形をとっています。昨年11月1~2日にセンターとサハリン国立大学の共催により組織された第1回日露サハリン・樺太史シンポジウム (別項参照)に提出された13編のペーパーを中心に編集し、さらに寄稿論22編、資料紹11編を収録しました。目次は以下の通りです。
寄稿 |
|
維新政 府の成立とロシアのサハリン島政策:プリアムール地域の問題に関する特別審議会の議事録を中心に | |
麓慎一
|
|
戦前期樺太における日本人の政治的アイデンティティについて:参政権獲得運動と本 国編入問題 |
|
塩出浩之
|
|
特集 シンポジウム「ロシアと日本の研究者の目で見るサハリン(樺太)の歴史」 |
|
日本に
おけるサハリン島民、1905年 |
|
原暉之
|
|
日本統治下南樺太経済史研究における近年の動向 |
|
竹野学
|
|
日本統
治下樺太における学校政策の端緒:初等教育機関を中心に |
|
池田裕子
|
|
貝塚良雄と樺太庁博物館 |
|
井澗裕
|
|
ロシア
の研究者の業績にみる樺太研究について |
|
リシツィナЕ.Н.
|
|
樺太庁期における南サハリンの金融財政制度 |
|
アーリンЮ.Ю.
|
|
樺太庁 期の南サハリンにおける石炭産業 | |
テチュエワМ.В.
|
|
樺太庁期のサハリンにおける鉄道輸送の歴史 |
|
イパチエフН.В.
|
|
1905~1945 年における北サハリンと樺太における医療の状況に関する比較分析 | |
チェルニコワО.Ю.
|
|
樺太における宗教活動 |
|
ポタポワН.В.
|
|
北サハ リンと樺太における国民教育の状況比較(1905~1925年) | |
スコロバチИ.Р.
|
|
サハリン州国立文書館資料に見る第22日本人捕虜収容所について |
|
ドラグノワЛ.В.
|
|
チェー ホフのサハリン島住民調査資料の学術的刊行 | |
サヴェリエワЕ.И.
|
|
資料紹介 |
|
1890年チェーホフによるサハリン住民調査資料 |
|
望月恒子.
|