最初に、秋野氏に会ったのは、多分、伊東孝之先生のお宅で、ふたりが修士論文を終えたばかりのころだったと思います。もう20年以上も前のことになります。同い年で、小樽と札幌という違いはありますが同郷だったこと、それに扱った時代こそ少し違いますが、秋野氏と私はチェコスロヴァキア史に関する修士論文を書き、しかもそこではエドヴァルト・ベネシュという人物が重要な存在だったこともあり、親しいつきあいが始まりました。
その後、秋野氏はロンドンに、私はプラハに留学しました。この時期、私は資料収集を目的に2度、家内といっしょにロンドンを訪れ、その都度、秋野氏のお宅に居候させてもらいました。家族を含めたつきあいはここから始まったと思います。秋野氏の手ほどきを受けながらキューガーデンの英国政府文書館で史料を探した数週間は、これまでの私の研究生活の中でも最高の日々に数えられます。その行き帰りに、それぞれの研究内容を語り合いましたが、思い起こすとそれはふたつのモノローグが果てしなく交互に続いていた、というほうが正確かも知れません。
ロンドン滞在期間中に秋野氏は英ソ関係史という領域に関心を広げ、それが博士論文になりました。その後、モスクワ滞在を経て、秋野氏はソ連、ロシアの現状分析に仕事の比重を移し、マスメディアでの活躍も始まりました。他方、私はチェコスロヴァキア史という狭い世界にとどまりましたので、ふたりの研究志向にはかなりの差ができました。しかし、両者の研究が接点を失ったというわけではありませんでした。
今、思うと、どうも私の研究は秋野氏の研究を後追いをしている節があります。1980年代後半から、私はチェコスロヴァキアのロンドン亡命政府の研究を始めましたが、これは秋野氏の博士論文とかなり多くの接点を持つ内容でした。1988年あたりから、私も現状分析を始めましたが、いうまでもなくそれ以前から秋野氏は東欧も含めた社会主義世界の現状分析を続けていましたので、遅れ馳せながら私は秋野氏の世界にたどり着いたということになります。もちろん、私の守備範囲はチェコスロヴァキア、せいぜい無理しても東中欧世界にかぎられ、「スラヴ・ユーラシア世界」を視野に入れていた秋野氏の世界のほんの一部に接点を作ったというにすぎませんでしたが。でも、この時期からさまざまな形で秋野氏との共同研究が始まったといえます。そして、この3年間は、私が所属する北大スラヴ研究センターが組織した大型の研究プロジェクトで、同じ研究チームに属して研究をすることができました。
1993年に秋野氏はプラハの東西研究所に籍をおいて研究活動をしていましたが、その時にスロヴァキアとロシアの関係に注目する論文を発表しました。その見解は明らかに私の持っていた見通しと異なる内容でした。その時の自分の見解を修正する必要はないと思っていますが、秋野氏が注目していた論点は私の視野の中にはありませんでした。少なくとも現在までの推移にかぎるならば秋野氏の洞察は的を得ていて、私は自分のホームグランドで手痛い失点をしてしまいました。
今回、比較的長い在外研修の機会を与えられた私は、あえてプラハではなくブラチスラヴァをおもな滞在地に選びました。もちろんそれだけとはいえませんが、秋野氏の存在をかなり意識した選択ともいえます。秋野氏に一矢を報いようと準備を始めた矢先に、突然私は標的を失ったことを知りました。
ロンドン留学時代の秋野氏の歴史研究は、かなり徹底した一次史料の調査にもとづいた上で、既存の議論にとらわれない視点を打ち出すという性格を持っていました。ときとして危うさ感じることもあり、そうした批判をしたことを記憶していますが、その議論のダイナミックさに大きな魅力を感じていました。最近の研究会などの場では、あえて私は秋野氏の「地政学的」な論点を批判しつづけました。それは、秋野氏が、やはり徹底した現地情報に依拠した議論を展開していて、イデオロギー的な「地政学」とは異なるものを感じ、十分に議論に値するものと私には思われたからです。このどちらの議論も、ついに中途半端のまま突然終わってしまいました。
残念ながら、最後に秋野氏に会ったのがいつだったのか、思い出せません。研究会でいつもいっしょだったし、頻繁に札幌に現れた秋野氏は、当時センター長室で書類の山と格闘している私を同情の目で見ながら、短い会話をして帰ることが多かったからです。
私だけではないと思いますが、人と別れの挨拶をするとき、どちらかといえば再会を前提としたあいまいな言葉を交わすことが多いように思われます。しかし、秋野氏はいつも、どこかにさびしさを含んだ優しい微笑みとともに、「さようなら」と明瞭に別れの言葉を述べていたのが今でも印象に残っています。
私もまねをしてみます。豊さん。「さようなら」。
ブラチスラヴァにて (1998年8月5日)
林 忠行(北大スラブ研究センター)