コムソモールの改革の試みと崩壊の始まり
1987〜1988年

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はじめに

 本稿の直接の目的は、1987年から88年にかけてコムソモールがどのような改革の試みを行い、それがどのような結果をもたらしたかを考察することである。
 この時期はグラスノスチが進み、これまで隠ぺいされてきた体制の矛盾が一挙に暴露されるようになった。体制に対する批判と不満が公然と表明されるようになり、ペレストロイカの機運が盛り上がる一方で、体制の全般的改革と歴史の見直しが着手された時期でもある。社会主義の再生と体制内改革の実現に、人々が期待と希望をかけた最後の時期と言えるだろう。こうした時代状況の中でコムソモールは、党からも一般社会からも活動の根本的見直しを要請されるようになったのである。
 ソ連の崩壊と現在に及ぶその後の混乱を目の当たりにすると、ペレストロイカからソ連崩壊までは、一直線に続く転落と解体の過程であったかのように認識することは当然かと思われる。しかし、本稿が対象とするこの時期はペレストロイカへの期待が先行し、本格的改革がそれを追うように始まった時期であり、ペレストロイカの矛盾や限界が事実上決定的となって人心が体制を事実上見限る以前の、いわば「ペレストロイカの花の時代」であったといえるだろう。
 体制内改革の可能性があったことを無視せず、それでもなおソ連崩壊に帰結した現実を直視して、この時期の様々な改革の試行錯誤とそれらに対する社会の反応の推移を丹念に追ってこそ、ソ連崩壊に帰結した歴史的過程とその意味が本当に理解できるはずである(1)。本稿がこの時期を論考の対象とするのは以上のような問題意識と、ペレストロイカの意義がすべてソ連崩壊に還元されてしまうような議論に対し、この時期の実証的研究を疎かにするべきではないという意思に基づいている。
 次に、コムソモールを採り上げることの意義について触れなければならない。まず第一に、コムソモールが体制内の社会組織として独自の位置を占めていたことが指摘できるだろう。
 コムソモールは1918年に創設され8月クーデター後解散されるまで(2)、その時期に応じてソ連体制で果たす役割に変化があったものの、一貫してソ連体制を支える重要な組織であり続けた。コムソモールは労働組合と並び称される「社会団体」であり、その加入者数、加入率において党を上回る巨大組織であった。同時に、23歳以下の新規入党者は、すべてコムソモールの推薦によるという規定があるように(3)、党の予備軍としての役割も果たしていた。これらの事実を見る限りでも、その「名目上」の存在の重要性は明らかであろう。
 他方、ソ連の政治・社会においてコムソモールが「事実上」どのような位置を占めるかについては、党のコントロールする官製団体に過ぎず、巨大な加入者を擁しながらも活動が形骸化している点が強調され、ペレストロイカ以前の時期、コムソモール独自の動向や自律性について論じられることはほとんどなかった(4)。特にブレジネフ期には、就任時のコムソモール第一書記の年齢は40歳を越え、コムソモール中央委員会メンバーでさえなかったチャジャリコフが第一書記に選出されるなど、そこにはコムソモールの自律的な決定や意向が表れているとは言いがたかった。
 しかし、ゴルバチョフの掲げたペレストロイカは体制の根本的改革と社会生活全体の転換を目的としていた。当然のこととして、コムソモールの自主性、自律的活動、そして新たなアイデンティティが要請されるようになった。その過程で、体制の一つの柱を構成する巨大組織のコムソモールがどのように変容し、如何なる方向に向かうかは、ペレストロイカの帰結を左右する重要なファクターの一つであったといえるだろう(5)。ソ連体制の特徴とペレストロイカ以降のその変化を考察する際に、コムソモールの組織やその変動を分析することは重要な手掛かりとなるはずである。
 そして第二に、コムソモールが「青年層」の組織であることが研究対象の意義として挙げられる。ペレストロイカ以降のソ連の体制変動が、上からの改革の意図を乗り越え自己展開する、下からの社会動向につき動かされたことは周知の事実である(6)。そうした下からの変革の動きとしては、労働者のストや民族戦線の結成などに耳目が集中した。しかし、青年層の「非公式集団」やサブカルチャーが、体制の正統的イデオロギーを掘り崩して人々の社会主義離れを加速し、市場経済と消費への期待を膨張させた側面も見落としてはならない(7)。コムソモールとコムソモールがコミットする領域は、こうした青年層の下からの動向が立ち現れる場でもあるのである。いわばコムソモールは、これまでソ連の体制を分割していた「公式の世界」と「非公式の世界」が互いに変容しつつぶつかり合う、極めてダイナミックな場となったのである。
 以上のような観点から1987〜88年のコムソモール改革の試みを検討し、それがどのような可能性を孕み結果として如何なる事態をもたらしたのか、そして88年以降の体制の変動と最終的な崩壊にどのように結びつくのかを以下の本論において考察したい。

1. ペレストロイカの開始とコムソモール

(1)ペレストロイカ直前のコムソモール観

 グラスノスチが進み、ペレストロイカが経済の加速化から政治・社会全体の改革を目指す「第二の革命」にさらに深化するにつれ、党や行政機関に対する批判や不満の声はますます高まりを見せた。コムソモールもその対象として例外ではなく、かなり早い時期から社会の厳しい批判に晒されていた。『コムソモーリスカヤ・プラウダ』や『ソベセードニク』(8)といったコムソモール関連紙誌ばかりでなく、他の紙誌においてもコムソモールに関する批判記事が続々と掲載されるようになり、1986年後半頃にはコムソモールの権威を回復するためになんらかの対処が必要であると党やコムソモールの指導部が認識せざるをえないほどに、コムソモールへの不信感は深刻化していったのである。
 その背景には、積年の問題であるコムソモール・キャリアの官僚主義や活動の形骸化に対する一般の人々の嫌悪感や不満があった。若者のコムソモール離れは常態化し、その機能不全は慢性的であったが、当然ながらペレストロイカに到るまで党がこうした問題に無関心で、コムソモールの組織と活動の見直しの必要性を全く考えていなかったわけではなかった。事実、ブレジネフ死後の80年代前半になって、党は改めてコムソモールのてこ入れの必要性を認識するに到った。その直接的な契機は79年のアフガニスタン戦争の勃発である。これによって米ソの新たな対立が生じ、青年層に対するイデオロギー教化政策の再検討が現実問題として浮上したのである。
 その一環としてロック音楽など西側文化を規制し、同時にコムソモールが青年層の余暇により組織的に介入する方向が示された。具体的には、非公式のロックバンドのレコーディングやテープの流布、コンサート活動に関する取締が厳しくなり、ロッククラブやディスコなど公式の場での音楽・娯楽活動の規制が強化されるようになった。そしてこの結果生じる青年層の余暇の空白を埋めるために、公式の余暇活動や施設の充実が図られたのである(9)。そしてその一貫として、青年層を監督しその教化に責任を負うべきコムソモールの組織運営を見直すことが必然的に課題となった。
 84年7月の党中央委員会の決定はこのような事態の流れに沿ったものであり、前述したようにコムソモールの組織と活動の見直しをイデオロギー教化政策の成否の点から示唆したものである(10)。この決定はその後のコムソモール改革の過程で再々根拠として引用され、少なくとも88年頃までは、形式上この決定を援用して諸改革が実施されていった。この決定の中には、青年層のイデオロギー教化を改善するためのコムソモールの役割といった旧態依然とした問題意識と永年の論調の繰り返しが見られる一方で、コムソモールに対する信頼に代えて、これまで党が過度に規制的・監督的態度を取ってきたことに対して自己批判が見られた(11)。これは、党とコムソモールの関係の見直しの第一歩といえるだろう。
 また、「共産主義建設におけるコムソモールの役割の増大は、コムソモールの組織的・政治的強化、即ちすべての組織単位、特に末端組織の自律性・戦闘性の強化を必要とする」との認識が示され、末端組織の権限強化がここで初めて改革の指針として採り上げられた。これらは加入登録の手続きの厳格化とともに、これまでのコムソモールの組織原則と慣行を大きく変えうる論点であった。
 さらに、コムソモールが国家や社会の運営に積極的にかかわっていくために、コムソモールの権利の行使を保障することや、後に触れるコムソモール突撃建設工事(ударная комсо-мольская стройка)や学生建設隊(студенческий отряд)の改革などが検討課題として列挙された。84年7月決定が示唆するコムソモールの構造改革はあくまでもイデオロギー教化活動の改善を目的とする限定的なものながら、その中にはペレストロイカ以降に展開するコムソモールの新しい役割の模索と同様の問題意識が見られるのである。

(2)グラスノスチと変化の胎動

 ゴルバチョフの書記長就任以降86年後半頃まで、コムソモール改革に関する新たな決定は特に採択されなかった。この時期にあっては、ペレストロイカそのものがまだ確固たる政治構想となっていたわけではないし、今後のソ連においてコムソモールをどのように位置づけるべきなのか、ゴルバチョフら党指導部を始めコムソモール指導部そのものにおいても明確な路線が決定されていたわけではなかったといえるだろう。
 この時期、コムソモールに直接言及したゴルバチョフの発言で、実質的な内容のある部分はほどんど見あたらない。それまで青年層の教化活動に対して単独で責任を負ってきたコムソモールを学校や労働組合、家族など他の社会組織と併置し、コムソモールはその責任を他の社会組織と共有分担する存在であると明言した83年4月の発言が数少ない例である(12)。これはコムソモールを教化活動の重荷から解放し、独自の政治・経済活動の余地を与えたペレストロイカの志向を予期させるものであった。また、86年のクラスノダールでの発言では、コムソモールを含む社会組織の権限を拡大する必要性が訴えられた(13)
 他方、コムソモール指導部の改革構想、意識改革についても顕著な兆候はなかった。85年5月のコムソモール中央委員会決定の中で、生き生きした組織的・教育的活動への「急激な転換」を果たすべく、より一層の努力が求められるという表現が見られたが、それを具体的に跡付けるような活動の変化はなかった。85年11月の第11回コムソモール中央委員会総会で、イデオロギー担当書記と飲酒による規律違反を指摘された他の中央委員2名が解任されたことが、コムソモールが多少なりとも組織の見直しを進めている唯一の兆候といえる程度であった。
 しかしながら、コムソモールを取り巻く環境は着実に変化していた。イデオロギー教化の改善という掛け声は、引き締め政策が緩和される過程でかつてのようなスローガンとしての意義を失いつつあり、グラスノスチによって次々暴露されていく現実と理念の乖離、それに対する糾弾の声にその主張もかき消されがちであった。当のコムソモール自身が、小説や映画に描かれた極度にネガティブなコムソモール像が示すように、イデオロギー教化を担えるほどの権威を青年層の間に保持しえていない現状が明らかになったのである。
 こうした事情によって、規制的・監督的基調は維持されつつも、若者の音楽演奏グループ活動や非公式な自律集団に対するコムソモールの対応に、若干の変化が見られるようになった。若者の関心や流行について不勉強であるコムソモールの活動家や、正当な理由もなく音楽演奏グループの資格をはく奪した事例が批判されるようになり、飲食・娯楽施設で、独立採算制に基づいてバンド活動を許可する事が将来的に可能かどうかが検討課題となった(14)
 コムソモールが改革へ重い腰を上げ始めたのは、86年に入ってからであった。それは年初早々書記局の決定を発し、その中でマスメディアのコムソモール批判に直接応えて自己批判するという形で現れた。85年11月29・30日両日の『ソヴィエツカヤ・ロシア』紙に掲載された記事は(15)、それまで何度かコムソモール批判を繰り返してきた同紙の他の類似記事の場合とは異なった対応をコムソモール指導部に採らせたのである。
 『ソヴィエツカヤ・ロシア』紙の記事によれば、「過去のコムソモール活動批判に対して、コムソモール指導部は現地へ調査隊を派遣するなど一応の対応はしてきたが、それらは対症療法に過ぎず根本的解決になっていない。場当たり的な対応を繰り返し本質的な変革への方針転換が全く見られないコムソモール指導部の実態こそ、この記事で採り上げたノヴォシビルスク市コムソモール委員会の新機軸に対する上層部の冷ややかな官僚主義的態度」であり、「84年7月の党中央委員会決定は昨日書かれたかのように、今日のコムソモールの問題を指摘している。問題は時代に合わなくなった月並みな方法に固執する、コムソモールのシステムそのもの」であった。さらに、コムソモール委員会の活動を評価する際の客観的かつ明確な指標の必要性と、900万人に及ぶ全国のコムソモール活動家をいかに活用していくかという問題を提起した。
 この記事に対しコムソモール中央委員会は異例の対応を見せたといえよう。1986年1月2日に書記局決定を発して(16)、活動形式の見直しがまだ遅々として進んでいないことを率直に認めつつも、中央委員会の文書類の削減など徐々にではあるがコムソモールが改革を進めていることを強調し、ジャーナリストらにコムソモールの実態について十分な情報を提供し、改革の進行状況を外に発信していくことが必要であると述べたのである。また先進的なコムソモール組織の活動を学び普及させるための具体的措置を採ることが言明された。
 この書記局決定は、組織と活動の見直しに取り組むコムソモール中央委員会の姿勢を外部の批判にこたえて初めて示したものと考えられる。しかしながら、本格的な改革が進む以前に、86年を通してコムソモール批判はエスカレートしていった。86年1月に放送を開始した若者向けテレビ討論番組『12階』では、毎回のようにモスクワや地方在住の若者が生活環境や余暇、学校の現状について不満をぶつけ、討論に参加しているコムソモール指導者を槍玉に挙げていた(17)
 このような情勢の中で、1986年7月の第13回コムソモール中央委員会総会は、ウクライナ共和国コムソモール第一書記で33歳のミロネンコをミーシンにかわり第一書記に選出し、同時に第20回コムソモール大会を1987年4月に開催して規約の改正を行うことを決定した。
 規約改正の草案作成に際しては、コムソモール員を始め広く一般社会に対し提案や意見を求めて草案作成に取り入れ、議論や見解をメディア上に公表していこうという当局の姿勢は、新しいコムソモールを社会にアピールする宣伝効果を狙ったものであったことは否定できないが、この議論の過程によってコムソモールの抜本的変革の基調が形成されたことは事実である。
 次節では第20回コムソモール大会の経緯について、まず規約改正の草案作成過程から検討し、そこでコムソモールがどのような改革の基本方針を提示したのか、そして規約草案に対してコムソモール大会ではどのような反応と議論が見られたのかを検討したい。

2. 第20回コムソモール大会の経緯

(1)規約改正を巡る議論

 1986年8月のコムソモール中央委員会ビューロー決定において、第20回大会で規約改正を行うことが公表された(18)。それと同時に中央委員会に規約改正草案作成委員会が設置され、一般からの意見や提言が募集された。その結果87年4月の大会開催までに、全国からコムソモール中央委員会宛てに1600件以上、コムソモール全組織に寄せられた分を集計すると約23万5000件の意見や提言が寄せられた(19)
 コムソモールのメンバーと中枢部のフィードバック関係においてここで重要なのは、寄せられた提言の数の多さよりも、草案作成過程を公開したり、大会開催までの期間を通して機関誌紙上で様々な議論の場を設けるなど、積極的にグラスノスチと下からの参加を進めたことである。最終的には100個所あまりの修正がなされたが、それでも提言の総数から比べれば、すべてが新規約に反映されたわけではなかった(20)。しかしながら、大会前のこの過程を経ることで、一般メンバーの意向をある程度考慮しつつ、コムソモール当局の改革の方向性が形成されていったのである。
 大会準備過程の議論が、単に規約の字句の訂正に留まらず抜本的なコムソモールの組織改革に踏み込むならば、これまでタブー視或いは当然視されて触れられてこなかった「コムソモールは誰のための組織なのか」「コムソモールの存在意義は何なのか」というより大きな根本的な問題に触れざるを得ず、当時進展しつつあった「歴史の見直し」を背景に、コムソモールの歴史を振り返ってその役割や社会に占める位置を問い直すという議論をも呼び起こすこととなった。
 コムソモールを取り巻く環境は変化していた。これまでの様にコムソモールが唯一の青年糾合組織として、何の疑念もなく了解されていた時代は過去となりつつあったのである。イデオロギー教育や経済活動への労働力の提供など、これまでコムソモールがソ連社会において果たしてきた役割が青年層から否定的に評価される中で、コムソモールはペレストロイカの過程で形成されつつある自主的な組織(非公式団体)と、青年層への影響力を巡って対抗していかなければならなかった。
 このような事情を背景に、コムソモールは広く大衆を糾合するのか、それとも青年層の先鋭部分のみを糾合するのかという、コムソモール設立当初を思わせる議論が規約改正を巡る議論の中で再燃し(21)、さらに青年層の利害にもっと敏感な組織への脱皮の必要性が認識されるようになったのである。
 コムソモールの歴史と規約改正を巡る議論の中で、80年代後半の状況と比較対照されるのは1920年代のコムソモールであった。20年代の初めは戦時共産主義からネップへの移行期に当たり、コムソモールが新しい時代の要請にいかに応えていくかという、初めての試練の時期であったとコムソモールの歴史家の多くは考えていたからである(22)
 20年代のコムソモールに80年代後半のコムソモール改革の手掛かりを求めようとする議論は、第4回コムソモール大会で示された、過度の中央集権主義を改めて活動の自律性・自主性を尊重する方針や、未成年者の失業対策に取り組んだコムソモールの姿勢とその一定の成果を肯定的に評価していた(23)
 他方30年代は、хозяйственная работа комсомолаの語がコムソモール関連文書に頻繁に現れるようになったように、工業化路線にコムソモールが取り込まれ、20年代にはなかった経済的動員という新たな機能を担うようになった転換点であり、同時に青年層の利害が省みられなくなっていった時期であると、否定的に論じられたのである(24)
 このようなコムソモールの歴史観は、80年代後半のイデオロギー状況を如実に反映しており、客観的な歴史認識とは言いがたい部分があることも事実である。しかしこのコムソモールの歴史の見直し作業以降、これまで青年層は国や企業に便利な労働力として使われるばかりであったというような青年層の被害者意識が一挙に噴出し、コムソモールはもとよりコムソモールを軽視するこれらの機関への不満が増幅していった。経済活動は若者の純粋な熱情をあてにするなといった感情的意見も見られた。バム鉄道の建設はもはや若者とコムソモールの栄えある功績ではなく、若者をこき使った悪名高い事業として語られるようになったのである(25)。このような意識と発想の転換によって、31年の第9回コムソモール大会で破壊された20年代の伝統を覚醒させ、青年層の利益擁護組織という原点に立ち返るという改革の総意が醸成されていったのである(26)
 コムソモールの理論家や歴史家の議論に対し、一般青年層のコムソモールに対する批判は当然ながらより直接的で要求的であった。職場において住宅の割当や福利厚生の受給をする際、企業当局や労働組合など他の機関に対抗しうる権限も独自の資金も持っていないために、コムソモールがメンバーの利益を守ることに事実上無力であることが具体的に語られ、活動の自律性についても、そうした活動を可能とする運転資金が末端組織には欠如していることが指摘された(27)
 その一方で、地区コムソモール委員会以上の上級機関は末端組織を監視して活動評価を行うためだけに存在するようなものであり、カードル達は自分の出世のことしか頭にないというのが、コムソモール一般メンバーの感慨であったといえるだろう(28)
 コムソモール活動の実態に反感を持ち、失望して無関心になっていったコムソモール・メンバーの赤裸々な体験記には、4000通以上の反響の手紙が寄せられた(29)。同様の体験は多くのコムソモール・メンバーが共有するものであった(30)
 彼らが最も厳しく批判したのが加入手続きの慣行であった。これまで慣習的に新規加入者数のノルマが上部機関によって設定され、そのノルマを達成するために、加入申請者の自発的加入意志の確認や資格要件の審査は有名無実化していたからである。その結果、14歳の学童が一クラスまとめてコムソモールに加入するというような、機械的な大量加入が日常化していた(31)
 コムソモールに加入するに当たって本人の自発的意志を尊重することは当然として、コムソモールの間口を積極的に狭め、コムソモール加入に意欲的でない人物はもちろん、コムソモール員としてふさわしくない人物をどんどん排除していくことが改革につながるという考えは一般論としては正当であった。しかしコムソモール当局は、加入者数のノルマの設定や機械的な加入手続きの見直しを検討し、幾つかの末端組織に新規加入に関する最終的決定権を与える実験的施策を行ったものの、加入者数が減少することを憂慮して、それを実験の域から全面的に拡大することには及び腰であることが窺われた。
 同じく、対象年齢層(現行規約では14〜28歳)を狭めることや、コムソモール員としての資質を確認するために、メンバー候補としての一定期間を設けることなど、加入者数の減少に結びつくような規約の改正に関してはコムソモール当局は慎重であった。
 加入及び脱退に関する事項はコムソモールの組織の影響力、財政基盤に波及することからコムソモール当局にとっては極めてクリティカルな問題であり、特にコムソモール該当年齢層が減少しつつある現状においては、この件に関してコムソモール当局が消極的であっても不思議ではない。
 誰を包摂し、何のために活動するかという組織原則を見直すことは、国家や他の社会組織との対外関係やコムソモールの法的権利の再考につながっていった。コムソモール・メンバーの利益を実現する手段や制度が現行では十分保障されていなかったからである。この点に関してはコムソモール全体の意見が一致して、コムソモールの法的権限の強化が求められた。
 そして、加入手続きの見直しとコムソモールの対外的権限強化と並んで規約改正議論の焦点となったのは、下級機関特に末端組織の活動の自由や裁量を拡大することであった。民主集中制を維持しつつも各コムソモール委員会の自主的な活動を許容すること、そして末端組織が自律的に財政運営を行えるようにすることに関しては一致を見たものの、その具体的許容度に関して中央委員会と下部組織の間で綱引きがなされていた。
 またカードルに対する不信が深刻なことを考えれば、カードルに対する一般メンバーの監督・請求権が求められたのも当然であった。これまで書記の選出は事実上上部機関の指名によるものであったが、84年頃から複数候補選挙が小規模な実験として行われるようになり(32)、また幾つかの州の地区コムソモール委員会では、専従のカードルを末端組織に派遣して仕事を体験させ、その間外部から募集した人材を地区委員会の仕事に登用し、優秀な場合は非専従スタッフとして地区委員会に残留させる試みが行われた(33)。規約の改正によってカードルの選挙やリコールが正式に認められることが期待されたのである。
 規約改正を巡る議論は、以下の4点にまとめることができるだろう。すなわち、(1)加入手続きの形骸化を改め、加入原則を再確認すること。(2)青年層の利益を追求する政治的組織に転換をはかること。(3)国家や他の社会機関に対するコムソモールの権限を強化すること。(4)下級組織特に末端組織の活動を活性化し、民主的な組織原則を確立することである。
 次に、大会前の規約改正議論を土台に第20回コムソモール大会を検討し、コムソモール改革における新規約と大会の意義を考察したい。

(2)第20回コムソモール大会

 第20回コムソモール大会は87年4月15日から18日までの4日間に亘って開催された。改革の機運は大会運営にも反映され、大会前の記者会見に始まって大会中は大会代議員を招いたテレビ討論番組の放映、大会代議員と直接話す「直通電話」の開設など、これまでにない議論を盛り上げるPR活動が行われた(34)
 慣例に反して第20回コムソモール大会は、共産党書記長の演説によってではなくミロネンコ・コムソモール第一書記の活動報告から始まった。ミロネンコの活動報告(35)は「今はまさに言葉ではなく実行の時である」という、その後多くの発言者が繰り返す言葉で始まり、率直な現状認識と厳しい自己批判を示したものだった。特に、コムソモール組織の活動の評価が加入者数の増減に還元されてしまっていること、新しいものを志向する一般の若者とお役所仕事を続けるコムソモール・カードルが乖離していることが自己批判された。この点に関してゴルバチョフは、「時としてコムソモール・カードルは、若者とは反対の通りを逆方向に歩いているかのように感じさせる。」と同様の批判をした。
 ミロネンコの発言は、コムソモール内外から寄せられる批判を意識したものと思われるが、青年層に見られる反社会的現象がすべてコムソモールの責任に帰せられ、コムソモールが批判の集中砲火を浴びることについては異議を唱え、青年層の現在の憂慮すべき状況をもたらした一因は社会全体の停滞であると反論している。
 ミロネンコの活動報告において、コムソモール当局が今後の改革の方向性を具体的にどのように示したのかを、規約改正の論点に沿って検討していきたい。まず加入手続きについては、上部機関が新規加入者の事実上のコントロール値を設定しているために、その数値を達成することが末端組織にとって至上課題となり加入申請者の資格審査が甘くなっていること、そもそも加入申請者の加入意志の確認がなされないまま、集団加入が行われている現状をミロネンコ自身が認め、コントロール値の設定を廃止することが明言された。これによって加入に関する最終的決定権が末端組織に与えられ、末端組織は加入者増大のノルマの軛から解放された。
 但し、正規加入の前にメンバー候補の期間を設けることおよび対象年齢層を引き上げることなど、加入者の条件を厳格化することは見送られ、形ばかりの幽霊コムソモール員を除名する手続きについては、大会前の議論で採り上げられたもののミロネンコの発言では全く言及されなかった。
 実際、86年の末に公開されたコムソモール規約草案においては、コムソモール員として登録されているにも拘らず一年間コムソモール会費を納めていないメンバーを、事実上コムソモールとの関係が喪失したと見なして除名する決定を末端組織が採択できる(地区・市コムソモール委員会の事後承認を必要とする)との規定があった(36)。しかし大会で提示された草案からは削除されていたのである。
 コムソモール加入の自発的意思こそ、コムソモール活性化の原動力であるという建前とは裏腹に、自発的意思の原則の徹底や除名手続きの簡便化を推し進めた場合のコムソモールの加入率の低下、それに伴うコムソモールの地盤沈下を、コムソモール指導部は現実に起こりうる危機として受け止めていたことが窺われる。
 他方規約改正の第二点である、青年層の利益を追求する政治組織への転換には力点が置かれ、コムソモール第一書記の活動報告に初めて「社会政策」の章が設けられた。この中でミロネンコはコムソモールにとって社会政策分野が未知の活動分野であることを認め、これまでの社会政策に関するコムソモールの不干渉の立場を転換し、積極的に青年層の社会的・経済的利益の実現を図っていくことを表明した。
 その一環として行政機関や労働組合が管理する消費・社会フォンドの構成や使途の決定に、今後コムソモールは積極的に参与していくことが活動方針とされた。特に早急に解決すべき重要課題として、新婚夫婦が自分たちの住居を得るのに平均10〜15年かかるような、住宅の絶対的不足が挙げられた。
 しかしこうした問題を解決していくためには、規約改正の第三点である、関連機関と対等に政策協議を行えるようなコムソモールの法的権利の強化が必要であった。これまで関係省庁との協力関係は基本的には共同決定を採択することであり、その数はこの5年間で100以上に達しているが、ミロネンコの発言によれば実際の問題解決にこれらがおよぼす影響力はほとんどなく、関係省庁にとっては、一応コムソモールの顔を立てたという格好付けに過ぎなかった。またコムソモールの側もこれに目をつぶり、反論するのを避けていたのが実情であった。
 労働組合や企業の経営機関との関係においてもコムソモールはフォンドの使途、労働集団の事項について決定権を持たず、あくまでも政策配慮の対象に過ぎなかった。コムソモールは企業や労働組合に「提案」、実際には「お願い」をすることしかできなかったとミロネンコは自嘲気味に語った。
 そこで、各級ソヴィエトに設置されている青年委員会を足場に立法過程にコミットすること、29の省庁にある青年問題委員会と政策立案の協同作業を行うこと、および審議中の国営企業法に、青年層にかかわる問題の決定にはコムソモールの参加を義務づける旨の条文を設けることが、青年層の利益代表機関に転換をはかる最初の具体的一歩と位置づけられ、最終的には「青年法」を制定し、その中においてコムソモールの地位と役割を確定されることが望ましいと、コムソモール中央委員会の積極的な姿勢が述べられた。
 民主的組織原則の確立については、カードルの選挙やリコールだけではなく、末端組織にとっては何よりも財政の自律的管理権が必要であった。しかしミロネンコは、この点に関する詳細は通達で定めるとして、今後の具体的措置についてコムソモール中枢部の明確な考えを示さなかったのである。既に56の大規模な末端組織に当座預金を開設する許可が与えられ、そこではコムソモールの会費を銀行引き落としによって納入することや、市や地区のコムソモール委員会の承認なしに、末端組織が自由に資金を支出することが実験的に行われており、結果を見てこれを他の末端組織にも拡大援用していく予定であることが触れられただけであった。
 しかしここで見過ごしてはならない重要な点は、コムソモール・メンバーが納入する会費や、彼らの無償労働によって末端組織に入る現金を末端組織が手元に残すことができず、物品の購入などの経費を支払う場合、現金ではなく小切手を切らなければならない現状の不便さをミロネンコが認め、この見直しを示唆したことである。この発言は、末端組織の自主財政運営を拡大する方向性を確認するばかりではなく、コムソモールの組織全体が今後さらに柔軟に資金を調達しそれを自由に活用することこそ、この時代にコムソモールが生き残る手段であるというコムソモール当局の認識を窺わせる。この時点ではまだ具体的方策に結びついていないものの、ミロネンコのこの発言は、コムソモールの改革と変容を考えるうえで看過できない部分であろう。
 ミロネンコの活動報告は大会出席者の発言を見る限りおおむね肯定的に評価されたが、州や共和国の第一書記の多くは、中央委員会の基本的なコムソモール改革路線を評価しつつも、より徹底して地方組織に活動と財政の裁量を付与し、コムソモールを若者の関心と利益の実現に柔軟に対処できる組織に作り変えていくことを求めていた。
 クラスノダール地方第一書記ザジルニーは、20年代のコムソモールが持っていた、若者の利益や権利を擁護する戦闘的精神・非妥協性が失われた現在、コムソモールに入る意義を見いだせない若者を非難できるだろうかと問いかけ、加入者数の減少に警戒感を示した。そして大会前の議論が規約の改正だけに終始したことに不満を述べ、中央委員会は1995年あるいは2000年くらいまでの、長期の活動方針を示すべきであったと主張した(37)
 またレニングラード州第一書記のロマノフは、上意下達の組織原理を改めるにはコムモール中央委員会の意識改革が何より重要であり、地方組織への権限委譲をもっと進めていく必要性があることを訴えた。特にレニングラードでは、青年層の非公式団体の隆盛に対してコムソモールが効果的な対応がとれないことを例に上げて、非公式団体との協力関係を築くなど柔軟な組織運営が必要であり、ミロネンコの報告には一応満足しているものの、明日のことを考えるならば、地方組織を「独立採算制」に移行して、地方組織にスタッフの選任権を与えることが、コムソモールの前進にとって欠かせないと発言した(38)
 ザジルニーとロマノフ両者の発言は、コムソモールの権威が失墜しつつあることへの危機感の表明である。同時にロマノフの発言は、コムソモール地方組織が中央委員会から財政的に分離して自律的に運営していくことは可能であるというレニングラード州の自信を、「独立採算」という表現で表しているといえるだろう。有能な人材を確保し、中央委員会の規制や介入を断つことができるならば、80年代前半から青年層のイデオロギー教化活動の改善と余暇の組織化に携わり、様々な娯楽組織や活動を運営してきた実績を基にして、コムソモール地方組織は単独でやっていけるという、先進地方の読みがあると考えられる。
 モスクワ市やレニングラード市など大都市は、特にこの方面に実績があった(39)。レニングラード市コムソモール委員会は81年に「レニングラード・ロッククラブ」を設立し、地下活動をしていたロックグループを登録させてかれらの公式のコンサートを主催し、レコードの売り上げやコンサート収入から収益を得ていた。モスクワ市コムソモール委員会も「モスクワ・ロックラボラトリー」やカフェを設立し、同趣旨の活動を行っていた(40)。モスクワ市コムソモール委員会第一書記スミルノフは、モスクワ市コムソモール委員会の活動で最も成功した分野は青年層の余暇の活性化であり、その他の分野は芳しくないと述べた。
 第20回コムソモール大会の発言の中で、最も鋭く先取り的に地方組織の活動と財政の自律性の確立を求めたのは、ノヴォシビルスク市第一書記のボリシャコフであった(41)。彼は、ペレストロイカを成功させるには強力で柔軟な経済システムが必要であり、ノヴォシビルスクを始めとする地方で設立されつつある「青年イニシアチブフォンド」がその一つの具体例であると述べた。そして「青年イニシアチブフォンド」をコムソモール中央委員会が全面的に支持していないことを批判した。「青年イニシアチブフォンド」は、若者のイニシアチブによる余暇・娯楽関連事業に資金を提供する制度であるが、このフォンドをコムソモール内部に設立して初めて、コムソモールは青年層に影響力を行使することができるというのが彼の主張であった。
 しかし実際には、コムソモールの財政は細則で縛られており、コムソモールの資金を若者のイニシアチブのために出資することができない場合が多かった。彼は、余暇・学問・生産の分野における、若者のイニシアチブを実現する統一システムを作ることがコムソモールの使命であると述べ、地方の組織に運営が任された独立採算制の「青年イニシアチブフォンド」をコムソモール活動の核とすることを構想していたのである(42)。議論を先取りするならば、集権的構造を維持するかもっと地方の分権化を進めるかを巡る中央委員会と地方組織の攻防は、その後のコムソモールの変容過程に大きく影響することになる。
 今後のコムソモールの活動方針を示す大会決議草案は「コムソモールで生じている変化は、まだ現代の要求に十分応えていない」という現状認識に始まり、大会前から展開されてきたコムソモール改革の議論を取り込んだ内容となっていた。そしてその場で若干の修正を加えられた後全員一致で採択された(43)
 他方、23万5000件の意見・提案が寄せられ、モスクワで開かれた公開討論では4時間に亘って集中砲火を浴びた規約草案は、反対2票、棄権4票という結果で採択された(44)。その結果、これまでの「先進的青年層の広く大衆一般を包摂する」という規定が、「ソヴィエト青年の先進的部分を包摂する」という規定に修正され、字句の上ではコムソモールは大衆組織か先鋭組織かという問題は一応決着を見た。そして、コムソモールが青年層の利益の実現を図る組織であることが、初めて直接的に規定された。即ち、コムソモールは「政治」組織であり、コムソモールは「青年の利益を表出し、ソヴィエト憲法が彼らに保障する権利を擁護する」と前文に記されたのである。また、加入に際する最終決定権が末端組織に与えられた(第4条)。
 民主的組織原則については以下の点が改正された。民主集中制という語句を残してはいるものの、12月に公開された草案にはなかった「コムソモールの共通の路線と課題を実現する統一性は、すべての組織の幅広い自主性と活動の方法や形式における自律的選択を前提としている。」という一文が盛り込まれた(第12条)。また、コムソモール指導者の選出は民主的な選挙によることが規定されたが(第15条)、指導部をリコールする際に、一度に三分の一以上の交替はできないという規定が12月草案に追加された(第17条)。
 選挙によって選ばれる指導者以外の専従活動家(アパラート)については、12月草案になかった規定において、アパラートの活動報告義務と彼らに対する指導者の監督責任が明確化された(第19条)。さらに、中央委員会と地方組織の関係を考えるうえで重要なのは、中央委員会の通達が中央委員会総会での承認を必要とするになったことである(第21条)。
 12月草案公開以降のその他の大きな改正点は、「コムソモールと国家組織、社会組織」という新しい章が設けられたことである。この中で、コムソモールは青年層の精神的・物質的利益の実現のために立法過程に参加し、省庁やソヴィエト代議員、労組など、他の組織と協力していくと規定された。
 1987年4月の第20回コムソモール大会は、コムソモールの権威の回復と変動しつつある政治社会システムにおける新しい役割を模索する初めての本格的議論の場であった。その後のコムソモールの変容過程を理解する際に重要な、組織改革と機能転換という改革の方向性が公式に示された、転換点となる大会であったといえるだろう。
 しかし、職場や学校単位ではなく共通の利益や関心による新しい組織原則への転換と、党の指導の是非という本質的問題は深く議論されなかった。こうした問題は、大会以降避けては通れない問題になっていく。

3. 組織改革:下部組織の自主性の拡大と遠心化

(1)加入手続きの厳守とその影響

 ここでは20回大会で提起された二つの改革路線の一方である組織内改革について検討し、コムソモール組織と外部の関係の見直しについては第4節で検討する。
 第20回コムソモール大会はコムソモールが本格的に改革に着手した画期であったが、実際には改革路線が提示されただけであり、これからが改革の正念場であった。コムソモール員はコムソモールの改革への取り組みを慎重に評価し、今後の成り行きを冷めた眼で眺めていたのである(45)
 彼らのコムソモールへの評価の一端を示すのが、新規加入者数とコムソモールが適格年齢者層に占める割合(浸透率)の低下である。1988年1月1日現在、コムソモール・メンバー総数は3831万6086人であり、これは対象年齢層の男女の61.6%がコムソモールに加入していることを示している(46)。これらの数値を一見すると、メンバー総数の多さは言うに及ばず、対象年齢層の半数以上が加入しているという浸透率の高さにおいても、コムソモールが際立った社会組織であることが理解できる。しかし1984年まで戦後一貫して加入者が増加し続けてきた趨勢が変化し、1987年の一年間でメンバー総数が6.2%(254万人)減少したことに、コムソモール指導部は危惧を感じ始めていた(47)
 メンバー総数の減少は、28歳の年齢上限による脱退者が増加したことが影響している。人口動態の変化によって今後、最も新規加入者が多かった時期(74〜83年の年平均新規加入者数は480万人)に加入したメンバーが続々とコムソモールを去っていく。しかしそれ以上に深刻なのは、コムソモール未加入者の母体が存在しているにもかかわらず、新規加入者を一人も受け入れない末端組織が増加していることであった。85年に3万余りであったその数は、87年には5万3000に達したのである(48)
 こうした事態の背景には、若者当事者のコムソモール離れがあると同時に、末端組織がそれまでの新規加入者ノルマから解放され、積極的な加入政策を行わなかった事実があるといえるだろう。これまで、「新規加入者・会費・獲得資金」の三つのノルマを達成することが地方のコムソモール第一書記の責務であり、これがいかに重荷であり他の活動の阻害になっていたかをスヴェルドロフスク州第一書記が語っている(49)
 彼の発言によれば、スヴェルドロフスク州のコムソモール員は88年の一年間で4000人減少した。かつては毎年4000から4500人の新規加入者がいたが、加入審査をきちんと行った結果、今ではその二分の一程度に減少したのである。いずれにせよコムソモールの改革路線は、数の上でコムソモールが弱体化することに歯止めを掛けることはできなかった。
 このようにコムソモール・メンバーが減少しつつあったため、コムソモール当局は20回大会後、加入原則の遵守や除名手続の検討に積極的でなかった。これまで、上部機関が定めた新規加入者数のノルマを達成するために形式的な集団加入が日常的に行われ、加入者数の水増しや移動や脱退の手続きの放置などが黙認されてきた。この慣行を見直すことは必然的に加入者数の減少をもたらし、コムソモールの青年層に対する影響力やこれまで体制の中で与えられてきた地位や権威が低下せざるをえないからである。
 コムソモール当局は、20回大会直後からこのジレンマに悩むこととなった。新規約の規定では、青年大衆を広く包摂する組織から、一部の先進的青年層を代表する政治組織に転換したことになっていたが、これまでのコムソモールの議論の中で、青年層の一部を代表するという発想はほとんど見られなかった。ましてや、職種、居住地、関心、年齢などの様々な青年層の社会階層のうち、具体的にどの部分を代表するのかというより踏み込んだ議論は、限られた一部の論者が単発的に行うだけであった(50)
 このようなコムソモールの本音、或いは意識の転換をはかれない墨守的な態度は、大会の発言の中でも垣間見られた(51)。そして「ペレストロイカの重要目的の一つは、若者に対するコムソモールの影響力の拡大である」という認識は、社会の多元化・分裂の進む大会後においても完全には払拭されなかったのである。
 大会後の7月にイルクーツク州コムソモール委員会が批判され、第一書記のレヂャエフが解任された(52)。コムソモール会費を2年間滞納した場合、州コムソモール委員会の判断により除名できると規定した85年4月のコムソモール中央委員会ビューローの決定に反して、会費を6カ月滞納した場合除名することができる権限を末端組織に付与したことがその理由であった。除名の対象となる会費滞納期間を6カ月にする案は、20回大会時の規約改正議論の中で検討されていたが、規約の修正には到っていなかった。
 また、この一年で加入者総数が6.5%減少したモルドヴァ自治共和国のある市のコムソモール委員会が、加入者増加数の虚偽報告の禁止や加入者本人の自発的意志尊重原則の遵守を口実にして、末端組織に対する指導を怠っていると批判され、各レベルのコムソモール委員会が積極的に新規加入者の増加に取り組むべきであるとの書記局決定が出された(53)
 87年8月に加入と除名に関する通達が見直されることが決定したものの(54)、88年の半ばに到るまで末端組織の消極的加入政策に対する当局の批判は続いた。最終的に6カ月の滞納で除名する規定が承認されたのは88年の11月であった(55)

(2)地方財政の分離・独立

 加入者数の増加という課題から建前上は解放された地方組織、特に末端組織が「コムソモール員のための」活動を行うためには、自律的財政運営は必要不可欠な条件であった。この点に関して地方指導者の不満や提言がかなりの数報告されていたし、ミロネンコ第一書記の活動報告の中でもその必要性は強調されていた。活動資金を自己裁量と自己決定によって管理し、そのための主要な資金源であるコムソモール員の会費を手元に残すことが、87年当時、ペレストロイカの体制変動の渦中で、コムソモール地方組織が生き延びるための戦略であったといえるだろう。
 87年12月の第2回コムソモール中央委員会総会は、第20回コムソモール大会以降の活動路線を決定づける極めて重要な総会であった。総会決定において、コムソモールの現状は「末端組織の自律性を拡大する第一歩が実現されたが、実際の活動の変化は非常に緩慢にしか進んでいない」と評価され、「コムソモールをより活性化させるための経済的条件を創出し、各組織が資金を支出する権利をさらに拡大する」ことと、中央委員会は何よりもまず、「コムソモール経営の戦略的問題に力を入れること」が決定された。具体的には、同年末の中央委員会ビューロー決定において、以下のようなことが定められた(56)
 まず、共和国、州、地方のコムソモール委員会は、88年より前年度の繰越金及び残余金を今年度の収入に計上することと、賃金フォンドを除いて自由に支出を増やすことが可能になった。そしてコムソモール中央委員会の方法的指示に基づき、予算を自ら編成することが可能となった。しかしカードルの賃金ファンドを増額するには、中央委員会の許可が必要であった。
 末端組織の財政の自律化もさらに進んだ。独自の当座預金を開設しうる末端組織が増加し、原則的にコムソモール会費など末端組織の収入は、地区あるいは市委員会に計上されるものの、地区や市委員会の判断によっては、末端組織の収入として計上することも可能となった。さらに、各コムソモール組織に決済の方法(現金か非現金か)を選択する権利が与えられたことで、コムソモール各組織の支出が格段に自由化した。
 88年5月の第3回コムソモール中央委員会総会では、「コムソモールの資本について」の規定は採択されず継続審議となったが、地方組織の自律的財政運営は徐々に拡大していった。同年11月の第4回総会は、この路線の総仕上げであったと言えるだろう。上級機関に対する一定の上納金を控除した残りの資金は、すべて当該のコムソモール組織が管理すること、上納金の額は毎年当該組織の総会において更改されることが決定され、各コムソモール組織は財政を完全に掌握することになったのである。そして中央委員会から補助金を得ている共和国、州、地方のコムソモール委員会は89年中に中央委員会書記局とともに、独立採算制への移行プログラムを作成することになった(57)
 このことは収入が多く見込める組織はますます収入を増やすことに努め、収入が少ない組織、中央委員会から援助を得ている組織は、自らの手で収入を獲得する新しい方策を考え出す必要に迫られることを意味していた。サラトフ州の地区コムソモール委員会第一書記は、新規加入者数のノルマから解放されて、若者のクラブの創設など新たな活動に力を入れられるようになったことを報告している(58)。同州では若者のクラブがこの3年間で24団体から130団体に増加し、88年からは青年技術者300人余りが参加して、技術関連の仕事を請け負う独立採算組織が活動を始めていた。また末端組織でも若者向けアパレル製造を行うアトリエ<Молодежная мода>や、学生向け就職斡旋ビューロー、子供向け劇場の運営などを行うようになった(59)
 財政面での中央集権主義から地方分権主義への移行によって、各コムソモール組織は既存の制度や「青年層の利益のために」始まった活動を通して経済活動にコミットし、新しい活動の方向性と会費収入の減少を補てんする資金調達方法を開拓していったのである。しかし、コムソモールを再生するための要件として当初想定されていた地方組織の自律的財政運営方針は、ペレストロイカのその後の政治的・経済的変動によってそのもともとの含意から逸脱し、結果的にコムソモールが市場経済化の前衛的役割を果たす重要な伏線となった。さらに遡及的に見れば、これはコムソモールの崩壊に到るプロセスの端緒であったとも考えられるだろう。この財政面の改革は、コムソモールのペレストロイカの帰趨を決定づけるのである。

(3)人事制度の改変

 財政だけでなく人事の統括権も、中央から地方への移管が徐々に進んでいった。各コムソモール委員会が現場の活動実態に則してスタッフの数や種類を自由に決定することは、20回大会における地方組織の重要な要求の一つであった。87年12月のビューロー決定によって、一部指定の共和国及び州のコムソモール委員会は、人事システムを自己裁量によって改変することができるようになった。しかし賃金フォンドの総計は据え置かれ、賃金フォンドを積み増しする場合には中央委員会の許可を得る必要があった(60)
 88年11月の第4回コムソモール中央委員会総会後には、人事システムの改変はすべての共和国、州、地方の組織に可能となったが、賃金フォンドの拡充は制限されたままであった(61)。そのためあるスタッフの賃金をアップしようとする場合、人員を削減して頭数を減らすしかなかったのである。この措置は、89年4月1日までに中央委員会、各共和国、州、地方のコムソモール委員会の人員を30%カットするという第4回総会の方針に則したものであったが、結果としてコムソモール・スタッフを当時振興しつつあったコムソモールの外郭営利団体へ出向させることとなった。
 一連の組織改革によって資金と活動の両面で自己裁量権を拡大した地方のコムソモール委員会は、中央のコントロールが弱まるにつれて自主的な組織運営を行うようになった。新しい状況は下からの活動の活性化であると同時に、裏を返せば各地方組織が統一された活動指針もなく好き勝手な行動をとりうるということを意味していた。共産主義青年の組織という、建前とはいえ確固としていたイデオロギーの統一が弛緩し、青年層という漠たる社会集団のためのあらゆる活動が可能となった結果、後者の方向、即ちコムソモール組織の遠心的分離傾向が助長されたのである。
 また地方組織が「青年層のための」活動にとり組んだことは否定できないが、地方組織の運営に直接一般青年層がコミットすることは極めて稀であったであろう。新規約によれば、地区・市委員会の書記は、複数候補から秘密投票によって選出されることになったが、相変わらず候補は一人で形ばかりの公開選挙が行われる場合が多く、また専従活動家への登用についても様々な試みがなされたが実験の域を出なかったからである(62)。この時期コムソモールは青年層を代表する唯一の政治組織であるという姿勢を崩さなかったが、民主化しつつある政治体制において政治組織として発言するには、その大義も組織も不十分だったと言えるだろう。

4. 機能転換の試み:動員組織からの脱却と市場化の影響

(1)動員組織から利益擁護組織へ

 永年の社会的地位が揺らぐ中で、コムソモールはこれまで体制内で果たしてきた役割を見直し、新しい政治体制の中で組織として存続すべき道を模索するという困難な課題に取り組まなければならなかった。組織内の原則ばかりではなく、国家や社会の他の組織との関係を新しい環境に適応させる必要があったのである。
 社会全体の利益が個人一人一人の利益に優先するというこれまでのイデオロギーが、「人間の顔をした社会主義」という解釈に変わりつつある社会風潮の中で、コムソモールは何のために存在するのかというこれまで触れられてこなかった根源的問いに答えようとするならば、青年層の利益擁護を組織目標として掲げることは、自然の成り行きであったといえるだろう。
 そこでまず、これまでコムソモールが果たしてきた経済的動員活動のうち、その規模と実績が際立っている「学生派遣隊」と「コムソモール突撃隊」(63)を取り上げ、青年利益の擁護の一環としてコムソモールがこれらの事業を如何に改革しようとしたのかを見ていきたい。そして、これらの永年の役割や意義を1980年代後半の青年層はどのように認識していたのか、また青年利益の擁護を目的としたこれらの事業の見直しが、コムソモールの企業活動への本格的進出にどのようにつながっていったのかを検討する。「学生派遣隊」と「コムソモール突撃隊」の見直しはコムソモールが青年層の利益を表出・擁護する組織であるという組織原則を確立し、また他の政治・社会・経済組織と互角に交渉しうる実際上の対外的権威を獲得するための一連の改革の一つであったが、その過程には始まりつつあった計画経済の市場化が大きく作用していたのである。

(2)学生派遣隊 

「学生派遣隊」は1959年に、モスクワ大学の学生339人が処女地開拓に向かったのが始まりである。1986年にはその労働量は1億6000万ルーブリに達し、第11次五ケ年計画期では毎年10万人の若者が「学生派遣隊」に参加した(64)
 このような大規模動員プロジェクトに対して、その非効率性がこれまで批判の対象となっていなかったわけではないが、派遣される先の企業の横暴やそれに唯々諾々と応じるコムソモールに対する、動員される青年層の側からの不満がメディアを賑わすようになったのは、最近のことである。
 『コムソモーリスカヤ・プラウダ』87年4月5日号に掲載された、ノヴォシビルスク大学経済学部副学部長からの「大会への手紙」には、その不満が典型的に述べられている(65)。この手紙の中では、まず「学生派遣隊」参加者が建前上は自らの意志により参加することになっているが、実際はコムソモールからの除名を脅しに使うなど、半ば強制的な参加が多数を占めていること、また仕事に「突撃」している見掛けを作るために安価な労働力として「学生派遣隊」を利用する、企業の経済性を無視した無責任な態度が批判された。そして派遣先の選択や現場の労働生活環境の保障について、なんの実効力ある発言権を持たないコムソモールの対外的地位の改善が求められた。
 これらの指摘は「学生派遣隊」ばかりではなく「コムソモール突撃隊」にも共通する矛盾を端的に表していた。両プロジェクトの現状の矛盾と限界が暴露されるにつれ、「国はこれまで何か新しい困難な問題を解決しようとするとすぐに若者の『熱情』に火を付けて、若者を駒として使うことで問題に対処しようとしてきた。我々青年は駆り出されるだけで、これまで見返りがなかった。我々青年の正当な権利と利益を擁護するためには、コムソモールが企業や経済省庁の言いなりになることをやめ、青年の利益擁護組織にならなければならない」という認識がコムソモール内で共有されるようになったのである(66)
 ミロネンコ第一書記は20回コムソモール大会の活動報告において、人と金を無駄使いする経済省庁と企業を批判し、同時に、若い労働力の単なる提供者になっていたコムソモールのこれまでの態度を自己批判した(67)。しかしながら「学生派遣隊」への強制参加に対する若者の不安は20回大会時においても根強く、ヤーゴディン高等・中等専門教育大臣が発言を終えた後、なぜ87年の「学生派遣隊」計画に署名してしまったのか、本当に参加を拒否しても問題ないのか、会場から詰問される場面もあった(68)
 実際には、「学生派遣隊」の改革は前年の末に出された「1987〜1990年の学生派遣隊計画」において初めて示された。その中で新しく変更された点は次の二点である。まず一点は、学生派遣隊中央本部が、承認された総数の範囲内において、各地域や各産業部門への学生派遣隊割当数を場合によって変更できる権限を与えられたことである。必要な場合に当たる要件が記されていないので曖昧な点が残るが、これまで必ずしも「学生派遣隊」を送る経済的必要性が明確でないところでも、相手の意向によって派遣が決定され、コムソモール側の意向が斟酌されてこなかった事態からは一歩前進がみられたといえるだろう。
 第二点は、「学生派遣隊」の受け入れ先が学生の労働・生活環境の整備などを怠ったり、労働条件が派遣契約に違反する場合には、共和国・州・地方コムソモール委員会、高等・中等専門教育省、および学長・校長会議は、学生派遣隊の派遣を取りやめることが出来るようになったことである。このことによって、学生の派遣元が派遣先の労働・生活環境によっては、派遣を拒否することが可能となった(69)
 以上のような変更が加えられたうえで87年の「学生派遣隊」は遂行され、実際にコムソモールの側の発言権が増し、また学生が強制的に参加させられる圧力は減じるという変化が見られた。しかし派遣現場での深刻な事故や災害はなくならず、労働条件の整備だけでなく、派遣される学生の技術的訓練が不十分であることにかわりはなかった(70)
 もちろん、「医者の卵に建設労働をさせてどうなる」という20回大会でのヤーゴディン大臣の発言が示すように、安価な労働力としてのみ学生を利用することの弊害や不合理性は認識されており、80年代半ば頃から「学生派遣隊」の新しい形態が模索されていた。そしてモスクワ大学など一部の大学において、「学生派遣隊」を学生の専門知識や技術をいかし、より高度な労働力とサーヴィスを提供する形態として発展させた「学生学術・生産派遣隊」が試行され(71)、「学生派遣隊」の形態は経済的効用と学生の利益双方を考慮することで多様化していくことになる。
 88年に入ると「学生派遣隊」の数と派遣先の完全な決定権が、共和国・州・地方のコムソモール委員会と高等・中等専門教育省、および総長・校長会議に付与された(72)。同時に採択された「学生派遣隊」の新規定では、「学生派遣隊」の健康で安全な労働・生活・休息条件の創造が派遣先企業の義務と明記され、派遣隊の指揮官の選出は総会での選挙によることも規定された(73)。このようにコムソモールは学生の利益擁護を掲げて「学生派遣隊」における決定権を獲得していったのである。
 さらに「学生派遣隊規定」が採択されたビューロー会議において、派遣隊が自らの資金を運用できる権利を88年のうちに拡大することが予定されていたが、それから3カ月もたたない88年5月に、コムソモール中央委員会書記局は共和国・州・地方およびモスクワとキエフの市学生派遣隊本部を独立会計に移行し、独自の口座を開設させると決定した。この措置によって「学生派遣隊」はコムソモールによる学生労働力の動員組織から、コムソモールが母体の独立採算事業へと大きく転換したと言えるだろう。
 こうして「学生派遣隊」は、企業に学生労働力を仲介することで利益を得る人材斡旋機関へと衣替えをしていったが、「学生派遣隊」と企業の対等な「契約」がすべて順調に履行されるわけではなかった(74)。そのため「学生派遣隊」は利益を上げるための資金運用の道を探り、様々な事業を展開するようになっていった。これまで「学生派遣隊」の労働は低賃金であり、さらに稼いだ賃金をコムソモールの各種フォンドに徴収されたので、学生自身の手元に残る賃金は少なかった。そこで派遣隊参加者の実入りを良くし、「学生派遣隊」を収益の上がる事業にする必然性があったのである。
 それは確かに青年組織としてのコムソモールの権威を回復する営為であはあったが、同時に政治・経済環境が流動化し、コムソモール員数が減少して若者の他の社会団体と競合しなければならなくなったコムソモールが、収入を確保し生き残っていくために自らの事業を営利事業へ転換していく、コムソモール事業の「企業化」の始まりでもあった。

(3)コムソモール突撃建設隊

 この時期「コムソモール突撃建設隊」も類似した経過を辿ることとなった。「コムソモール突撃建設隊」は「学生派遣隊」と同様の問題を抱えていたが、動員される対象が学生ではなく一般社会人であり、いわば集団就職のような形で派遣された先が思うような労働生活環境を提供しない場合、それは生活のかかった彼らにとっては学生以上に過酷であった。そのため、彼らの間ではよりよい生活と労働環境を求めての流動性が非常に高かった。一年後建設地に留まっているのは当初の参加者の半分であるとか、アルメニア共和国の「第27回党大会コムソモール突撃建設隊」参加者のうち70%が、給料や住宅などの条件が契約と異なることを理由に一週間のうちに帰宅したなど、惨憺たる状況が多数報告されている(75)。これまで「コムソモール突撃建設隊」の歴史は、コムソモールの栄えある功績として、公式には高く評価されていた。特にБАМ(バイカル―アムール鉄道)建設に対するコムソモールの尽力は、若者の自己犠牲と国家建設への多大な貢献として非常にシンボリックに語られていた。しかしБАМ事業が連邦レベルから地方レベルのプロジェクトに格下げされると、それまでの世間の注目は下火になり、進まぬ工事と劣悪な生活環境下の青年労働者が取り残されることになった。第20回コムソモール大会では、彼らの不満が直接コムソモール中央委員会にぶつけられた。
 コムソモール中央の「コムソモール突撃建設隊」に対する認識の甘さと改善措置の不徹底に、タジク共和国コムソモール委員会第一書記は、毎年変更される「コムソモール突撃建設地」を少なくとも5年は据え置き、コムソモール中央委員会ではなく地方コムソモール組織が、派遣期間やその他の条件を派遣先と直接交渉し契約するべきであると主張した(76)。また、全ソ・コムソモール突撃建設隊西シベリア本部の責任者自身が、ミロネンコ第一書記の突撃建設隊に対する評価が肯定的すぎると批判した(77)
 コムソモール中央委員会は87年の「コムソモール突撃建設隊計画」を公表するにあたり、「全ソコムソモール突撃建設地」に指定する対象を削減して、最重要物件のみに突撃建設隊を派遣することを今後の活動方針と規定した。派遣先の受入環境が整わず、契約の違反事項がある場合には、独自の判断で派遣を中止出来る権限を現地の派遣隊本部に認めた。しかしそれでもなお87年の計画では、シベリアや極東地域の30ケ所の指定地に2万3000人の若者がコムソモール突撃建設隊として、向かうことになっていた(78)
 結局87年計画は大きな変更もなく実施されたが、「学生派遣隊」と同様88年に入ってまもなく大きく見直されることとなった。88年3月のコムソモール中央委員会ビューロー決定は、「今日、民主化および経済メカニズムの根本的改革の中にあって、現行のコムソモール突撃建設隊は、第27回党大会が規定する時代の要請に応えていない。」という現状認識を示し、85年12月24日から86年11月30日までの「全ソ・コムソモール突撃建設地」の指定を共和国以下の突撃建設地に格下げし、今回改めてコムソモール突撃建設地の指定審査を行うことを明らかにした。
 また、「コムソモール突撃建設隊本部」を独立会計に移行する手続きの検討が88年前半に開始されることになった(79)。さらに、各々の建設隊本部は管轄のコムソモール委員会の承認を得て、独自にまたは他の組織と合同で、若者向けの消費物資の生産、サーヴィスの提供などの事業を行うことができると規定されたのである。建設事業に参加する若者の組織管理及び派遣先企業との折衝を行うための建設隊本部が、本業とは懸け離れた企業活動に従事する道が開かれたのは、これまで建設隊派遣者の非常に高い流動性の原因となっていた建設現地の生活や文化レベルを向上させ、強いては安定した労働力の提供をもたらしたいというコムソモールの意向が背景にあると思われる。これは派遣されてきた若者や若い家族にとっても悪い話ではなかったはずである。
 他方で、これは「学生派遣隊」の場合と同じように動員事業を営利事業へ転換していくことであった(80)。コムソモールはこれまでのような人を集めて送るだけの役割から、青年層の利益擁護組織としてふさわしい、事業の主体者としての権利を獲得し、それを独立採算の事業へと転換し始めたのである。この傾向がより強く現れていたのが、次に述べる「青年住宅コンプレクス」である(81)

(4)青年住宅コンプレクス

 「青年住宅コンプレクス」は「学生派遣隊」などのように動員を目的とした組織ではなく、青年層の利益そのもの、即ち青年層への住宅供給を設立目的としていた。第一号の「青年住宅コンプレクス」がモスクワ州カリーニングラードに設立されたのは1974年のことであった。ペレストロイカ以前に既に10年以上の歴史があったわけだが、80年代後半になってにわかに脚光を浴びるようになったのは、スヴェルドロフスク州の「コンプレクス」がある程度成功を収めたことと、住宅供給問題の解決が最重要課題の一つとして1986年の第27回党大会で掲げられ、その一翼を担うものとして「コンプレクス」に期待がかけられるようになったからである(82)
 これまでにも新卒の専門家には派遣された就職先において住居を保障することや、30歳以下の夫婦に結婚して3年以内に第一子が誕生した場合、少なくともワンルームの住戸を保障することなど、青年を優遇する住宅政策がなかったわけではない。しかしこれらの規定は必ずしも遵守されていたわけではなく、また住宅の絶対数の不足はこれらで補いようがなかった(83)
 もともとの「コンプレクス」は、住宅の供給を希望する若い労働者が、職場の労働競争で優秀な成績を収めて「コンプレクス」への参加権を獲得し、所属企業の資金と職場の承諾を得て自分達の住宅建設に一定期間従事し、完成後その建物の居住権を得るという制度であった(84)。「コンプレクス」の初期は、「コンプレクス」への参加権を獲得するために参加希望者が熱心に働き、職場の生産性が10〜15%アップしたことや転職率が低下したことなど、「コンプレクス」を設立した企業へのよい影響や、「共に建設し共に住む」という新しいコミュニティーの創造、それによる家族や地域の連帯の強化など道徳的・教育的効果が強調されていた(85)
 しかし経済の加速化が叫ばれるようになり、その経済的効用に以前よりも関心が集中するようになったのである。それにつれて「コンプレクス」をさらに発展させるために、法的整備が必要であるとの認識が示されるようになった(86)。こうした経過により1986年6月に「青年住宅コンプレクス規程」がコムソモール書記局により承認された(87)
 1987年4月には、全国156都市に「コンプレクス」が存在するまでに到ったが(88)、すべての「コンプレクス」が順調に稼働しているわけではなかった。ペルミのある企業の「コンプレクス」では、150人が参加権を求めて職場での競争に臨んでいるが、経営側の態度は非協力的であり、所管省から「コンプレクス」用に分配された資金を他の用途に流用してしまったという例や、カルーガでは「コンプレクス」の建設した建物の市当局への配給量が多すぎて、なかなか「コンプレクス」参加者が入居できないといった不満が聞かれた(89)
 しかし青年層の利益擁護組織への転換を図ろうとするコムソモールにとって、青年層の生活にとって不可欠でありながら絶対的不足状態にある住宅問題の解決に取り組むことは、20回コムソモール大会の重要なテーマである社会政策の柱であった。大会の前には「コンプレクス」の特集記事が編まれたり、ラウンド・テーブルが開催されるなど、コムソモール側の「コンプレクス」にかける意欲もまたそれへの若者の期待も強かったといえるだろう。それゆえ、1985年当時既に約3000人が居住し、6年間で1500万ルーブリ分の資本を蓄積したスヴェルドロフスク州の「コンプレクス」には非常に高い関心が集まり、年300組以上の視察者が訪れるようになった(90)。「コンプレクス」代表のコロリョフは、20回コムソモール大会前の記者会見で最も多い質問を集めた「時の人」となった(91)
 ミロネンコ第一書記は20回大会の活動報告の中で、住宅問題の一つの解決方法として「青年住宅コンプレクス」への期待を述べ、現在のように企業の所管官庁から資金が調達できた場合にしか「コンプレクス」が稼働しないシステムでは、「コンプレクス」はすぐに廃れてしまうと現行制度の限界を指摘した。そして「コンプレクス」を独立採算の青年建設組織に発展させていくべきであると主張し、レニングラードやナホトカですでに実験が始まっていること、またモスクワやリガでも計画中であることを明らかにした(92)
 大会議論においては、「コンプレクス」が社会的認知を受けているにもかかわらず、設立の際の手続きが煩雑に過ぎること、統一された法的根拠が必要であることが訴えられたが、実際には「コンプレクス」の自生的展開に、統一的制度の整備が追い付かない現状であったといえるだろう。
 1988年に入ってロシア共和国は、軽工業省や繊維産業省など「コンプレクス」の設立が遅れている企業を所管する省庁に対し、「コンプレクス」の設立を社会発展プランに盛り込むよう指示し、1990年までにロシア中央政府による一般住宅供給量の10%を「コンプレクス」が占めるようにすることが目標とされた(93)。それからまもなく「コンプレクス」の新規程が基本採択された(94)
 まず第1条において、「青年住宅コンプレクス」は党の社会・経済政策の実現に若者が参加する一形態であり、その機能と発展に必要な権限を地方および中央政府から付与された自律的社会組織であると定められた。そしてその設立目的は地域の経済的・社会的発展と住宅・生活環境の改善であると規定され、旧規程にあった「コンプレクス」参加者に対する教育的・道徳的効果への言及と、住宅完成後のコミュニティーに関する規定は削除された。
 そして「青年住宅コンプレクス」の組織委員会は、資産の所有権を有する法人格の取得ができるようになリ、これまでのように企業からの資金に加え、国や地方の予算のほか、協同組合や一般個人の資金を含めて、あらゆる資金調達が可能となった。さらに「コンプレクス組織委員会」には、地域住民向けの商品やサーヴィスの提供、文化スポーツ施設の運営などを行う企業活動の道が開かれ、所得税免除の特恵も認められた。
 同時に「青年住宅コンプレクス・センター」に関する決定も採択され(95)、「コンプレクス」に関する管理運営がコムソモール中央委員会そのものからこのセンターに移管された。レニングラードやスヴェルドロフスク州など先進地域の「コンプレクス・センター」は1988年7月から独立会計組織となり、着々とコムソモールからの企業形態の分離が進んでいった(96)
 このように、コムソモールは青年層の利益擁護を掲げて、87〜88年頃から「学生派遣隊」や「コムソモール突撃建設隊」など旧来の事業の形態を見直し、また「青年住宅コンプレクス」の発展に努めて、これらの事業の主導権を掌握していった。そして経済環境が徐々に変化する中で、これらの独立採算事業への転換を試み始めたのである。このようなコムソモールの路線が顕在化し、実績を示し始めるのはこれ以降の時期であるが、コムソモールのその後の活動路線を決定づける原則がこの時期に確定され、重要な制度の雛型が形成された点を考慮するならば、この時期の意義を看過することは出来ないように思われる。
 1988年8月には、コムソモールが他の国家・社会組織との合弁企業を設立することが許可され、商品やサーヴィスの価格の自由設定や税金の免除など優遇措置が適用されることになった(97)。この決定に対してコムソモール中央委員会が、「コムソモールにとって画期的な決定である」と評価したように、第20回コムソモール大会を事実上の始まりとするコムソモールの組織改革は、次の段階に入ろうとしていたのである。

結びにかえて:唯一の公式青年組織の自負と新しい役割の模索

 「ソ連崩壊に前後してコムソモールも崩壊した」という事実に驚きを感じる人はほとんどいないであろう。しかしこのことと、コムソモールが崩壊したのは当然のことであるという結論に飛び付くことは別問題であり、コムソモールの崩壊に到る経過を検証し、様々な再生の試みと可能性の存在を探ったうえで、コムソモール崩壊の意義を再検討することが本論のそもそもの大きな目的であった。その第一歩として、1987〜88年頃のコムソモールの活動路線の模索を本論の対象とし、その後のソ連崩壊に到る政治・社会変動と、それに果たしたコムソモールの潜在的・顕在的役割を考察する際の土台となる考察を行った。
 その結果次のことが指摘できるであろう。コムソモールはペレストロイカの時代要請に応え、これまでの中央集権主義を改めてコムソモール員により近い地方組織、特に末端組織の権限を強化して組織の活性化を図ろうとしたが、活動の裁量権と自由に使える資本を得た地方組織は中央からの分離傾向を強めていった。またコムソモール員の減少による収入の減少を補うべく経済活動へ傾斜する組織が多かった。
 同時にコムソモールの経済活動は、青年層の利益擁護という大義名分を併せ持っていた。スヴェルドロフスク州コムソモール委員会第一書記マトヴェーエフは、コムソモールが政治活動をなおざりにして経済活動に力を入れているとの批判に対し、「青年住宅コンプレクスなどが個人と社会の利益を統合することに成功している限り、これらはコムソモールの仕事として矛盾しない。コムソモールの権威の土台となる。コムソモールの経済的自立は若者の問題を解決する前提条件であり、コムソモールの課題とはペレストロイカに不可欠なアイディアを実験し、支援し、金銭的援助をすることである」と述べ、コムソモールの経済活動路線に自信をのぞかせた(98)
 当然ながらコムソモール崩壊の含意は89年以降の詳細な検討を行ったのちに示されるべきであるが、コムソモールはペレストロイカの波に乗った下からの力で転覆されたわけでも、また保守的で化石のようなコムソモールのキャリアリストが改革に背を向けて反動的態度をとった結果崩壊したわけではなく、それは青年層を代表する組織としての新しい形態を模索し、流動化する政治・経済環境に対応しようとした行為がもたらした、意図せざる結果であり逆説的到達点であったといえるだろう。
 この後コムソモール中央委員会と地方組織の財政分離はますます進行し、コムソモールの企業活動は華々しく展開していくことになる。91年にはコムソモール傘下の企業は数にして4000以上、年間収益は30億ルーブリまでに到るのである(99)。その背後には、コムソモール・カードルの保身や蓄財を求める意識があったことは事実であろうが、青年層の利益を追求するという大義名分があったこと、そしてそれがある程度の実績を示しえたことが、コムソモールの企業活動の成功の原因の一つであると思われる。なぜならば、コムソモールからの脱退や非加入の増加が青年層のコムソモールに対する拒否感を示していたことは事実であるが、コムソモールのこうした展開に反旗を翻し抵抗する大きな青年運動は形成されなかったからである。
 青年の生活にとって身近なコムソモールの末端組織や地区委員会は、青年層の余暇の組織化を目的に80年代初頭からディスコやカフェを運営してきたが、これまでの経験と設備を生かしてこれらは徐々にコムソモール企業へと転化していった(100)。特に、「非公式団体」をコムソモールの傘下に取り込むことで、青年層の人気を得る、即ち利益の上がる事業を行うことが出来たのである(101)
 また青年層は、コムソモールの提供する新しい消費機会を受動的に享受するだけではなかった。自分達の望む商品やサーヴィスを自分達で供給しようとする若者も、コムソモールを利用した。前述の「非公式団体」のコムソモール事業への参加がそうであったし、読者からの呼び掛けを発端に『コムソモーリスカヤ・プラウダ』紙編集部が若者向け商品を企画する会社の設立を発案し、読者のアイディアや資金を募った例もあった(102)
 青年自身が、コムソモールがその一翼を担う新しい市場制度とそれがもたらす消費機会の増大の最大の恩恵者であり、それゆえ市場化と消費主義の波に青年層とコムソモールが呑みこまれていってしまったといえるだろう。こうした青年層の動向とコムソモールの関係を考察することは、コムソモール自身の崩壊に到る帰趨を理解するうえで不可欠な作業である。とりわけ、コムソモールが青年層の公式の世界とするならば、逆の存在である「非公式団体」がコムソモールの崩壊過程に与えた影響は極めて大きい。
 しかし、コムソモールが「非公式団体」の存在と活動をシヴィアに受け止め、彼らとの対抗・協力関係を課題として認識し始めるのは88年の後半に到ってからであり(103)、コムソモールと非公式団体との関係を本格的に検討することは別稿に委ねたい。
 ただ、この時期コムソモールは一方で新たなアイデンティティーを確立しようと試みながら、他方で旧来の公式の唯一の青年組織であるという地位に執着し、矛盾が生じ始めていたといえるだろう。コムソモールはなんのために存在するのかという問いは、コムソモール解散の最後の日まで続くのである。


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