CONTENTS

研究員の仕事の前線

2014年5月14日

スラブ・ユーラシアの今を読む:ウクライナ情勢特集5

クリミア現地を無視してはならない

松里 公孝


2008年8月の南オセチア戦争の際もそうであったが、旧ソ連の周辺部で紛争が起きると、ロシアと北大西洋同盟の競合の文脈で解釈される。紛争の最大当事者である南オセチアやクリミアの市民の意向は無視されるか、あるいは彼らが誰かの傀儡であるか、誰かの銃剣で脅されて投票する哀れな存在であるかのような報道がなされる。このような見方の背景にあるのは、ウクライナ、モルドヴァ、南コーカサスの政治を決めるのは、その国をめぐるロシアと欧米の間の力関係であるという「代理戦争」論である。



クリミア現地の観点からは、2009年以降の政治史は次のようにまとめることができる。2010年のヤヌコヴィチの大統領選での勝利に前後して、クリミアにはドネツィク州、特に同州の中規模都市であるマキーイフカ(マケエフカ)市から指導者が送り込まれ、現地指導者を従属させた。出身地をもじって、これら外来エリートは「マケドニア人」と呼ばれた。マケドニア人がヤヌコヴィチ政権から補助金を引き出して地域を力強く改造し、観光業を発展させる限りにおいて、クリミア人はその指導に従った。しかし、文化的な軋轢は残った。ドネツィク人の目には、クリミア人は怠惰で腐敗し、人を評価するに当たって業績主義的でなく、仲間贔屓ばかりするように見える。「クリミアはウクライナの中央アジアである」などと中央アジア人が聞いたら怒りそうなことをドネツィク人は平気で言う。クリミア人からすると、ドネツィク人の「上から目線」は時として耐えがたかった。


ユーロマイダン革命が過激化するにつれ、マケドニア人とクリミア土着指導者の間でくすぶっていた緊張が前面に出た。マケドニア人とそのリーダーであるアナトーリー・モギリョフ・クリミア首相は、ヤヌコヴィチの逃亡によって生まれようとしていたユーロマイダン政権とも交渉可能と考えた。クリミア土着指導者は、ユーロマイダン革命がクリミアに持ち込まれることを恐れ、モギリョフを強引に辞めさせて、より親露的なアクショーノフ政府を作り、ロシアの支援を要請した。


上記の過程で決定的な転換点となったのは、2月22日のヤヌコヴィチ大統領の逃亡である。ここで、ロシアとクリミア土着指導者は、モギリョフ首相を辞めさせる決心をした。クリミア・タタールがこれに抵抗し、2月26日にはモギリョフを辞めさせるための最高会議の開催を阻止しようとするクリミア・タタールとスラブ系住民の間で衝突が起き、スラブ系住民2人が心臓麻痺などで死んだ。クリミアのスラブ系住民は、これをキエフのユーロマイダン派がクリミア・タタールを使い、人為的に民族紛争を起こしたものと解釈し、ますますその心はウクライナ離れした。プーチンがこの衝突の翌日、軍事行動を開始したとき、住民は歓呼してこれを迎えたのである。

ロシアの特殊部隊の庇護の下、モギリョフが27日に解任され、アクショーノフ政府が成立した後も、3月3日まで、クリミア指導部は、「住民投票の目標はクリミアの自治(オートノミー)を強めることだ」と宣伝していた。3月6日のクリミア最高会議は、住民投票の質問項目を、ウクライナが連邦化されることを前提にウクライナに残るか、ロシアに帰属換えするかの二者択一とした。3月4-5日にクリミアで、あるいはモスクワで何が起きたのか。これが今回のクリミア政変の最大の謎である。


(本稿は、『現代思想』7月号に掲載される拙稿「クリミアの内政と政変(2009-14年)」の要旨です)


メジリス(クリミア・タタール組織)議長レファト ・チュバロフと松里(2014年3月19日、シンフェロポリにて)

松里 公孝(まつざと・きみたか)

東京大学大学院法学政治学研究科教授 東京大学法学部卒、
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程退学、法学博士。北海道大学スラブ研究センター教授を経て現職。専門はロシア帝国論、旧社会主義諸国の政治。編著書に、『スラブ・ユーラシア学第3巻 ユーラシア-帝国の大陸』(講談社、2008年)、『シリーズ・ユーラシア地域大国論第2巻 ユーラシア地域大国の統治モデル』(ミネルヴァ書房、2013年、共編)などがある。

*本稿の内容は、スラブ・ユーラシア研究センターおよび執筆者の所属機関など、いかなる組織を代表するものでもなく、執筆者個人の見解です。

ページの先頭へ